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2017/03/03

柴田宵曲 妖異博物館 「異玉」

 

 異玉

 

 文政八年の三月、房州朝夷郡大井村の丈助といふ百姓が、朝早く苗代を見𢌞りに出て、田圃道を步いてゐると、靑天に雷のやうな音がして、五六間うしろの方に落ちたものがある。驚きながらもそこに行つて見れば、地に穴があるので、手拭を出してその穴を塞ぎ、周圍の土を掘つて見た。五寸ほど下から出て來たのは、光明赫奕たる雞卵のやうな玉であつた。これはいはゆるかね玉であらうと思ひ、家へ歸つて人々に見せたところ、これが本當のかね玉で、追々富貴になる瑞兆であらうと云つて、皆これを羨んだ。丈助は日頃正直な男であつたから、天の惠みがあつたものであらう、といふことになつてゐるが、その後の話は何も書いてない(兎園小説)。

[やぶちゃん注:「異玉」「いぎよく」と読んでいるか。「ことだま」では「言霊」と紛らわしい。

「文政八年」一八二五年。兎園会はこの年の一月十四日に第一回が開催されている。

「房州朝夷郡大井村」現在の千葉県南房総市大井。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「靑天に雷のやうな音がして、五六間うしろの方に落ちた」「五六間」は九メートル強から十一メートル弱。これはもう、隕石であろう。「かね玉」と呼ぶのも、叩くと金属性の音をする隕鉄(主に鉄とニッケルの合金からなる隕石。分離分散した小惑星の金属核が起源と考えられている)だからであろう。次の注も参照されたい。

「かね玉」ウィキの「金霊」(かねだま/かなだま)より引く。金霊・金玉は『日本に伝わる金の精霊、または金の気』を指す。『厳密には金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある』。『鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている』[やぶちゃん注:以下は所持する同画集を別に視認してオリジナルに判読して示した。読みは総て復元した。同ウィキにある同図の画像(使用可)も附しておく。漢詩の読みの一部は後ろに回しておいた。]。

 

Sekienkanedama

 

 金靈(かねだま)

金(かね)だまは金氣(きんき)也

唐詩(とうし)に不貪(むさぼらずして)夜(よる)識金銀

氣(きんぎんのきをしる)といへり又論語(ろんご)にも

富貴在天(ふうきてんにあり)と見えたり人善事(ぜんじ)

をなせば天より福(ふく)をあたふる

                事

 必然(ひつぜん)の理(り)也

ここに出る「不貪夜識金銀氣」は『中国の唐代の詩選集『唐詩選』にある杜甫の詩からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である』。[やぶちゃん注:杜甫の七律「題張氏隱居」(張氏の隠居に題す)の第五句で、詩としては「貪(むさぼ)らずして夜(よ)金銀の氣を識(し)り」と私は訓読したい。]『また「富貴在天」は文中にもあるとおり、中国の儒教における四書の一つ『論語』からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている』。『同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている』。享和三(一八〇三)年の『山東京伝による草双紙『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』では「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている』。『昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという』。『東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば幸運になれるといわれている』。『似た仲間に、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に記述されている「銭神(ぜにがみ)」がある。銭霊(ぜにだま)ともいい』、『黄昏時に世界中の銭の精が薄雲状となって人家の軒を通るもので、刀で切り落とすと大量の銭がこぼれ落ちるという。同書の著者・山岡元隣によれば、これは世界中の銭の精が集まって、空中にたなびいているのだと解説されている』。以下、「金玉」の項。『その名の通り』、『玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという』。『東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい』、『千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている』。『静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし』、『金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり傷つけたりすると、家は滅びてしまう』[やぶちゃん注:以下、本作の「兎園小説」や私の注とダブるが、後半の評が参考になるので一部をカットして引くこととした。]。「兎園小説」に『丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという』とあり、そこ『では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく金玉の方を語った話だと述べている』(下線やぶちゃん。以下、同じ)。『同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している』。『東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている』。

