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2017/03/06

柴田宵曲 妖異博物館 「魚石」

 

 魚石

 

「長崎の魚石」といふ話がある。長崎の伊勢屋といふ家で懇意にしてゐる唐人が、土藏の石垣に積んである小さな靑石を是非讓つてくれと云ひ出した。この石を一つ拔けば石垣が崩れるかも知れぬから、普請のついでに必ずのけて置きませう、と答へると、石垣を積み直すのに金がかゝるなら、この石の代として百兩出す、今度また來るかどうか知れぬから、是非とも今買つて歸りたい、と非常に熱心である。百兩の聲を聞いて、伊勢屋の主人は急に慾が出た。何とか彼とか云つて斷るので、唐人は逐に三百兩まで出すと云つたけれど、どうしても賣ることを承知しなかつた。唐人の船が出てから靑石を掘り出し、玉磨きの職人に鑑定させると、普通の石ではないやうだといふだけの事で、少しづつ磨かせても格別光りも出ない。鏨(たがね)を入れさせて見たら、石は二つに割れ、金魚のやうな赤い鮒が水と共に出て、直ぐ死んでしまつた。次の年千兩の金を持つて靑石を買ひに來た唐人は、この話を聞いて、淚を流した。あの石は天下の至寶である、氣永に周圍から磨り上げて、水から一分といふところで止めると、水の光りで透きとほつて、中を二つの金魚の遊び𢌞るのが見える、朝夕これを見る時は、心を養ひ命を延べる德があるといふので、王侯貴人は如何なる價を拂つても手に入れることを望んでゐる。自分はあれを持ち歸つて買ひ主を見付け、一生安樂に送るつもりであつた、その話をせずに默つて買ひ取らうとしたのが惡かつた、今度は千兩の三倍になつても買ふつもりで、この通りちやんと用意して來た、と云つて三千兩の金を見せたと「日本昔話集」(柳田國男)に出てゐる。つまり兩方とも慾があつたため、伊勢屋は自分の持つてゐた寶を失ひ、唐人は安く買はうとして失敗に了る。天下の至寶はかういふ人達の手には渡らぬものらしい。

[やぶちゃん注:「金魚のやうな赤い鮒」実在する種としては条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属ヒブナ(緋鮒)Carassius auratus が存在する。これはコイ目コイ科フナ属 Carassius の魚が突然変異によって黒い色素を欠き、赤変した個体或いは個体群をも広く指す。これらは黄色素胞は有しているため、黄色及びオレンジ色を呈している。参照したウィキの「ヒブナによれば、約一七〇〇年前に中国で発見されたフナの突然変異がルーツとされ、なお、その後の突然変異や人為交配による品種改良などによって金魚(フナ属キンギョ亜種キンギョ Carassius auratus auratus)が派生したとある。

「一分」(いちぶ)は三ミリメートル。

『「日本昔話集」(柳田國男)』は昭和五(一九三〇)年アルス刊で、日本児童文庫の十一で『「日本昔話集」(上)』として出版された。後、昭和九年に「日本の昔話」と改題して春陽堂少年文庫一〇八として刊行、さらに昭和十六年に三国書房から新訂版が出された。当該条は同書の「長崎の魚石」である。所持する筑摩書房文庫版全集(新字新仮名)のそれを加工底本としつつ、国立国会図書館デジタルコレクションの三国書房版の画像を視認して(当該開始ページは)表記正字正仮名に改め、以下に示す。三国書房版は総ルビであるが、読みは一部に留めた。踊り字「〱」は正字化した。太字は底本では傍点「ヽ」。

   *

 

   長崎の魚石(うをいし)

 

