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2017/03/08

柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」 / 「妖異博物館」(正篇)~了

 

 赤氣

 

[やぶちゃん注:「赤氣」は「せきき(せっき)」と読み、空に現れる赤色の雲気。また、彗星やオーロラともされる。後者のそれらしい本邦の最古の記載は「日本書紀」で「卷第二十二推古天皇紀」に「十二月庚寅朔、天有赤氣、長一丈餘、形似雉尾。」とある。]

 明和七年七月二十八日戊の刻(午後八時)頃から、京都の空が赤くなつた。鞍馬山あたりかと思へば、もう少し遠い。若狹あたりにしては少し近い。はじめは山火事だらうといふことであつたが、幾筋も光りが立ち、天末は南へかけてたなびくやうに見えるので、天の氣だらうといふことになり、騷ぎ立つた人々もしづまつた。若狹の人に聞いて見ると、酉の刻(午後六時)頃から北の空が薄紅く、夕日の名殘かと思ふうちに、戌の刻前から非常に赤くなつた。北の樣子を見屆けようとして舟を漕ぎ出した人もあつたが、赤いのは三里ばかりの間で、それから先は何事もなかつたさうである。後に諸國の話が傳はつて來たのに、松前の方も、長崎の方も、同日同刻に同じやうになつた。たゞ加賀の國では、その日の暮れ方、黑い雲の一群が海上にたなびく中に、赤い光りがほのぼのと見えたが、夕日の影でもなし、神鳴のやうでもない。そのうち夜になつて、赤い光りが天に上り海に下ると見るほどに、南北一面に充ち渡つた、といふのが少し違つてゐた。かういふ現象の先例に就いて、とかくの評判があつたが、或人の說に、かやうな年は必ず豐年であつたから、これはいゝ事のしるしであらう、といふことであつた(折々草)。

[やぶちゃん注:「明和七年七月二十八日」グレゴリオ暦一七七〇年九月十七日。当日の京都の日没は午後六時二分、若狭湾東北端の越前岬で六時一分、函館で五時四十四分、長崎で六時二十五分、金沢で五時五十九分であった(以上はしばしばお世話になっている個人サイト「こよみのページ」を使用させて貰った数値である)。

「折々草」は江戸中期の俳人・小説家・国学者であった建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:陸奥国弘前藩家老喜多村政方次男として江戸に生まれ、弘前で育った)の、元文四(一七三九)年(二十一歳)から宝暦七(一七五七)(三十九歳)に至る実に半生をかけた紀行文集。岩波新古典文学大系本を参考に、恣意的に正字化して示す。繰り返し記号や踊り字の一部を変更或いは正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

    同じ文月末の八日の夜の光りをいふ條件

 文月末の八日、いとあつかりしかば、我友がき來たりて、「東山の高き所にいきて涼みとらむ。いざ」ときこえしほどに、妹(イモ)共ゐて參りける。其家は左阿彌(サアミ)[やぶちゃん注:円山公園内に現存する料亭の名。]といふとよき家にて、いづべくもくまなく見わたさるゝに、涼しき風も吹入りて、人々こゝろよく酒うちのみて有に、戌の時斗(ばかり)にも侍らむ、爰にも麓(フモト)にも人立さわぎて、「北のかたの山に火つきてもえ出たり」といふに、欄(オバシマ)に立出てみれば、北とおぼゆる空はひたあかく成りて、家むらの事にはあらず、高山の林どもに火つきてもえのぼるならむと見ゆ。さはいづべならむ。くらまの山かとみれば少し遠(トホ)き方也。又若狹路の山かと見れば又近しとて、とりどりいひさわぐ間(アヒダ)に、かゞよふ光りの幾條(イクスヂ)も立ちのぼりて、天(アメ)のかぎりは南をさしてたなびきたるに、「こは火にはあらず。天の氣(キザシ)なり」といひ出るに、此先(サキ)いかならむとおもひはかられて、人々おぢたり。さてをかしかりつる興(コヽロズサミ)もなく成りたれば、皆かへりいなむとおもふ心のみして走り出ける。

