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« 祈禱   山村暮鳥 / 初稿本「三人の処女」詩篇~了 | トップページ | 大宣辭   山村暮鳥 »

2017/03/19

囈語   山村暮鳥 / 聖三稜玻璃始動 附室生犀星序

 

聖三稜玻璃

 

[やぶちゃん注:以下、大正四(一九一五)年十二月十日人魚詩社刊(但し、初版奥附では「にんぎよ詩社」とある)詩集「聖三稜玻璃」の電子化注に入る。

 底本は所持する昭和五八(一九八三)年日本近代文学館刊「名著復刻 詩歌文学館〈紫陽花セット〉」の特製本復刻を用いた。但し、加工データとして「青空文庫」の正字正仮名電子テクスト(平成元(一九八九)年六月九日(初版)筑摩書房刊「山村暮鳥全集第一巻」底本(この親本は私の底本と同じ)・入力/泉井小太郎氏・校正/富田倫生氏・泉井小太郎氏)を使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 なお、底本の幾つかの画像を示した。この特装本は四六判変形の革装三方銀、箱入りという豪華本で、同並装の五十銭の十倍、定価五円で、物価指数から考えると現在の三万円弱ほどに当たり、実に高額の詩集であった。

 また、本詩集には特異な小紙片による投げ込みが挿入されてある。これは独立した小さな和紙の紙切れ(底本復刻本解説によれば、雁皮に楮を混入した素材と推定される)にやや薄い橙色で印刷されたもので(かなり読み難い)、一種の、本文の補足及び当該挿入部以降の創作年代やパート指示を示すもので、全八葉が、それぞれ定められた位置に手作業で挿し挟まれているという、非常に手の込んだものである。底本復刻ではそれも当該箇所に再現差し込みされている。以下で二枚目の一片(巻頭の引用詩とその後の遊び紙の間に挿入されてある)のみを画像で示した。今回はそれらも最初の一枚目を除いて定位置に電子化した。因みに、最初の一枚目は前の見返しとその後の遊び紙の間に挿入されたものであるが、印字は二行で、

 廣川松五郎氏  裝  畫

 レ・ダ・ヰンチ 口  繪

である(装幀画家と以下に示した口絵の作者レオナルド・ダ・ヴィンチの、謂わば、分離したキャプションである)に以下に示した。

 なお、本詩集は現行では「せいさんりょうはり」と当たり前に読まれているが、本詩集の室生犀星の序を読むまでもなく、これは「せい・ぷりずむ」と読むべきではないかと、大真面目に私は今思っている。実はこれは私の勝手な突拍子もない思いつきなどではない。事実、白神正晴氏は御自身の山村暮鳥研究サイト内の「山村暮鳥年譜」の本詩集の解説で、『「聖三稜玻璃」は「三稜玻璃」の頭に「聖」』と『付した暮鳥の造語で』『秀才文壇』第十五巻第十号(大正四年十月号)に『「『聖プリズム』もいよいよ出る。特製が馬鹿に高いので方々から苦情や嘆願がある。その結果が並製をどつさり拵へるやうになつた。金参拾銭、それに郵税が五銭。どうか買つてください。読んでください。たしかに秋宵しろがねの月近く、空中の楼閣でひもとくべきものにふさはしいと信ずる(福島県平町にて)」とある。従って書名は「セイント・プリズム」もしくは「セイ・プリズム」と読む。「セイサンリョウハリ」という一般読みは正しくない。「プリズム」とは言うまでもなくガラス製の分光器のことだが、「聖三稜玻璃」を「セイント・プリズム」と読ませるのは難しい。しかし暮鳥があえて『聖ぷりずむ』ではなく『聖三稜玻璃』と漢字名にしたのは、視覚的効果を期待して「三」という文字を生かしたかったからだろう。「三」は宗教的に聖性を意味するからである。暮鳥はこの頃の詩を「プリズムの聖霊」と呼んでいるが、この頃から自身を「プリヅミスト」』(「撰者妄語」(長詩)『新評論』大正四年五月)『と呼ぶようになる。また暮鳥の言うところの「プリヅミズム」』(『新評論』大正四年六月「長詩選評〔一〕」)『は「神秘象徴主義」とも解せる』と主張されておられるのである(下線はやぶちゃん)。