 昔支那の人をまだ唐人といつてゐました頃に、長崎の伊勢屋といふ家で、懇意にしてゐる唐人が一人ありました。それがもう國へ還るといふ前に、この家へ一度遊びに來まして、土藏の石垣に積んであった小さな一つの靑石(あをいし)を、立つたり腰かけたりしていつ迄も眺めてをりましたが、あの石をぜひ私に讓つて下さいと、熱心に主人に所望しました。私の方では不用のものだから讓ることはなんでもないが、この石一つ抜けば石垣が崩れるかも知れず、後(あと)の造作(ざうさく)がはなはだ面倒だから、この次渡つて來(こ)られる時までに、普請(ふしん)のついでがあらうから、必ずのけて置いて進上いたしませうと答へますと、石垣を積みなほすのに金がかゝるならば、この石の代(だい)として百兩の金(かね)を出します。私は今度又來るかどうかも知れないから、是非とも今買い受けて還(かへ)りたいと唐人が言ひました。伊勢屋の主人久左衞門は百兩の聲を聞いて、始めてこの石の貴(たふと)いものだということに心づき、少しばかり慾心を起して、却つて卽座に手放すことを惜(をし)み、なんだのかだのと斷りの口上(こうじやう)を設けて、しまいには三百兩まで出さうと唐人が言うのに、どうしても賣ることを承知しませんでした。それからいよいよ唐人の船が出てしまつてから、わざわざその靑石を掘り出して見ました。さうして玉磨きの職人を呼んで鑑定をさせましたが、いかさま普通の石ではないやうだといふばかりで、少しづつ磨かせてみても光も出(で)ず、別にこれぞと變つたこともありません。あまり不思議なのでたがねを入れさせてみたところが、ちやうど眞中(まんなか)から二つに割れて中から水が出て來てその水とともに、金魚のやうな赤い小鮒(こぶな)が、飛び出して直ぐに死んでしまひました。これはまことに惜しいことをした。三百兩の金を取り損なつたと言つてをりますと、次の年にはその同じ唐人が、今度は千兩の金を持つて、靑石を買ひに又遣つて來ました。伊勢屋は殘念でたまりませんから、くはしく樣子を話しますと、唐人も淚を流して悲しみました。あの石は私たちも名を聞いてゐるだけで、他(ほか)ではまだ一度も出くはしたこともない。魚石というこの世の寶であつた。あれを氣永(きなが)に周(まは)りから磨(す)り上げて、水から一分(ぶ)といふところまでで留(と)めると、水の光(ひかり)が中(なか)から透きとほつて、二つの金魚のその間(あひだ)に遊びまはる姿は、又とこの世にもない美しさであつて、それを朝夕に見てゐると自然に心を養ひ、命を延(の)べる德があると傳へられ、王侯貴人(わうかうきじん)は如何なる價(あたひ)を拂つても手に入れたいと望んでゐる品であつた。私はそれを本國に持ち歸つて買ひ主を見つけ、妻子眷屬とともに一生を安らかに送らうと思つてゐたのに、今やその願ひ事も空しくなった。かういふ天下の奇玉(きぎよく)の世に隱れ、又永く傳はらないのも天命であつたかも知れない。私は最初からこの話をして置けばよかつたのに、默つて買ひ取らうとしたのが惡かつた。今度こそは千兩がその三倍になつても、是非とも買ふ積りでこの通り用意をして來ましたと言つて、三千兩の金包(かねづつ)みを出して見せました。さうしてすごすごと支那へ歸つてしまつたさうであります。遠い國の商人(あきんど)は思ふことを顏に出(だ)さず、またどんな場合にでも直段(ねだん)の掛け引きをする癖があり、日本の商人(しやうにん)は物を知らずに、只(たゞ)慾ばかり深かつた爲に、昔は折り折りこんな飛(と)んでもない損をしたのださうであります。

   *

なお、この話は実は複数の書に載るもので、柴田も後でちょっと触れているが、私は既に同じ話を囊 之三 玉石の事を電子化訳注しており、その注で類似した木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)が発刊した奇石書「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)の中の「後編卷之二」にある「生魚石 九」に所収する話も電子化している(但し、こちらは首尾よくオランダ人がその石を入手している)ので、是非、参照されたい。]