 以上は「兎園小説  第七集」、文政八年乙酉七月一日の兎園会での「文寶堂」(薬種商。詳細事蹟不詳)の報告の一つである「○金靈(かねだま)幷(ならびに)鰹舟(かつをぶね)の事」(読みは推定)。無関係なものが後に附くが、全条を吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。オリジナルに推定で歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

   ○金靈幷鰹舟の事

今玆(こんじ[やぶちゃん注:今年。])乙酉(きのととり)春三月、房州朝夷(あさい)郡大井村五反目(ごたんめ[やぶちゃん注:バス停で現存。の附近(ナビタイム・データ)。]の丈助といふ百姓、朝五時比(ごろ)、苗代(なはしろ)を見んとて立ち出でて、ここかしこ見過(みすぎ)し居(をり)たるをり、靑天に雷のごとくひゞきて、五六間後(うしろ)の方へ落ちたる樣なれば、丈助驚きながらも、はやくその處に至り見れば穴あり。手拭を出だしてその穴をふさぎ、おさへて𢌞りを堀りかゝり見れば、五寸程埋まりて、光明赫奕(かくやく)たる鷄卵(けいらん)の如き玉を得たり。これ所謂(いはゆる)かね玉(だま)なるべしとて、いそぎ我家へ持ち歸り、けふはからずもかゝる名玉(めいぎよく)を得たりとて、人々に見せければ、是やまさしくかね玉ならん、追々富貴(ふうき)になられんとて、見る人これを羨みける。丈助もよろこびていよいよ祕藏しけるとぞ。此丈助は、日比正直なる故、かゝるめぐみもありしならんと、きのふ房州より來て、わが菴を訪ひける堂村[やぶちゃん注:不詳。「同村」の誤りかと思ったが、大井村は明治時代に合併で出来た朝夷郡満禄(まろ)村に含まれるが、その合併した村の中に「石堂村」というのがあり、或いはそれか、又はそれ以前にはその地区に「堂村」なるものがあったものかも知れない。]の喜兵衞といふ人の物がたりしまゝ、けふの兎園にしるし出だすになん。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

其かね玉の事につきては、いさゝか考(かんがへ)もあれど、けふのまとゐ[やぶちゃん注:「圓居(まどゐ)」で、親しい者同士の集会、団欒の意。]のあるじなれば[やぶちゃん注:この折りの兎園会のホストの謂い。底本目次の柱に『於文寶堂集會』の語を見出せ、会の冒頭二篇(後半にも一篇あり)の計三本を彼が担当しているからである。]、ことしげくてもらしつ。猶後にしるすべし。[やぶちゃん注:「兎園小説」の後(第十二集まであり)及び「外集」の彼の報告にはそれらしいものは、ない。以下は無関係なところなので、読みは附さず(カタカナは原典のもの)、注もしない。【 】は原典の割注。]

 ことし乙酉の夏ほど、鰹の獵のありしこと、むかしより多くあらざる事なりとて、右の房州の客の語るをきくに、

東房州 小みなと 内浦 あまつ はま荻 磯村 浪太(ナブト) 天面(アマツラ) 大ま崎 よし淸 江見 和田

西房州 白子 千倉(チクラ) 平館 忽戸 平磯 千田 川口 大川 白有浦 野島 洲崎 館山 那古 多田羅 右は獵船の出づる所の地名あらましをしるす。壱ケ處にて釣溜【鰹の獵船を釣りためといふ。】十五艘、或は廿艘ばかりづゝも出づる中にも、あまつは二百艘も出づるよし、凡一艘にて鰹千五百本二千本づゝ、六月六日比より同十四五日比より同十四五日比は、每日打續き夥敷獵のありし事めづらしとてかたりしまゝ、筆のついでにしるしおきぬ。

 文政八乙酉初秋朔   文寶堂誌

   *]