――「聖三稜玻璃」は「せいプリズム」である――母聖子テレジア七回忌の朝に――【2017年3月19日 藪野直史】]

 

Seipurizumuhako

 

[やぶちゃん注:以上、箱の表と背。]

 

Seipurizumuhontai

 

[やぶちゃん注:本体表紙・背・裏表紙。]

 

Seipurizumuldv

 

[やぶちゃん注:口絵。Leonardo da Vinci の描いたキリストの肖像。]

 

Seipurizumuveda

 

太陽は神々の蜜である

天涯は梁木である

空はその梁木にかかる蜂の巣である

輝く空氣はその蜂の卵である。

        
Chandogya Upa. ..

 

[やぶちゃん注:以上の引用は聖典チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(Chāndogya-upaniṣad)で、ウパニシャッド(サンスクリットで書かれたバラモン教の聖典であるヴェーダ(veda)の関連書のこと。「奥義書」などと訳される)でも最初期・最古層のものとされるヴェーダを代表する経典とされるものである。祭式に於いて旋律に合わせて歌われた讃歌(sāman)を収録した「サーマ・ヴェーダ」(Sāmaveda)に属する。]

 

Seipurizumunagekomi

 

こゝは天上で

粉雪がふつてゐる‥‥

生きてゐる陰影

わたしは雪のなかに跪いて

その銀の手をなめてゐる。

 

[やぶちゃん注:二枚目の投げ込みに書かれたもの。これは山村暮鳥自身のオリジナルな詩篇と考えてよかろう。謂わば、「聖三稜玻璃(せいプリズム)」世界への真正の序詩である。]

 

 

ぷりずみすとに與ふ

 

 尊兄の詩篇に鋭角な玻璃狀韻律を發見したのは極めて最近である。其あるものに至つては手足を切るやうな刄物を持つてゐる。それは曾ての日本の詩人に比例なき新鮮なる景情を創つた。たとへば湧き上るリズムをも尊兄はその氣稟をもつて中途で斬つてしまふ。又多く尊兄に依つて馳驅される詩句のごときもまつたく尊兄の創造になるものである。寒嚴なる冬の日の朝、眼に飛行機を痛み、又、遠い砂山の上に人間の指一本を現實するは必ずしも幻惑ではない。尊兄にとつては女人の胴體のみが卓上に輝いてゐることを常に不審としないところである。他人が見て奇蹟呼ばはりするものも尊兄にはふだんの事だ。尊兄の愉樂はもはや官能や感覺上の遊技ではない。まことに恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道である。玻璃、貴金屬に及ぶ愛は直ちに樹木昆蟲に亘り、人類の上に壙がつてゐる尊兄は曾て昆蟲に眼をあたへてからもう久しくなつた。今、尊兄は怪しき金属の内部にある最も緻密な幽暗な光と相對してゐる。今、尊兄は癲癇三魚形の上に登つてゐる。まことに尊兄の見るところに依れば珈琲茶碗はへし曲り、テエブルは歪んでゐる。

[やぶちゃん字注:室生犀星の序文である。太字は原典では傍点「ヽ」(以下、同じ)。なお、「玻璃、貴金屬に及ぶ愛は直ちに樹木昆蟲に亘り、人類の上に壙がつてゐる尊兄は曾て昆蟲に眼をあたへてからもう久しくなつた。」はママ。現行では「玻璃、貴金屬に及ぶ愛は直ちに樹木昆蟲に亘り、人類の上に壙がつてゐる。尊兄は曾て昆蟲に眼をあたへてからもう久しくなつた。」と二文であり、無論、それが正しいと思われるが、原典のここの組版では丁度、「壙がつてゐる」で改行されており、読者はそこに違和感を持たずに無意識切って読んでいたであろうと私は推測する。

