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2017/03/03

柴田宵曲 妖異博物館 「持ち去られた鐘」

 

 持ち去られた鐘

 

 大峯山は名だたる嶮山で、岩の中に路が幽かに通じてゐるに過ぎぬ。昔役行者(えんのぎやうじや)がはじめてこの山を踏み分けて以來、每年登る人は絶えぬが、容易に嶽上に到りがたい。然るに遠州長福寺の鐘が飛び來つて岩上にかゝつた。その鐘銘に「遠江國佐野郡原田村長福寺天慶七年六月二日」とはつきり記されてゐる。元來この峯は一人行くにしても、身を側めなければ通られぬ嶮岨である。鐘などを持つて上るやうな路ではない。そこへ鐘銘が遠國の寺と來てゐるので、吉野の俗説によれば遠州原田村長福寺の門前に山伏が居つて、貧乏の故に峯入りが叶はぬ。長福寺の住持これを憐れみ、金銀を合力して峯入りの行裝をとゝのへてやつたので、爾來每年怠りなかつた。その後住持が隱居し、後任は前任に倍する福僧だつたに拘らず、峯入りの入用銀を貸してくれない。當寺には鐘の外に金物がない、と白ばくれたところ、言下に大力の僧が現れて、この鐘を提げ、虛空を飛び去つて釋迦嶽の岩に掛けた。岩は今もあり、鐘掛石と云つてゐる(本朝故事因緣集)。

[やぶちゃん注:「大峯山」(おほみねさん)は奈良県南部にある山塊の総称。現在では広義には「大峰山脈」を、狭義には「山上ヶ岳(さんじょうがたけ)」を指すが、歴史的には現在の「大峰山脈」の中でも「山上ヶ岳」の南にある「小篠(おざさ)」から「熊野」までの連峰を指すものであった(また、「小篠」から「山上ヶ岳」を含み、尾根沿いに吉野川河岸までの部分を、先に出た「金峰山」と称した。以上はウィキの「大峰山」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)が「山上ヶ岳」でその北三百七十八メートルの直近にピーク「鐘掛岩」が現存するのが判る。

「遠州長福寺」現在の静岡県掛川市本郷にある曹洞宗安里山長福寺。(グーグル・マップ・データ)。神亀三(七二六)年に行基菩薩の開創と伝えられ、創建当時は真言宗、元慶八(八八四)年に延暦寺座主智証大師が再興して天台宗に、その後、曹洞宗に改められたと伝えられる。参照したサイト「掛川のお寺」のページによれば、同寺には境内に役行者(神変大菩薩)を祀る御堂があるとあり(明和三(一七六六)年再建)、「長福寺の鐘伝説」の項には、『当寺には昔竜宮より伝わる寺宝の梵鐘があった。長暦』(一〇三七年~一〇四〇年)『のころ、ある日山伏が来て修験の功験について住職と論じ勝った。帰りに寺の鐘を所望したため、住職はやむなく承諾すると、山伏は鐘を引っさげ』、『空中を飛行し消え去った』。後日、『この鐘は大和国の金峰山の頂上にかかっていた』という。『今なお』、『奈良県吉野郡の大峰山山頂の大峰山寺に国の重要文化財として現存している』とある。

「天慶七年六月二日」ユリウス暦九四四年六月二十四日。

「側めなければ」「そばめなければ」で、横にしなければ、の意。

「合力」「かふりよく(こうりょく)」。援助すること。

「行裝」「ぎやうさう」。

「釋迦嶽」奈良県吉野郡十津川村に同名のピークがあるが、位置が違う。但し、ここはむ大峯山系の山の一つであるから、何らかの誤認かと思われる。

「本朝故事因緣集」以上は同書の「卷之二」の「一 大峯山(オホミネサン)釋迦嶽(シヤカガタケノ)鐘」である。「国文学研究資料館」公式サイト内のここから画像で読める。]

 この話は「甲子夜話續篇」にも出てゐるが、不思議な事に話が二つになつてゐる。一方は駿州榛原郡長泉院で曹洞宗、一方は「故事因緣集」と同じ長福寺で、これは眞言宗らしい。山伏が行乞に來た時、住持はたまたま圍碁の對局中で、鐘でもよければ持つて行けと云ひ、山伏が錫杖に鐘を掛けて擔ぎ去る、といふ本文は同じである。圍碁の人は夢中になるためいろいろな話が傳はつてゐるから、これはあとから附け足したものであらう。長泉院の方はこの事を承應年中の事とし、その後鐘を鑄ても音が出ず、安永頃まで同樣であつたが、一夜靈夢を感じ、その告げに任せ、寺の境内を掘つて、應永年中にこの寺の前任の鑄た鐘を得るといふ後日譚がある。應永末年から計算しても、承應までは二百三十年に近い。承應から安永まで約百二十年だから、三百五十年近くの間、鐘は寂然として地中に埋つてゐたと見える。長福寺の方は一たび持ち去られて以來、寺中に鐘がない。たまたま鑄ても出來ず、他から求めて置けば必ず災異があるので、今に鐘を寺内に禁ずとある。今なら同じ靜岡縣下に在つて、寺の名も長の字を同じうしながら、傳はる話が大分違ふので、松浦靜山侯も判定しかねたのであらう。「此二説ひとしからず、要するに奇異の事也」と記してゐる。この話の山は錫杖に掛けて鐘を持ち去る一段に在る。長福寺は東海道より二里ばかり、秋葉山へ行く路傍にあるといふ話だから、山伏より進んで天狗に結び付く因緣がないでもない。