 江戸の龜井戸に住む大工の何某が、夏の夜涼みに出たら、どこからか狐が一疋出て來た。その狐が手でころばすやうにすると、ぱつと火が燃え出る。不思議に思つて樣子を窺へば、火の燃える明りで蟲を捕るらしい。狐は蟲を捕ることに夢中になつて、近くに人がゐるのを忘れ、別に避けようともせぬので、手許へ玉のころがつて來たのを、あやまたず摑む。狐は驚いて逃げ去つた。玉は眞白で自ら光を放つ。夜人の集まつた時など、この玉を取り出してころがすと、ぱつと火が燃えて、付木(つけぎ)なしに明りの用を辨ずる。大工は大いに重寶して、二年ばかり所持して居つたが、その間一疋の狐が大工の身に附き添つて、晝夜とも離れない。年を經るに從ひ、大工も瘦せ衰へて來た。多分この玉の祟りだらうと皆に云はれるので、漸く玉を返さうと思ふ心が起り、或夜闇の中に投げ遣つた。狐は忽ち躍り上つてこれを取り返し、大工の方は何事もなかつた(譚海)。

[やぶちゃん注:以上は「譚海 卷之八」の「江戸龜井戸の大工狐の玉を得る事」。以下に示す。読点を増やし、推定で読みを歴史的仮名遣で補った。

   *

○江戸本所龜井戸の名主地面に住(じゆう)する大工某、ある夏の宵すゞみ居たるに、狐一疋出てあるきたるが、何やらん、狐、手にてまろばしやれば、ばつと火もえ出る、能(よくうかがひみれば、火のもゆる所をとめて、地をてらし、蟲をひろひて、くらふやうすなり。あやしく思ひて、段々ちかよりたるに、狐はむしをひろふ事に、人あるをもわすれて、いみさけず、度々(たびたび)まろばしきたりて、手元ちかくまろびきたるとき、大工、あやまたず、是をつかみければ、狐はそれにおどろきてにげうせたり。手にとりてよく見れば、しろき玉なり。珍敷(めづらしく)思ひて持歸(もちかへ)りて祕藏せしに、夜など會集の席にて、人人、歸るとき、草履(ざうり)など尋(たづね)けるに、此玉をとり出してまろばせば、例の如く火もえ出で、付木(つけぎ)をもちひず、あかりの用を辨じけり。いよく重寶して三年斗(ばか)り此玉を所持する間(あひだ)、狐一疋、とかく大工につきそひて、晝夜、はなれず。何となくとしへて、大工、瘦おとろへ、人も見聞(みききき)て此玉の祟(たたり)成(なる)べしなどいひしかば、大工も詮なき事におもひて、やうやう、玉をかへさばや、とおもふ心付(つき)けり。ある夜ものもとむるとて、心よりはるか外に玉をなげやりつれば、あやまたず、狐をどりよりて、やがて玉をとりてにげうせたりとぞ。其後大工は事なくてありとかたりし。

   *]

 この「譚海」の玉に似てゐるのが、「諸國里人談」に見えた京都の話である。元祿の初め頃上京の人が夜網を打ちに出ると、賀茂の邊で狐火が手許へ近付いて來た。取りあへず網を打ちかけたので、狐は一聲鳴いて去つたが、網の中に光るものがとゞまつてゐる。家に持ち歸つて翌日見れば、薄白い雞卵のやうな形で、晝は光りがない。夜に入ると共に光明を放つので、夜行の折など携へれば提燈より明るい。稀代の重寶として祕藏するうちに、或晩また網を打ちに出た。その時は例の玉を紗の袋に入れ、これを肘にかけて網を打つて居つたが、大きさ一間ばかりもあらうと思はれる大石が、突然川の中へざんぶと落ち、川水が十方へはね上つた。これはいかにと驚く途端に、玉の光りは消え、袋を探つて見ると、已に破れてゐて玉はない。二三間向うに光りの動くのを見て、網を擔いだまゝ追駈けたが、遂に取り返すことが出來なかつた。狐は一度も姿を見せて居らぬが、最初に近付いたのが狐火とあるので、大石を投げ込む拍子に取返したのも、狐の所爲といふことになるのである。