 魚石の話は「寓意草」に出てゐるが、それは唐人でなしに紅毛人であつた。庭の傍にあつた一つの石を所望して、五兩の金を與へ、三年たつたら必ず來るから、石は倉にしまつて置いて貰ひたい、と云つた。然るに三年は疾くに過ぎ、六年目になつても來ないので、もうあの人の來ることはあるまい、どんなものであるか割つて見よう、といふので斧で割つたら、水と共に赤い魚が出た。翌年紅毛人が來てこの話を聞き、長大息してこの石の效能を述べることは、すべて「日本昔話集」と同じである。

「寓意草」の著者は、外記大久保忠淸の家で聞いたと云ひ、二十年ばかり前の事と記してゐる。

[やぶちゃん注:「寓意草」のそれは国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(右上の中ほどの『石の中にいきたるいをのゐることあり、アリョーシャが先のつかさしける人のかたりけり、二十ねんばかりさいつころ、紅毛人の長崎より發船するとて、やどのあるじよびて……』の部分)で視認出来る。なお、「寓意草」の著者岡村良通は元禄一二(一六九九)年生まれで、明和四(一七六七)年没であるから、上下限は大体引ける。]

 似た話はあるもので、延享の初めに下總の佐原の宿で聞いたのは、筑波山の麓の人の話の又聞きであるが、前年の冬、どこからともなく二人の人が來て、庭の石の中の一つを買はうと云ふ。價は一兩出すといふのを、その家の老人は信じなかつたが、いや決して僞りではない、これからまだ山へ入つて石を見なければならぬから、歸りにきつと貰ひたい、と約束して二人は去つた。そのうちに子供が山から歸つたので、この話をすると、それは何かわけがあるのでせう、持つて行くなら洗つて置いた方がいい、と云つて凍り付いた土を熱湯で洗ひ落した。歸り途に寄つた二人は石を見て、どうも殘念な事をした、湯で洗つてしまつてはもう用がない、と歎息する。持主の親子は腑に落ちず、どうして洗つてはいけませんか、と尋ねたら、石の善惡を知らなければ、その不審は尤もだ、自分達は江戸から來た者だが、近頃石の鑑別法を學んで、所々方々を經めぐり、漸くあの石を見付け出した、この中には魚がゐるのだが、湯で洗つたら死んでしまつたらう、割つて見ろ、といふことであつた。石を割つて見たところ、果して赤い魚の死んだのが二つ出て來た。この話には魚石の效能は書いてない。前の長崎の男は紅毛人に石の鑑別法を教へて貰ひたいと賴んだけれど、教へずに去つたとあり、こゝにもまた鑑別法の事がある。天下にさういふ石が存在することを知つた以上、その鑑別法を知りたくなるのが人情であらう。

[やぶちゃん注:これも「寓意草」の前の話の続き(の左上の真ん中辺りから)

「前の長崎の男は紅毛人に石の鑑別法を教へて貰ひたいと賴んだけれど、教へずに去つたとあり」「寓意草」の本文にそうある(の左上の前半部にある)。その後に以上の話柄が続く。]

「寓意草」にはもう一つ魚石の話があるが、これは全く種類が違ふ。信夫山の麓から掘り出した四尺ばかりの靑黑い石で、三尺ばかりの魚が付いてゐる。その魚は鱒(ます)に似て鱗があらく靑色であつた。目の中も生きた魚の如く、板に載せたやうに石に付いて居る。その魚は勿論石である。宿場の孫右衞門といふ者の家に置いてあつたのを、原新六郎といふ代官が檢見に來た際、將軍家に獻上すると云つて持ち歸つた。效能の事は見えぬが、恐らく珍石といふにとゞまるものと思はれる。

[やぶちゃん注:これはもう尋常な古代の魚の化石である。以上も「寓意草」のの左下末から次のページにかけて記されてある。]

