柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(5) /「空を飛ぶ話」~了
「我衣」に出てゐる話は晝間ではない。夜半過ぎの月夜の室に、花火のやうなものが出たかと思ふと、そのあとから狩衣を著けた人の靑馬に乘つて行くのが見えた。馬の膝より上は見えて、蹄のあたりは見えなかつたとある。この事は「街談文々集要」にもあり、「我衣」とは一日の相違があるが、場所も兩國廣小路、萌黃の狩衣を著けた馬上姿、馬の先に火の玉が飛んだといふ點まで一致してゐるから、先づ同じと見てよからう。この姿を見た時、皆恐怖して目と目を見合せ、女などはその晩眠れなかつたと「我衣」は云ひ、廣小路へ出る講釋師で、翌日早速この話をした者があつたと「街談文々集要」には書いてある。今ならニュースのハシリを使つたものらしい。
[やぶちゃん注:「我衣」以前に述べた通り、同書は所持しないので確認出来ないが、幸い、きりよん氏のブログ「きよりんのUFО報告」の「日本における神火-その絵画的表現からの問題提起-48」に引用されてあるのを発見したので、以下に恣意的に正字化して引かせて戴いた。
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多紀安長先生の三番目の弟は、貞吉殿とて、幼稚より醫をきらひ、儒學の功つもりて一家をなし、頗る雅も有りて、醫學館の傍らに住まれし。七月十八日の夜、家内の男女三四人連れて、兩國橋に暑をさけんと、夜行の歸りは九ツ時[やぶちゃん注:午前零時。]過ぎにや成りけん。廣小路も人まばらにして、月さへよく照り增したるに、いがらしが家の上ころと覺へし所より、花火の如き物出て、元柳橋の方へゆらめき行く。あれよと見上げたるに、その後より狩衣を着たる人の靑馬に乗りて宙を行く。その高さ一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]ばかり上なり。馬の膝より上は見えて、蹄のあたり見えず、皆恐怖して目と目を見合せ、茫然たるばかりにて、女などは戰慄して宿所に歸りて、その夜一目も合はずと。その兄御成山崎宗固に右の趣語られしを、師君の御城直に於て聞かれしと予に語り給ふ。いかなるものなるや。不審の極といふべし
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「街談文々集要」石塚豊芥子(別名・集古堂豊亭)が文化文政期(一八〇四年~一八二九年)の巷間の話題を書き記したもの。やはり所持しないが、前のきりよん氏の同記事に合わせて引かれてあったので、やはり正字化して引用させて戴いた(そこには引用を「街談文々集要」の『丙の中』としておられる)。途中に挟まれているきりよん氏の注は省かさせて貰った。
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文化十三年七月十七日の夜、萌黃(もえぎ)の狩衣を着し、あし毛の馬に乘りて天を飛びしものあり。兩國廣小路にても見しもの多くあり。このとびものの時、馬の先へ立て火の玉も飛びしよし。翌日廣小路の講釈師、この事を咄したるよし。奇怪なる事なり。
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「文化十三年」は一八一六年。但し、「我衣」の記事は年号を示しておらず、柴田が言うように、これが同じものと推定してよいかどうかは私は微妙に留保するものである。]
本郷五丁目の伊勢屋吉兵衞といふ者が見たのは晴天の眞晝であつた。物干に仰向きになつて空を眺めてゐると、一點の雲もない空を、東の方から悠々と通過する者の形が繪に書いた麟麟に似てゐた。誰か呼んで見せたいと思つたが、あいにく傍に人が居らぬので、自分だけで見るより仕方がなかつた。次第に北西の方へ行つて、遂に何も見えなくなつた。 ――これも「我衣」の記事である。
「奇異珍事錄」の傳へてゐるのは牛込筑土邊の話で、七ツ過ぎ(午後四時)と覺しき頃、一羽の鶴が西から東へ飛んで行つた。その鶴の背中に小さな仙人が乘つて、何か卷物のやうなものを見てゐた。あツと思ふうちに、向う屋敷の屋根に隔てられて見えなくなつてしまつたが、鶴は鳶ぐらゐの大きさに見えたさうである。これらの話が悉く江戸の町中であるのは、ちょつと不思議なやうな氣がする。