 かく赤き氣(キザシ)の立のぼりしためしは、古き記(フミ)にも見え、近き御代々々にも侍りし事とて、物にもかいとゞめ、又ちかきほどなるはおぼえをりつる翁どもゝ侍れとて物がたりするなどは聞(キヽ)しが、まのあたりにかく見つるは、いとめづらかなりける。京(ミヤコ)の町々はことさらに立さわぎて、人は西東にはせ通り、時守(トキモリ)は鼓(ツヾミ)を早めてうちありく[やぶちゃん注:火災などの危急を知らせる早鐘・早太鼓の類いを打って警戒を促しているである。ここは火事と誤認したことによる。]。是らも、しばしゝてかの空の光りなりとおもひしよりさわぎは止(ヤミ)ぬれど、人皆外(ト)のべに立交りて、是はいかなる事ぞとてみる也。我が家にかへりても、これが末を見まほしくて、いねでみてあるに、赤き氣(キザシ)は東(ヒガシ)の空にめぐるさまにみえて、かの光り出たる條(スヂ)もうすく成行に、此まゝにて事もなく消うすべきなめりとおもひて、子二つ[やぶちゃん注:午前一時半頃。]ばかりまではおき居て寢つ。

 そが後若狹の人の來たりしにきけば、そのひの酉の時斗より、うすくれなゐに侍る氣(キザシ)の北の方にみえて侍るほどに、夕日の名殘(ナゴ)りにて侍るならむとおもひ居(ヲリ)しに、戌のかしら[やぶちゃん注:午後八時頃。]よりいと赤くなるまゝに、かのかゞよひ出る條(スヂ)もいやまさりて侍りき。海の上は唯血をそゝぎて侍るさまなれば、北の海のさまをみむとて、舟を出し漕いでゝ見れば、三里(ミサト)ばかりより此方の事にて、それより先べはさる氣(キザシ)も見え侍らざりしとなむ。

 又大和の人來たるにとへば、かの空の赤くなりたるを見しより、國中(クニナカ)の人立さわぎて、「京はひた燒(ヤケ)にやけうするなり。その中にいと赤く立のぼる光りは盧舍那(ルサナ)ぼとけの堂に火つきたる也」[やぶちゃん注:現在の京都府京都市東山区にある天台宗方広寺の大仏殿を指す。]とて、氏族(ウカラ)の京(ミヤコ)にはべるは、それとはむとて俄によそひ立て、走り登らむかまへどもす。又さなきは、「火の雨といふものゝ降きて、生たるかぎりはなくなる時也。はかなくおそろしき時ぞ來にける。是を遁(ノガ)れむには土(ツチ)の室(ムロ)に隱(カク)るゝぞよき」とて、古くて侍る穴どもの中に幾日(イクカ)も幾日かくれ居て、たうべむものゝかまへなども心きたなくして、もちはこびつゝたちとよむ[やぶちゃん注:群集が群れ立って騒いでいる。]。これは異國(コトクニ)にはなき事にて侍るが、大和の國には土(ツチ)の室(ムロ)とて所々に侍るが、皆古へに人の住ひける所也。さるは石もてうちかこみて、出入(イデイリ)の便(タヨ)りよりはじめて、水など流れ入るまじき方便(テダテ)までも、只今作り立たる斗にて、幾所(イクトコロ)も侍る也。それを人つたへていふ、むかし火の雨のふり來(コ)し時、人皆此穴にかくれて命をのがれしなりと。又其火の雨の事は、書(フミ)どもにしかとしるして侍るといふ。實(マコト)に氷雨(ヒサメ)と侍る事を、耳傳(ミヽヅタヘ)に火の雨とおぼえつるは理(コトワ)りぞかし。さてかく泣さわぐ間に、事もなきことなりとてやうやうにしづまりしと也。

 其外、東は松前の人のかたるも、同じ時同じさまなり。西は長崎の人のかたれるもまたしかり。唯加賀の人のかたれるぞ、少しことないける。そは其日暮(クレ)むず比、黑き雲のひとむら海上(ウミノウヘ)にたな引て侍るに、赤き色したる光りにほのぼのとみえけるを、夕日の影のさしわたるにもあらず、鳴神の光りにもおはさずよなどみる中に、やうやう夜にいりて、かの光り出る氣(キザシ)の天にのぼり海に下(クダ)ると見しより、北ゆ南に立みちにけりとぞいふ。

 さは、むかしよりかゝりし事のためしを物しりだちてかやかくいえど、或翁の、「おのれよくおぼえて侍る。これに違(タガ)はぬ氣(キザシ)の侍りし年は稻よくさかえて、國中(クニナカ)ゆたけく侍りし也。いとよきことにて侍りし」とかたりき。

   *

この第四段落目のソドムとゴモラみたようなパニックは、いやいや、まさにオーソン・ウェルズのラジオ・ドラマ「宇宙戦争」の引き起こしたそれ並みに凄い!