[やぶちゃん注:「元祿の初め」元禄は一六八八年から一七〇四年までの十七年。

「一間」は一メートル八十二センチ弱。

 以上は「諸國里人談」の「卷之三」の「狐火玉」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

元祿のはじめの頃、上京の人、東川へ夜川に出て網を打ける。加茂の辺にて狐火手もとへ來りしかば、とりあへず網を打かけゝれば、二聲鳴て去りぬ。網の中に光るものとゞまる。玉のごとくにその光り赫々たり。家に持歸り翌日これを見れば、その色うす白く鷄の卵のごとく、晝は光なし。夜に入れば輝けり。夜行の折から、挑燈にこれをうつせば、蠟燭より明らかなり。我重寶とよろこび秘蔵してけり。ある時又、夜川に出けるが、かの玉を紗の袋に入、肘にかけて網を打しが、大さ一間ばかりの大石とおぼしきもの、川へざんぶと落て、川水十方へはねたり。これはいかにと驚く所に、玉の光消たり。袋をさぐればふくろ破れて玉なし。二三間むかふに光りあり。扨はとりかへさると口おしく網を担て追行しが、終にとり得ずしてむなしく歸りぬ。

   *

文中の「東川」は「ひがしかは」で京の東を流れる賀茂川の異称。対語は西を流れる桂川の「西川」。「夜川」は恐らく「よかは」で「夜川網漁(よかわあみりょう)」即ち、夜の川漁で、狭義には鵜飼いをする川での漁に用いる語らしい。]

 玉を手に入れる順序といひ、雞卵の如くにして光を放ち、照明代用になるところといひ、全く同工異曲であるが、最後の一段に至つて、狐に投げ返すと、奪ひ返されるとの相違を生ずる。要するにこの玉は狐の所持品を奪つたので、天から降つたかね玉ではないから、結果がよくないのは當然であらう。

 田沼意次の退役した當時、寺社奉行を勤めた小大名の足輕が、夜中に柳原の土手で躓いた物がある。黑塗りの箱に眞田紐を掛け、中には更に被せ蓋があり、縮緬の合せ袱紗、綿入の袱紗などで包んだものが入つてゐた。これがまた例によつて雞卵より少し大きめの玉であつたが、上記のものと違ふ點は、手に摑めば人肌ぐらゐに暖かで、手を離せばもとの如く膨れるといふところに在る。それを懷ろにして歸り、足輕部屋で博奕を打つと、庭中座中總浚ひにしてしまふ。翌日神明の富突きに行けば、一の富に當つて百兩手に入る。全く拾つた玉の奇特に相違ないと話し合つたところ、狹い家中の事であるから、主人の耳に入り、遂に取り上げられ、びそかに公儀へ差上げたといふことであつた。元來この玉は天草陣の折、落城の跡にあつたもので、公儀の御寶物になつてゐたのを、如何にしてか田沼の手に入り、それ以來異常の立身をしたのであつたが、愈々退役となつた曉、こんな物を持つてゐてはどんな事になり行くか測りがたい。それを恐れてひそかに棄てたのを、偶然足輕が拾つたので、博突の儲けや一の富に當るぐらゐは、田沼の出世に比べたら、云ふに足らぬものであつた。只野眞葛が「むかしばなし」に傳へたこの話は、どれほど信を措いていゝかわからぬけれど、その人の分に應じて福を與へるのが、玉の靈妙なる所以かも知れぬ。何にしても不可思議な玉である。天草四郎より田沼意次に至る經緯に、空想的事實を取り合せれば、時代小説得意の種になるに相違ない。

[やぶちゃん注:「田沼意次の退役した當時」側用人田沼意次の失脚は彼を重用した第十代将軍徳川家治の実際の死去(天明六(一七八六)年八月二十五日。但し、広告による葬儀開始は九月八日)の二日後の八月二十七日(グレゴリオ暦九月十九日)で、この日に老中を辞任させられ、雁間詰(かりのまづめ)に降格葬送後二ヶ月後の閏十月五日(グレゴリオ暦十一月二十五日)には家治時代の加増分二万石を没収され、さらに大坂蔵屋敷の財産没収と江戸屋敷明渡も命ぜじられている(その後に蟄居となり、再度の減封を受け、家督を継いだ田沼意明(意次嫡孫)は陸奥下村藩に転出となり、現在の静岡県牧之原市にあった相良(さがら)藩居城相良城も廃城・打ち壊しとなり、城内の備蓄物も総て没収された(天明八(一七八八)年)。反以上はウィキの「田沼意次とそのリンク先に拠った)。ここは「退役した當時」とあるから、失脚直後の天明六年秋から閏十月五日(グレゴリオ暦十一月二十五日)の間、伸ばしても同年年末(但し、この年の大晦日はグレゴリオ暦では翌一七八七年二月十七日)の閉区間をロケーションと想定してよいであろう。