[やぶちゃん注:以上は同書の「二の卷」の掉尾にある「仙人」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]
「四不語錄」にあるのは大分古く、寛永年中の話で、甲胃を背けた武士が馬に乘つて虛空を飛びめぐるのを、多くの人が見たといふのであるが、これもまた江戸であつた。
[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「四不語錄」を私は所持しないので原典を示せない。]
鶴に乘るのは仙人として寧ろ平凡な光景だといふ人があるかも知れぬが、日本の例だけではいさゝか物足らぬから、支那の變つた例を「尚書故實」から出して置かう。盧某なる人が或日澄み切つた碧空を仰いでゐると、仙人が鶴に乘つて通過するのが見えた。それも一羽の鶴でなしに、前後に何羽も飛んで居り、たまたま一羽の鶴の背から他の鶴の背へ來り換へるのを見た。その狀は恰も人が馬を換へるやうであつたといふのである。これは慥かに珍しい。碧空の高きに在つて鶴から鶴へ乘り換へるなどは、考へただけでも目がくらむやうな氣がするが、谷に墜落して水瓶を破碎した松葉食ひの僧とは違ふ。眞に仙界の修行を積んだ者なら、平然としてこんな放れ業を演じ得るのであらう。鶴背の仙人を平凡だと云つたのは、無論單騎獨行の場合なので、鶴の乘り換へならば特筆大書して差支へあるまい。
[やぶちゃん注:「尚書故實」晩唐代の李綽(りしゃく)が著した小説集。上記は以下。
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又説表弟盧某、一日碧空澄澈、仰見仙人乘鶴而過、別有數鶴飛在前後、適睹自一鶴背遷一鶴背、亦如人換馬之狀。
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吾々が讀んだ範圍に於て、最も美しい感じがしたのは「閲微草堂筆記」の中の一話である。尤もこれは空を飛ぶといふほど高空の話ではない。或庭の花盛りの時、女達がしきりに騷ぐのを聞いて、そつと窓を明けて見たら、桂の木の梢に掌ほどの蝶が舞つて居り、その蝶の背に紅い著物を著た、拇指(おやゆび)ぐらゐの女の子が坐つてゐるのであつた。蝶はひらひらと垣根を越え去つたが、鄰家の兒女もこれを見付けて聲を揚げた。或者は花月の妖であるかと疑ひ、或者は小さな人形を蝶の背中に縛つて放したのだらうと云つた。倂し目擊者に云はせると、その蝶に乘つた女の子の樣子は、あだかも馬を駕馭するが如くで、俯仰顧眄する意態も決して人形の類ではなかつたと主張してゐる。西洋の童話の妖精に似た姿を、支那の書物の中に見出したのは、いさゝか意外であつた。
[やぶちゃん注:「閲微草堂筆記」「四庫全書」総編集を担当した清の官僚で学者の紀昀(きいん 一七二四年~一八〇五年)の書いた志怪稗史。以上は「第十五卷」の「姑妄聽之 一」にある以下。
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慎人又言、一日、庭花盛開、聞婢嫗驚相呼喚。推窗視之、競以手指桂樹杪、乃一蛺蝶大如掌、背上坐一紅衫女子、大如拇指、翩翩翔舞、斯須過墻去。鄰家兒女、又驚相呼喚矣。此不知爲何怪、殆所謂花月之妖歟。説此事時、在劉景南家、景南曰、「安知非閨閣遊戲、以通草花朶中人物縛於蝶背而縱之耶。」。是亦一説。慎人曰、「實見小人在蝶背、有磬控駕馭之狀、俯仰顧盼、意態生動、殊不類偶人也。」是又不可知矣。
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「駕馭」(がぎよ(がぎょ))は「駕御」とも書き、馬を自由に乗りこなす意。
「俯仰顧眄」(ふぎやうこべん(ふぎょうこべん))の「俯仰」は「俯(うつむ)くことと仰ぎ見ること・見回すこと」で、「顧眄」(「眄」は「見回すこと」「横目で見ること」)は「振り返って見ること」であるから、蝶を空中で馭するために、上下左右に目を配ることを指している。
「意態」挙止動作や行動姿勢のことであろう。]