 

「想山著聞奇集」に「天色火の如く成たる事」とあるのも、同じ時の話である。これは名古屋に於ける見聞で、滿天平(ひら)一面に火の如くなつた中に、鰹の腹の如き薄白い筋があつて、自然と太くなり細くなり、螢の光りの息づくやうに見える、といふ特異な記述もある。倂しこの書物は嘉永二年の出版だから、「折々草」の文章を祖述したところが多く、諸國の消息を傳へてゐるのにも、「折々草」が當時のニュースをそのまゝ書いたやうな生趣がないのは己むを得まい。

[やぶちゃん注:「生趣」「せいしゆ(せいしゅ)」と読むのか? こんな日本語の熟語は私は知らぬ。中国語で「人生・生活の喜び」の意であるから、「生き生きとした、アップ・トゥ・デイトな面白さ」ということか。「生趣」ならぬ「生硬」な語で、私には却っていやらしい感じがする。

 以上は「想山著聞奇集」の「卷の參」の「天色火の如く成(なり)たる事」。【2017年5月4日改稿】当該書の同章を新たに電子化注したのでここにあったものを除去し、代わりに上記リンクを示した。

 

 大田南畝が「一話一言」に記した赤氣は、長さ凡そ九尺餘、幅五寸ばかり、地より離るゝこと五六丈とある。勿論下から見ての話だから、この寸法は目分量に過ぎぬが、山火事と間違へられるやうな大規模なものではなかつたらしい。關宿侯の臣池田正樹の記に、城中から見渡したところ、戌亥より少し子の方に寄つてゐたと書いてある。その色は眞の朱色で、上下ともにボツと隈取つたやうに見えた。かういふものが現れたので、明日は大雨だらうといふ話であつたが、果して少し曇つて來た。關宿から三里離れた古河でも同樣に見えたさうである。安永九年十二月十二日の夜の事で、酉の半刻(午後七時)から戌の刻(午後八時)に至つて消えた。遠近ははかり難いとある。

[やぶちゃん注:「九尺餘」二メートル七十三センチ以上。

「五寸」約十五センチ。

「五六丈」十六~十八メートル。

「關宿侯」下総関宿(せきやど)藩。下総国、現在の千葉県野田市関宿三軒家(ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の利根川の左岸茨城県猿島郡境町に相当する地域(ここ(グーグル・マップ・データ))をも城下町とした。「安永九年」(一七八〇年であるが、後注するようにこの日は既に翌一七八一年)とあるので、当時の藩主は第四代藩主久世広明(くぜひろあきら享保一六(一七三二)年~天明五(一七八五)年)。

「池田正樹」不詳。

「戌亥」北西。

「子」北。

「古河」関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する古河(こが)市。

「安永九年十二月十二日」グレゴリオ暦一七八一年一月六日

 既に述べた通り、「一話一言」は所持しないので、原典は示せない。]

 

「甲子夜話」に見えてゐるのは壬午九月とあるから、文政五年の事らしい。明和七年から算へると、五十二年後の話である。やはり日が暮れてから、黑雲の中に赤氣が立ち、南方より東方に至る。はじめはあまり高くなかつたが、次第に高く大きくなつた。一時足らずで消えたとあり、その圖が入つてゐる。これも「折々草」に記されたやうな大規模なものではなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」同書巻第二十の「壬午年白氣の事幷圖」である。【二〇二四年四月二十八日追記】「フライング単発 甲子夜話卷二十 29 壬午年白氣の事幷圖 / 甲子夜話卷二十 37 壬午の秋夜、赤氣の圖」で電子化した。

「文政五年」一八二二年。

 

「北窓瑣談」は天明三年九月の半ば頃は、夕日が光りなく、その色朱よりも赤く、子供達は每日日暮れに集まつて珍しがつたと云ひ、その月の末頃からは、滿天くれなゐになつて人の顏に映じた、東より北南に及び、初夜近くまでさうであつた、と書いてある。天明三年は「折々草」の記載より十三年後、「甲子夜話」の記載より三十九年前になる。