「氣稟」「きひん」と読む。生まれつき持っている先天的な気質の意。

「馳驅」「ちく」奔走すること。

「ものまにあ」“monomania”。偏執狂。ギリシャ語(“monos”(「単一の」)+“mania”(狂気)に由来)精神疾患の一つ。患者が単一(群)の種の思考のみしか受け入れなくなる偏執症の一種。]

 

 真に嚴粛なるものは永遠の瞬間である。尊兄は自然人間に對して充分に嚴格なまなこを持つてゐる。その氣稟の餘りに熾烈なるために物象を睨んで終ることがある。おどかして見やうとする心は正しき心ではない私は尊兄の詩品におどかしを見るときほど不愉快なことがない。そのとき尊兄に憂鬱が腐れかかつてゐる。態度のみで終るのだ。

[やぶちゃん注:「おどかして見やうとする心は正しき心ではない私は尊兄の詩品におどかしを見るときほど不愉快なことがない。」はママ。現行では「おどかして見やうとする心は正しき心ではない。私は尊兄の詩品におどかしを見るときほど不愉快なことがない。」と二文であり、無論、それが正しいと思われるが、原典のここの組版では前段のそれと全く同じで丁度、「正しき心ではない」で改行されており、読者はやはり違和感なく読み過ごしていたものと思う。]

 

 尊兄の芸術について難解であるといふのは定評である。寡聞な私でさえ數多い手紙を未知既知の人から貰つた。ことごとく難解で、むづかしくて、ひとりよがりではないかといふびである。ひとしきり私でさえ世評に動かされて、尊兄を不快におもつた。しかし私には言へないことを尊兄は言つてゐる。私には見えないものを尊兄は見てゐる。私の所持しないものを尊兄はもつてゐる。そこが私とは異つてゐるところだ。それだけ私とは偉いところの在る證左である。

[やぶちゃん注:二ヶ所の「さえ」はママ。]

 

 私は思つてゐる。尊兄の詩が愈々苦しくなり、難解になり、尊兄ひとりのみが知る詩篇になることを祈つてゐる。解らなくなればなるほど解るのだといふ尊兄の立場を私は尊敬してゐる。誰にも解つて貰ふな。尊兄はその夏の夜に起る惱ましい情慾に似た淫心を磨いて光を與へることである。尊兄の理解者が一人でも殖えるのは尊兄の侮辱とまで極端に考へてもよいのだ。すくなくとも其位の態度で居ればよいのだ。解らなければ默つて居れ。この言葉を尊兄のまはりに呟くものに與へてやりたく思ふ。


         
千九百十五年六月、故郷にて

               室生犀星

 

 

[やぶちゃん注:原典では以下に目次(創作時期パートごとに空行が入っている)が入る。]

 

 

1945

  Ⅲ―Ⅴ

[やぶちゃん注:目次末と遊び紙の間の投げ込み紙片。]

 

 

 

囈語

 

竊盜金魚

強盜喇叭

恐喝胡弓

賭博ねこ

詐欺更紗

瀆職天鵞絨(びらうど)

姦淫林檎

傷害雲雀(ひばり)

殺人ちゆりつぷ

墮胎陰影

騷擾ゆき

放火まるめろ

誘拐かすてえら。

 

 

[やぶちゃん注:本詩篇は本詩集刊行の六ヶ月前の大正四(一九一五)年六月一日発行の北原白秋の主宰した巡礼詩社の機関誌『ARS』に発表された(以下の初出データは概ね、白神正晴氏の山村暮鳥研究サイト内の「山村暮鳥年譜」に拠った。以下ではこの注は略させて戴く)。同誌には萩原朔太郎内部に居る人が病氣に見える理由が発表されている(リンク先は私のブログの同初出形全文)。なお、標題「囈語」は長く私は「たはごと(たわごと)」と訓じ(意味はそれでおよいが、正確には訓は「うはごと(うわごと)」の方が一般的)、高校教師時代も、そう朗読してきた。しかし考えて見れば、このダダイズム的「優美なる死体」型衝突閃光言語遊戯の本文からして見れば、頭の刑法用語は総て音読みなわけで、この標題も硬く、音の「げいご」でよいような気が今はしてきている。]

 

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