「耳囊」に出てゐる長崎の魚石の話も同じ事であるが、「いつの頃にやありけん」とあつて、時代は書いてない。「九桂草堂隨筆」には、近江の人の藏する石の中に二小魚があり、割つたらその魚が出て、暫く躍つて死んだとある。著者廣瀨旭莊は「理ノ必ズナキトコロニシテ、事ノ或ハアルモノ、洋人ハ何ト云ハンヤ」と一語を插んでゐるが、憾むらくは簡潔に過ぎて、魚石の樣子はよくわからぬ。

[やぶちゃん注:『「耳囊」に出てゐる長崎の魚石の話』前に注した、囊 之三 玉石の事のこと。

「九桂草堂隨筆」以上は同書の「卷之八」の「水晶中水ある」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(右下中央寄りの条であるが、柴田が引くのは左上の前半辺りの一節である)で視認出来る。

「廣瀨旭莊」(ひろせぎょくそう 文化四(一八〇七)年~文久三(一八六三)年)は江戸時代後期の儒学者で漢詩人。]

「長崎の魚石」の原産地は支那であらう。話の中の登場人物に、唐人や紅毛人が出て來るのでも、その消息は推せられる。石を四方から磨り減らし、赤魚の遊ぶのを見て、養心延壽を樂しむなども、支那人の理想にぴつたり當て駿まるやうな氣がするが、さういふ原話はまだ見付からない。「金華子雜編」に徐彦なる者、海を渡るに先立つて、淺瀨の中で小さな琉璃瓶を發見した。大きさは赤子の掌ぐらゐ、長さ一寸ばかりの龜の子がゐて、瓶の中を往來旋轉し、暫時もぢつとして居らぬ。瓶の口は極めて小さいので、その龜がどうして入つたものかわからぬが、とにかく珍しいと思つて、拾つて自分のものにした。然るにその夕方から、何かの重みが船にかかるやうなので、起きて見たら、幾百とも知れぬ龜が、船に上つて來る。徐彦は恐ろしくなつて、これから大海を渡らうとするのに、どんな事が起らぬでもないと、例の瓶を取り上げて、海の中へ拗り込んだ。龜はそれを見て、皆どこへか行つてしまつた。後にこの話を多年航海を續けてゐる胡人に話したところ、それは龜寶といふもので、まことに稀世の靈物である、たまたまこれにめぐり合つても、福分の薄い者は仕方がない、もしこの寶を家に藏し得たら、無限の富を有するところであつたのに、と頻りに殘念がつた。魚でなしに龜であり、外からその動くのが見えるあたり、魚石とは趣を異にするけれど、一たびこれを手に入れれば無限の富に住し得るといふのだから、似たところがないでもない。魚石譚の特色は、まさにこれを所有しようとして失ふ點に在る。徐彦の龜寶もそこに此較對照すべきものがあるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「金華子雜編」南唐の劉崇遠(りゅうすうえん)著。二巻。以上は以下。中文サイトのものを加工して示す。

   *

徐太尉彦若之赴廣南、將渡小海、乾寧初、進位太保、崔涓忌之、乃以平章事爲淸海軍節度使。元隨軍將息,、於淺瀨中得一小琉璃瓶子、大如嬰兒之拳、其内有一小龜子、長可一寸、往來旋轉其間、略無暫已。瓶口極小、不知所入之由也、因取而藏之。其夕、忽覺船一舷壓重、及曉視之、卽有眾龜層疊乘船而上。其人大懼、以將涉海、慮蹈不虞、因取所藏之瓶子、祝而投於海中、眾龜遂散。既而話於海船之胡人、胡人曰、「此所謂龜寶也。希世之靈物、惜其遇而不能得、蓋薄福之人不勝也。苟或得而藏於家、何慮寶藏之不豐哉。」胡人歎惋不已。

   *

「徐彦」「じよげん」と読んでおく。

「琉璃瓶」「るりびん」「瑠璃瓶」に同じい。ここは中の亀がはっきりと判るのであるから、ガラス瓶と採ってよかろう。

「稀世」は「きせい」で世にもまれなこと。希代。]

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