[やぶちゃん注:「天明三年九月の半ば頃」グレゴリオ暦では旧暦のこの年(癸卯(みずのとう))の九月十五日(この月は大の月)一七八三年十月十日。この異常な長期に渡る夕焼け現象は、私は恐らく、火山噴火による世界的現象だったのではないかと考えている。この年の旧暦七月八日には浅間山が大噴火を起こしているが、ウィキの「浅間山」によれば、実はこの同じ年の前半には『岩木山が噴火』(天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日))した『ばかりか、アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火』(ラカギガル割れ目噴火・六月八日(天明三年五月九日)と『グリムスヴォトン火山(Grímsvötnの長期噴火が起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガス』が成層圏にまで上昇してしまい、『噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから』、『北半球に低温化・冷害を生んだ。このため既に深刻になっていた』この年以前から続いていた『飢饉に拍車をかけ事態を悪化させ』、かの未曾有の天明の大飢饉が発生したと考えられているとあるから、そうした地球規模の天文の異常現象としてこれを捉えることは、強ち非科学的ではないように思えるのである。原典(後掲)を見ると、『土降(つちふる)』とあるのに注目されたい

「初夜」この謂いはやや長く、現在の午後六時から十時頃に当たる。

 以上は「北窻瑣談」(今まで注してこなかったが、正式な書名としては「窓」ではなく「窻」が正しい)の「卷之一」の終りの方の複数(四条)に記されてある異常現象の記載の一節である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して総て示す。《一》で示した柱は底本では本文上に単に「一」として突き出ているだけである。

   *

《一》天明癸卯(みづのとう)の仲秋、伏見へ行事のありしに、四方(よも)打曇(うちぐも)りてさながら春の日の霞籠めたるがごとくにて、それよりも甚だし。雨近きやと見れば、雲あるにはあらず。音羽山三ツの峰も見えず。大佛殿の棟も唯思ひやるばかりにて、程近き梢も少し黑みわたりたるばかりにて、松杉もわからねば、怪しう思ひつゝ、肩輿(けんよ[やぶちゃん注:駕籠(かご)のこと。])のすだれ打あげて詠めゆくに、道行(みちゆく)人も怪しみて、土降(つちふる)なりといひはやすに心付ば、げにさることなりけらしと思ほる。其次の日、又其次の日も同じけはひにて、日輪も光なく只月を服むが如くなり。板敷(いたじき)などには、灰の積りたるやうにて拂集むべし。猶しも人々に問に、土降(つちふる)にてぞ有ける。三日ばかりして空晴たり。

《一》同じき長月の半の頃は、夕日光なく唯朱よりも赤く、童などは暮ごとに立つどひつゝ珍らしがりき。

《一》其月の末の頃より滿天(まんてん)紅(べに)にして、人の顏に映ず。東より北南にも及べり。初夜(しよや)近き頃までも左ありき。

   *]

 

 以上の赤氣は見る人の目を驚かしただけで、それに隨伴した現象は何もない。「折々草」 の中の老人のやうに、豐年の兆といふならば、まことに結構な話であるが、數多い赤來の中にはさう樂觀出來ぬものもある。「北窻要談」の著者橘南谿は「東遊記」に名立崩れの話を書いた。「今年より三十七年以前」といふ今年を、しばらく同書の序文の末にある寬政七年と見て逆算すれば、寶曆八年の勘定だから、「折々草」と「甲子夜話」のほゞ中間に當る。この時上名立の人達は、夕方から船を出して沖へ釣りに出てゐた。鰈などを釣る場合は、八里も十里も沖へ出ることが珍しくなかつたが、ふと名立の方を顧みると、空が一面に赤くなつて大火事らしく見える。皆驚いて漕ぎ戾つたところ、陸は何事もなく、火事のことを聞いても、一向知らぬといふ。先づよかつたと圍爐裏の側で茶を飮んでゐるうちに、夜半過ぎた頃、どこかで大きな鐡砲を打つやうな音が聞えたきり、あとはどうなつたか知る者がない。その時うしろの山が二つに割れて海に沈んだとおぼしく、上名立の家は一軒殘らず陷沒した。木の枝にかゝりながら波の上に浮んで、不思議に助かつた女が唯一人あつたが、その女の話でも、鐡砲のやうな音がした後のことは全く夢中で、海に沈んだこともおぼえてゐない、といふことであつた。もし火事のやうな赤氣が見えなかつたら、沖へ出た男どもは死を免れる筈であつたのに、如何ともしがたい因緣だつたと見える。「名立崩れ」(岡本綺堂)といふ戲曲は、この事實を扱つたものである。

