或る淫賣婦におくる詩 山村暮鳥
或る淫賣婦におくる詩
女よ
おんみは此の世のはてに立つてゐる
おんみの道はつきてゐる
おんみはそれをしつてゐる
いまこそおんみはその美しかつた肉體を大地にかへす時だ
靜かにその目をとぢて一切を忘れねばならぬ
おんみはいま何を考えてゐるか
おんみの無智の尊とさよ
おんみのくるしみ
それが世界(よ)の苦みであると知れ
ああそのくるしみによつて人間は赦される
おんみは人間を救つた
おんみもそれですくはれた
どんなことでもおんみをおもへばなんでもなくなる
おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時
それをみて石を投げつけたものは誰か
あの野獸のやうな人達をなぐさむるために
年頃のその芳醇な肉體を
ああ何の憎しみもなく人人のするがままにまかせた
齒を喰ひしばつた刹那の淫樂
此の忍耐は立派である
何といふきよらかな靈魂(たましひ)をおんみはもつのか
おんみは彼等の罪によつて汚れない
彼等を憐め
その罪によつておんみを苦め
その罪によつておんみを滅ぼす
彼等はそれとも知らないのだ
彼等はおのが手を洗ふことすら知らないのだ
泥濘(どろ)の中にて彼等のためにやさしくひらいた花のおんみ
どんなことでもつぶさに見たおんみ
うつくしいことみにくいこと
おんみはすべてをしりつくした
おんみの仕事はもう何一つ殘つてゐない
晴晴とした心をおもち
自由であれ
寛大であれ
ひとしれずながしながしたなみだによつて
みよ神神(かうかう)しいまで澄んだその瞳
聖母摩利亞のやうな崇高(けだか)さ
おんみは光りかがやいてゐるやうだ
おんみの前では自分の頭はおのづから垂れる
ああ地獄のゆりよ
おんみの行爲は此の世をきよめた
おんみは人間の重荷をひとりで脊負ひ
人人のかはりをつとめた
それだのに捨てられたのだ
ああ正しい
いたましい地獄の白百合
猫よ
おんみはこれから何處へ行かうとするのか
おんみの道はつきてゐる
おんみの肉體(からだ)は腐りはじめた
大地よ
自分はなんにも言はない
此の接吻(くちつけ)を眞實のためにうけてくれ
ああ何でもしつてゐる大地
そして女よ
曾て彼等の讃美のまつただ中に立ちながら
ひとときのやすらかさもなかつた
おんみを蛆蟲はいま待つてゐるのだ
あらゆるものに永遠の生をあたへ
あらゆるものをきよむる大地
此の大地を信ぜよ
人間の罪の犧牲としておんみは死んでくださるか
自分はおんみを拜んでゐる
彼等はなんにもしらないのだ
わかりましたか
そして吾等の骨肉よ
いま一どこちらを向いて
おんみのあとにのこる世界をよくみておくれ
[やぶちゃん注:太字「ゆり」は底本では傍点「ヽ」。七行目「おんみはいま何を考えてゐるか」の「え」、十五行目「おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時」の「え」、「神神(かうかう)しい」のルビ「かうかう」(二本を確認したが、現行諸本のように「かうがう」と後半は濁音にはなっていない。連濁でしかないない以上、濁音に《訂する》必要性を私は全く感じない)は、総てママ。「讃美」の「讃」は原典の用字。但し、最後から二行目の「いま一どこちらを向いて」は原典では「いま一どこららを向いて」となっていて、これでは読めない。これは最早、「こちら」の誤植と校正洩れしか思われない。現行諸本も無論、「こちら」となっているので、特異的に訂した。]