老漁夫の詩 山村暮鳥
老漁夫の詩
人間をみた
それを自分は此のとしよつた一人の漁夫にみた
漁夫は渚につつ立つてゐる
漁夫は海を愛してゐる
そして此のとしになるまで
どんなに海をながめたか
漁夫は海を愛してゐる
いまも此の生きてゐる海を‥‥
じつと目を据え
海をながめてつつ立つた一人の漁夫
此のたくましさはよ
海一ぱいか
海いつぱい
否、海よりも大きい
なんといふすばらしさであらう
此のすばらしさを人間にみる
おお海よ
自分はほんとの人間をみた
此の鐵のやうな骨節(ほねぶし)をみろ
此の赤銅(あかがね)のやうな胴體をみろ
額の下でひかる目をみろ
ああ此の憂鬱な額
深くふかく喰ひこんだその太い力強い皺線(しわ)をよくみろ
自分はほんとの人間をみた
此の漁夫のすべては語る
曾て沖合でみた山のやうな鯨を
たけり狂つた斷崖のやうな波波を
それからおもはず跪いたほど
うつくしく且つ嚴かであつた黎明(よあけ)の太陽を
ああ此のあをあをとしてみはてのつかない大靑海原
大海原も此の漁夫の前には小さい
波はよせて來て
そこにくだけて
漁夫のその足もとを洗つてゐる
[やぶちゃん注:「据え」はママ。第二連末のリーダは原典二本を拡大して見てみると、最後に基線から右にずれるものの、第四点を視認出来るように感じられることから、四点とした。]