[やぶちゃん注:この現象は明らかに地震の先触れとしての発光現象(一説に地殻変動により地中で発生した電気の放電によるものともされるが、解明されてはいない)とよく合致している

「名立崩れ」「なだちくずれ」と読む。

「寛政七年」一七九五年。

「寶曆八年」一七五八年。誤り。柴田はちゃんと調べていない。名立崩れの発生は寛延四年宝暦元(一七五一)年(この年の十月二十七日に宝暦元年に改元)である。

 以上は「東遊記」の「卷之二」の「一三 名立崩れ」である。新潟県上越市名立(なだち)区名立小泊。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「名立崩れ」によれば、寛延四年四月二十六日(グレゴリオ暦一七五一年五月二十一日)にこの地で発生した、地震に起因する大規模な地滑り災害を指す。当時、『江戸幕府の直轄領であった越後国頸城郡(ごおり)名立小泊村(現・新潟県上越市名立区名立小泊)で発生した地すべり災害で』、『地震で誘発されたこの地すべりによって直下の漁村が一瞬のうちに埋没し』、実に四百六人もの住民が死亡したとされる。この日の未明午前二時頃、『越後国の西部、高田付近を震源とする宝暦高田地震が発生した。このときの揺れは沿岸地域にも被害を及ぼし、主要街道であった北陸道も各所で土砂災害により寸断された。中でも最も大きな地すべりとなったのが、この名立崩れである』。『海岸に沿って細く広がる名立小泊村の集落の背面にある海岸段丘から、幅約』一『キロメートルにわたり、一部の台地が塊ごと滑り落ちた。落ちた台地は、棚畑(たなばたけ)あるいは「タナ」と呼ばれ、元よりも半分ほどの高さまで落ちて、階段状になっているのが確認できる。それよりも下の部分は、土石流となって集落を飲み込み、海岸から沖に向かって』一〇〇『メートル以上の暗礁帯を形成した。現在の名立漁港の東防波堤は、その暗礁帯の上に築かれている』。『名立小泊村にあった』九十一『軒のうちわずか』三『軒を残し、集落のほぼ全域が海に押し流された。村民』五百二十五『人のうち残ったのは、海から這い上がれた者、旅で留守だった者などわずかに』百三十七人『であった。村の営みは立ち行かなくなり、参勤交代の宿役などの村の勤めを辞退し、幕府に復興のための資金援助の嘆願を行った。また、出稼ぎや奉公などで村を離れた者を呼び戻すため、諸国の領主に帰村させるよう高田の領主を通じて依頼した。集落が元の規模に戻ったのは』、百『年以上が経過してからのことである。『近年になるまでその被害の状況などは分からず、「助かった者妊婦一人」と記された江戸時代の紀行文「東遊記」などの伝聞によるもの程度であったが、梶屋敷村(現・糸魚川市)へ出張のため難を逃れた庄屋「池垣右八」が、当時の高田代官「富永嘉右衛門」に宛てた「恐れながら書付けをもってご注進申し上げます(乍恐以書附御注進申上候)」という題目の被害報告書の下書きなど関係文章が、昭和に入って発見されたことにより詳細な状況を知るところとなった』とある。以下、「東遊記」のそれを、かの変な東洋文庫版で示す。読みは一部に限った。