「柳原」両国橋西詰の北で東から流れ入る神田川の右岸(南側。現在の東京都千代田区東神田)で、西方の柳森神社(千代田区神田須田町に現存。(グーグル・マップ・データ))へ向かう土手道を「柳原土手」と称した。

「手に摑めば人肌ぐらゐに暖かで、手を離せばもとの如く膨れる」表現が不全。「手に摑めば」非常に柔らかで掌の真ん中にきゆつと縮み、それがまた「人肌ぐらゐに暖かで、手を離せばもとの如く膨れる」ぐらいは欲しい。これは柴田のモノグサ責任で、以下に見る通り、原典で眞葛はちゃんと描写している

「公儀」島原の乱当時の将軍は第三代徳川家光。話柄内で玉が城内に戻った時は第十一代徳川家斉。

「愈々退役となつた曉、こんな物を持つてゐてはどんな事になり行くか測りがたい」後の原文を見れば判る通り、こんなことは書いてない。どうも柴田のここでの訳は不適切である。そのそもがその玉で立身出世したのだから、この失脚も、亦盛り返すやも知れぬというわけで、ますます持って再起を決するだろう、あの田沼なら。それに差引零(栄光盛衰の)の不思議な玉を公儀が宝物として持ったらあかんやろ! いや?! そうか! 江戸幕府の終焉も、この玉のせいという訳か!

「天草陣の」「落城」島原の乱での原城落城は寛永十五年二月二十八日(グレゴリオ暦一六三八年四月十二日)。この由来で俄然、この不思議な玉に伴天連(バテレン)の妖術のイメージが賦与されていることが判るが、私はそこでやはり俄然、禁教のしかもその妖魔の具が、畏れ多くも「公儀の御寶物になつてゐた」というのはマズくないんかい? とツッコミたくなるのである。

 以上は「むかしばなし」の掉尾にある。国書刊行会「叢書江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

一、田沼樣退役有し當坐に、寺社奉行をつとめらるゝ、小大名のつかひ番の足輕、夜中に柳原の土手を通りしに、つまづきたる物有。よりてあかりにて見れば、眞黑ぬりの箱に、萌黃さなだの紐つきし物なり。其中をひらき見しに、またかぶせ蓋有て、ちりめんのあわせふくさ、又わた入ふくさなどに丁寧に包たる中に、卵より少しおほめなる玉入て有しが、手につかめば人肌ぐらひにあたゝかみ有、おせば少しふわふわといふくらひにやわらかにて、手をはなせば元のごとくふくれる物なりしとぞ。何かはしらずとりて懷中し歸り、主用終りて後部屋にてばくちをうちしに、座中惣ざらいをして、あくるひ紋付など、其頃はおほき物なりしを、いづれをつけてもあたりしほどに、おもしろくおもひ、神明に行て富をつけしに、一ノ富にあたりて百兩取しとぞ。誠にひろひし玉の奇特(きどく)ならんといひ合しを、手狹なる家中のこと故、だんだん上へも聞えしかば、其玉を上よといはれていだしたれば、取上と成しとぞ。ひそかに公義へさし上られしとの事なり。

 其玉は天草陣の落城のあとに有しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか田沼が所持して有しほどに、めきめきと立身出世せられしを、退役候後、御あらためあらん事をおそれて、ひそかにすてしをひろひしものにて、内々公義御たづねの品ゆへ、早速上られしと沙汰仕たりし。

 御城内へあらたに御寶藏立ておさまりしとの事なり。

   *]

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