光 山村暮鳥
光
びんつけ油の匂ひ、
古めかしい髷の形、さては
鼈甲の中(なか)ざしの
飴色にきえやらぬ黑の斑。
手にさげたのは干鰈(ほしがれい)、
お婆さんの步みの遲さに
あとから蹤(つ)いてゆく心、
それが小さい悶えをする。
椿の花の落ちてゐる
崖下のうら路、
またも噎返(むせかへ)るやうな日向(ひなた)にでると
びんつけ油の匂ひ。
怖(こわ)い眼をぬすんで
そつと見つけた水すましよ、
脆く、とろけてゆくMOODの
泥溝(どぶ)には夢が光る。
[やぶちゃん注:「ほしがれい」と「怖(こわ)い」の「こわ」の双方のルビはママ。但し、底本では第二連三行目の頭「あとから」が「あとかな」になっている。流石に誤植と断じて特異的に訂した。彌生書房版全詩集も無論、「あとから」となっている。――この一篇――少年期の祕やかな隠微な記憶――私の偏愛詩の――一つ。
「斑」「まだら」或いは「むら」。
「水すまし」鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属する水面を素早く泳ぐ小型水棲昆虫。
「MOOD」「ムード」。]