   *

 越後国糸魚川と直江津との間に名立という駅あり。上名立、下名立と二つに分かれ、家数(いえかず)も多く、家建(やだち)も大いにして、此辺にて繁昌の所なり。上下ともに南に山を負いて、北海(ほっかい)に臨みたる地なり。然るに、今年(こんねん)より三十七年以前に、上名立のうしろの山二つにわかれて海中に崩れ入り、一駅の人馬鶏犬(にんばけいけん)ことごとく海底に没入す。其われたる山の跡、今にも草木(そうもく)無く、真白にして壁のごとく立てり。余も此度(こんど)下名立に一宿して、所の人に其(その)有りし事どもを尋(たず)ぬるに、皆々舌をふるわしていえるは、「名立の駅は海辺(かいへん)の事なれば、惣じて漁猟(ぎょりょう)を家業とするに、其夜は風静(しずか)にして天気殊によろしくありしかば、一駅の者ども夕暮より船を催(もよお)して、鱈(たら)、鰈(かれい)の類(るい)を釣(つり)に出でたり。鰈の類は沖遠くて釣ることなれば、名立を離るる事八里も十里も出でて、皆々釣り居たるに、ふと地方の空を顧(みかえ)れば、名立の方角と見えて、一面に赤くなり、夥敷(おびただしく)火事と見ゆ。皆々大いに驚き、『すわや我家(わがや)の焼(やけ)うせぬらん。一刻も早く帰るべし』というより、各(おのおの)我一(われいち)と舟を早めて家に帰りたるに、陸(くが)には何のかわりたることもなし。『此(この)近きあたりに火事ありしや』と問えど、さらに其事なしという。みなみなあやしみながら、まずまず目出たしなどいいつつ、囲炉裏の側(かたわら)に茶などのみて居たりしに、時刻はようよう夜半(よはん)過ぐる頃なりしが、いずくともなく只一つ大なる鉄砲を打ちたるごとく音聞こえしに、其跡はいかなりしや、しるものなし。其時うしろの山二つにわれて、海に沈みしとぞおもわる。上名立の家は一軒も残らず、老少男女(なんにょ)、牛馬鶏犬までも海中のみくずとなりしに、其中に只一人、ある家の女房、木の枝にかかりながら波の上に浮みて命たすかりぬ。ありしこと共、皆此女の物語にて、鉄砲のごとき音せしまでは覚え居しが、其跡は只(ただ)夢中のごとくにて、海に沈みし事もしらざりしとぞ。誠に不思議なるは、初(はじめ)の火事のごとく赤くみえしことなり。それゆえに、一駅の者ども残らず帰り集まりて死失(しにう)せし也。もし此事無くば、男子(おとこ)たる者は大かた釣りに出でたりしことなれば、活(いき)残るべきに、一つ所に集めて後(のち)、崩れたりしは、誠に因果とやいうべき。あわれなること也」と語れり。

 余其後人に聞くに、「大地震すべき地は、遠方より見れば赤(あかき)気(き)立(たち)のぼりて火事のごとくなるもの也」と云えり。松前の津波の時、雲中に仏神飛行し給いしなんどということも、此たぐいなるべしや。

 此名立の駅は、古人、佐渡へ渡り給いし時一宿し給いし所なりとぞ。神主竹内太夫という者の家に古き短冊を所持せりという。其歌に、

  都をはさすらへ出でて今宵しもうきに名立の月を見る哉

 是は菊亭大納言爲兼卿(きょう)、佐渡配流の時、此駅にてよめる和歌なりという。或説に順德院の御製とも云う。余は其短冊みざりしかばいずれともしらず。されど、歌の体(てい)、臣下たる人の作にもやと思わる。又、名立の次に長浜という浜有り。「黄昏に往来の人の跡絶えて道はかどらぬ越の長浜」などいえる古歌もありと聞けり。誠に此あたりは都遠く、よろず心細き土地なりき。

   *

最後の「菊亭大納言爲兼卿」は鎌倉時代後末期の公卿で歌人の正二位権大納言京極為兼(建長六(一二五四)年~元徳四/元弘二(一三三二)年)。ウィキの「京極為兼」によれば、弘安三(一二八〇)年に『東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから』、永仁六(一二九八)年三月に佐渡国に配流となったが、五年後の嘉元元(一三〇三)年には『帰京が許されている』。正和四(一三一五)年の十二月二十八日のこと、得宗の身内人『東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁』し、翌年正月十二日には得宗領であった『土佐国に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した』。二『度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある』とある。先に掲げられた一首「都をばさすらひ出でて今宵しもうきに名立の月を見るかな」は正しく為兼の歌で彼の「佐渡志」に所収している。「黄昏に往来の人の跡絶えて道はかどらぬ越の長浜」は一部のデータでは西行法師の作とする。

『「名立崩れ」(岡本綺堂)といふ戲曲』大正三(一九一四)年一月一日発行の『新小説』に「脚本名立崩れ」として発表され、同年十一月に帝国劇場で上演されて、この古い事件が人々に知られるようになった。私は未読である。

 これを以って「妖異博物館」の正篇は終わっている。]

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