[やぶちゃん注:「駿州榛原郡長泉院」榛原は「はいばら」と読む。不詳。現存しないか。

「長福寺」「これは眞言宗らしい」静山が記載した時点では曹洞宗で誤りだし、それ以前も天台宗、真言宗だったのは創建時であって、記載としては全く正しくない。前の私の注を参照されたい。

「行乞」「ぎやうこつ」。托鉢(たくはつ)。

「承應」一六五二年から一六五四年。

「安永」一七七二年から一七八〇年。

「應永」一三九四年から一四二七年。

「長福寺は東海道より二里ばかり、秋葉山へ行く路傍にある」前の注の地図で判るが、同寺の南西二〇キロほどの位置に天狗所縁の秋葉大権現を祀る秋葉山(あきばやま)がある。

「甲子夜話續篇」縦覧したが、見出せない。発見し次第、追記する。悪しからず。【2018年8月9日追記:「甲子夜話卷之十」の「駿州長泉院【或云、遠州長福寺】〕古鐘」である。】]

 持ち去られた鐘がいくら撞いても鳴らぬ話はよくある。田原藤太秀郷が龍宮から持ち歸つた鐘なども、三井寺に納めてあつたが、文保の三井寺炎上の際、延曆寺へ取り寄せ、朝夕に撞いても更に鳴らぬ。山法師ども大きな撞木を拵へ、二三十人がかりで鐘も割れよと撞いたら、鯨の吼えるやうな聲を出して、三井寺へ行かう、と鳴り渡つた。衆徒いよいよこれを憎み、無動寺の上から數千丈の岩の上をころがした。この鐘微塵になつたのを、取り集めて三井寺に送つたら、一尺ばかりの小蛇來つて、尾で叩いてゐたが、一夜にしてもとの鐘になつたと「太平記」に書いてある。大峯に持ち去られた鐘が鳴らぬのならともかくも、長福寺の方に異變を生ずるのは、かういふ類話の中でも調子が違つてゐるやうである。

[やぶちゃん注:「文保の三井寺炎上」三井(みい)寺は長等山(ながらさん)園城(おんじょう)寺の通称。ここは文保三(一三一九)年に比叡山の僧兵によって焼き討ちされた。

「無動寺」(むどうじ)は現在の滋賀県大津市にある比叡山延暦寺東塔無動寺谷にある塔頭。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「太平記」の「卷第十五」の「三井寺合戰竝(ならびに)當寺撞鐘事付(つけたり)俵藤太(たはらとうだの)事」の末節。この前に知られた藤原秀郷の琵琶湖の龍女との邂逅とその依頼による三上山の百足退治の話が載る。退治に成功した秀郷は龍神から『太刀一振・卷絹一・鎧一領・頸結いたる俵一・赤銅(しやうどう)の撞き鐘一口』を礼として貰ったが、その鐘がこの鐘であった。なお、彼の通称「俵藤太」は、この褒美の一つ、米の尽きない不思議な俵に因むとある。

   *

鐘は梵砌(ぼんぜい[やぶちゃん注:寺の境内(にあるべき)。])の物なればとて、三井寺へこれを奉る[やぶちゃん注:藤原秀郷が主語。]。文保(ぶんぽう)二年、三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これを撞きけるに、敢へて少しも鳴らざりける間(あひだ)、山法師ども、「憎し、その儀ならば鳴る樣に撞け」とて、撞木(しもく)を大きに拵へて、二三十人立ち懸かりて、割れよとぞ撞きたりける。その時、この鐘、鯨(くじら)の吼(ほ)ゆる聲を出だして、「三井寺へゆかう」とぞ鳴いたりける。山徒、いよいよこれを憎みて、無動寺の上よりして數(す)千丈高き岩の上を轉(ころ)ばかしたりける間、この鐘、微塵(みぢん)に碎けにけり。今は何の用にか立つべきとて、その割れを取り集めて、本寺[やぶちゃん注:三井寺。]へぞ送りける。ある時一尺ばかりなる小蛇(こへび)來たつて、この鐘を尾を以つて叩きたりけるが、一夜の内にまた本の鐘に成つて、疵(きず)つける所一つもなかりけり。されば今に至るまで、三井寺にあつてこの鐘の聲を聞く人、無明長夜(むみやうぢやうや)の夢[やぶちゃん注:正法(しょうぼう)を知らず道理も弁えぬ、恰も長い長い闇夜に閉じ込められたかのようなこの俗世。]を驚かして慈尊(じそん)出世の曉(あかつき)[やぶちゃん注:弥勒菩薩が兜率天での修行を終えて衆生済度のために如来となってこの世に来臨すること。釈迦没後五十六億七千万年の後とされる。]を待つ。末代の不思議、奇特(きどく)の事どもなり。

   *]

 

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