虱捕り 山村暮鳥
虱捕り
虱とはどんなものか
虱を知らないひとたちがあるさうだ
それもすこしばかりでなく
たくさんにあるさうだ
そうしたひとたちは
自分のからだに虱を見ても
なんともおもはないであらうか
それを虱と知つたらばどうするだらうか
それを虱と知つたらば
どんなに赤い顏をするだらう
そしてひとびとのまへでは
爪でぷつりと
押潰すこともできないで
どんなに悚毛をよ立てるだらう
自分達の家庭では
これまで、虱といふ奴が
きはめてめづらしいものであつた
それが此の漁村にすむやうになつてから
そして近所の子どもたちが
家へあそびにくるやうになつてから
いつとなく、家の子どもたちの頭や肌着で
その蟲が
いかにしばしば發見(みつけ)られたか
はじめはかなりびつくりしたり
また無氣味にもおもつたりしたが
いまではもう慣れて
それほどにも感じなくなつてしまつた
冬が來ると
そこでもここでも虱捕りがはじまる
ほかほかと湯氣でもたてさうな日向で
妻は
そこらのひとたちがやつてるやうに
よく子どもたちのあたまを膝の上にのせては
そこで小さな蟲をさがしてゐる
それをみると自分はいつでも
動物園の猿をおもひだす
妻はいふ
(まあ、このきさざを御覽なさい
どうしたらいいでせう
いつこんなに殖えたんでせう)
自分ものぞいてみた
そしてさすがにおどろいた
(だが美事に生みつけたもんじやないか)
藥店できいたり
新聞でみたりして
あらゆることをやつてみたが、なんとしても
その小さい蟲の
不思議なほど強い生の力には
どうしても勝てなかった
それもだめ
これもだめ
何一つとしてやくにたつこと無かつた
またしても妻は言ふ
(どうしたらいいでせう、ねえ)
自分はあきれてだまつてゐた
妻はたうとうおもひ決して
そのぴつちやりとついてゐる子どもの頭の
無數のきさざをぬきはじめた
それこそ、それをかぞへうるのはただ
全智全能の神ばかりだといふそのかずかぎりない髮の毛
その髮の毛を雜草でもかきわけるやうにして
そのほそいかすかな一すぢ一すぢから
爪さきに熱心と愛とをこめてぬきはじめた
その砂でもふりかけたやうな蟲の卵を
一粒づつ
一粒づつと
ああ、貧乏に湧くものよ
母と子のその本能的な情意は
おまへらのやうに小さな汚い蟲の關係においてさえ
かうしてあきらかにみせられるものだが
それはまた何といふ美しさだらう
それを色彩や線條であらはすとすれば
まさに
聖畫の一つだ
冬が來ると
いたるところで虱捕りがはじまる
[やぶちゃん注:太字は原典では傍点「ヽ」。「だが美事に生みつけたもんじやないか」の「じ」、「おまへらのやうに小さな汚い蟲の關係においてさえ」の「さえ」はママ。
「虱」節足動物門昆虫綱咀顎目シラミ亜目 Anoplura に属する多様な種を指すが、ヒトに寄生して吸血するのは、ヒトジラミ科ヒトジラミ属ヒトジラミ亜種アタマジラミ
Pediculus humanus humanus 及び同亜種コロモジラミ Pediculus humanus corporis の二亜種と、ケジラミ科ケジラミ属ケジラミ
Phthirus pubis の三種で、ここに描かれるのは最初の挙げたアタマジラミである。
「どんなに悚毛をよ立てるだらう」彌生書房版全詩集は「悚毛」の「おぞけ」とルビする。
「また無氣味にもおもつたりしたが」彌生書房版全詩集は「また、無氣味にもおもつたりしたが」と読点が挟まる。
「(まあ、このきさざを御覽なさい」この「きさざ」虱の卵を指す古語。「きさし」とも。方言ともされるが、生きた虱を見たことのない私でもこの語は知っている。アタマジラミの卵はセメント様の物質で毛髪に貼り付けられ、容易には剝せない。ウィキの「ヒトジラミ」によれば、『卵は楕円形で乳白色を呈し、先端に平らな蓋があってその中央に』十五~二十穴の『気孔突起がある』。『産卵直後は透明で、後に黄色っぽく色づき、孵化直前には褐色になる。卵の孵化には約』一『週間を要する。孵化時には蓋が外れ、これが幼虫の脱出口となる』。なお、彌生書房版全詩集は、この初出部分の「きさざ」にも傍点「ヽ」を打っている。
彌生書房版全詩集版。太字は同前。
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虱捕り
虱とはどんなものか
虱を知らないひとたちがあるさうだ
それもすこしばかりでなく
たくさんにあるさうだ
そうしたひとたちは
自分のからだに虱を見ても
なんともおもはないであらうか
それを虱と知つたらばどうするだらうか
それを虱と知つたらば
どんなに赤い顏をするだらう
そしてひとびとのまへでは
爪でぷつりと
押潰すこともできないで
どんなに悚毛(おぞけ)をよ立てるだらう
自分達の家庭では
これまで、虱といふ奴が
きはめてめづらしいものであつた
それが此の漁村にすむやうになつてから
そして近所の子どもたちが
家へあそびにくるやうになつてから
いつとなく、家の子どもたちの頭や肌着で
その蟲が
いかにしばしば發見(みつけ)られたか
はじめはかなりびつくりしたり
また、無氣味にもおもつたりしたが
いまではもう慣れて
それほどにも感じなくなつてしまつた
冬が來ると
そこでもここでも虱捕りがはじまる
ほかほかと湯氣でもたてさうな日向で
妻は
そこらのひとたちがやつてるやうに
よく子どもたちのあたまを膝の上にのせては
そこで小さな蟲をさがしてゐる
それをみると自分はいつでも
動物園の猿をおもひだす
妻はいふ
(まあ、このきさざを御覽なさい
どうしたらいいでせう
いつこんなに殖えたんでせう)
自分ものぞいてみた
そしてさすがにおどろいた
(だが美事に生みつけたもんぢやないか)
藥店できいたり
新聞でみたりして
あらゆることをやつてみたが、なんとしても
その小さい蟲の
不思議なほど強い生の力には
どうしても勝てなかった
それもだめ
これもだめ
何一つとしてやくにたつこと無かつた
またしても妻は言ふ
(どうしたらいいでせう、ねえ)
自分はあきれてだまつてゐた
妻はたうとうおもひ決して
そのぴつちやりとついてゐる子どもの頭の
無數のきさざをぬきはじめた
それこそ、それをかぞへうるのはただ
全智全能の神ばかりだといふそのかずかぎりない髮の毛
その髮の毛を雜草でもかきわけるやうにして
そのほそいかすかな一すぢ一すぢから
爪さきに熱心と愛とをこめてぬきはじめた
その砂でもふりかけたやうな蟲の卵を
一粒づつ
一粒づつと
ああ、貧乏に湧くものよ
母と子のその本能的な情意は
おまへらのやうに小さな汚い蟲の關係においてさへ
かうしてあきらかにみせられるものだが
それはまた何といふ美しさだらう
それを色彩や線條であらはすとすれば
まさに
聖畫の一つだ
冬が來ると
いたるところで虱捕りがはじまる
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