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2017/03/06

柴田宵曲 妖異博物館 「動く石」

 

 動く石

 

 下總國葛飾郡立石村の畑の中に、昔から高さ一尺ぐらゐの丸い石が一つある。畑の持主の新右衞門といふ人が、この石がなければ耕作に都合がいゝ掘り出してしまはうと云ひ出して、掘りはじめたところ、さほど根が深さうにも見えぬのに、掘つても掘つても掘り出せない。そのうちに日が暮れてしまつたので、また翌日の事にしようと云つて、掘りかけのまゝ歸つた。然るに翌日來て見れば、石はずつと地下に引込んで、一尺ばかりしか出てゐない。これなら埋めてしまはうといふので、上から土をかぶせて置くと、石は自然と拔け出して、地上に現はれること舊の如くである。これはたゞの石でないと、石の上に祠を建てたともいひ、祠は建てずに周圍に垣を結つただけだともいふ。立石村の名はこの石があるために起つたものではないかといふ說もある(兎園小說)。

[やぶちゃん注:「下總國葛飾郡立石村」現在の東京都葛飾区立石(たていし)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「立石(葛飾区)」によれば、町名の由来となった「立石様」(後のリンク先の写真を見ると、柱には「立石祠」とあり、鳥居があって祠が建っているが、その敷地全体は公園になっている)が現存する。同地は『古墳時代には既に拓けていたと考えられており、立石様の周辺には古墳(南蔵院裏古墳)が存在していた(この古墳は明治時代に破却された)。立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており』、古墳が造成された同時期に『千葉県鋸山付近より同地に持ち込まれ、奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたと考えられている』。室町期の応永五(一三九八)年に『記された「下総国葛西御厨注文」に地名としての立石が初めて登場する』とある(下線やぶちゃん)。私がしばしばお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の「立石様」をご覧あれ。それによれば、「新編武藏風土記稿」には(恣意的に正字化させて貰った)、

   *

稻荷社

立石稻荷と號す。これも神體石にて直徑二尺許、高さ一尺程下は土中に埋り、其形、伏し牛に似たり。此石冬はかけ損し、夏に至れば元の如くなれり。かく寒にかけ暑に癒ると云(いふ)は活蘇石なるへし。

   *

とあるとあり、幕末期でも約三十センチは突出しており、直径も六十センチはあったようであるが、現在では殆んど平たく、数センチ露出しているだけであることが写真で判る。

 以上は「兎園小説」の「第十集」で海棠庵(関思亮)が報告している「立石村の立石」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は原典割注。

   *

   ○立石村の立石

下總國葛飾郡立石村【龜有村の近村なり。】の元名主新右衞門が畑の中に、むかしより高き壱尺計の丸き石一つあり。近き比、【年月未詳。】當時のあるじ新右衞門相はかりて、さまで根入りもあるべくも見えず。この石なければ、耕作に便りよし。掘り出だしのぞきなんとて、掘れども掘れども、思ひの外に根入り深くて、その根を見ず。とかくして日も暮れければ、翌又掘るべしとて、その日は止みぬ。翌日ゆきて見れば、掘りしほど石ははるかに引き入りて、壱尺ばかり出でゝあり。こは幸のことぞとて、そがまゝ埋みて歸りぬ。又その次の日ゆきて見れば、石はおのれと拔け出でゝ、地上にあらはるゝこと元の如し。こゝにおいて、且驚き且あやしみ、その凡ならざるをしりて、やがて祠を石の上に建て、稻荷としてあがめまつれりといふ。【一說に、石のめぐりに只垣のみしてあり。祠を建てたるにはあらずとぞ。】今も石を見んと乞ふ人あれば、見するとなん。右新右衞門は木母寺境内にをる植木屋半右衞門が緣家にて、詳に聞きしとて半右衞門かたりき。おもふにこの村にこの石あるをもて、古來村の名におほせけん。猶尋ぬべし。

   *

ここで「近き比」(ころ)と述べており、同報告は文政八(一八二五)年十月であることから、話柄内時制はその少し前で、しかもその時既に「新編武藏風土記稿」と同じく「壱尺計の丸き石一つ」であったことも判明する。]

 

「梅翁隨筆」に見えた根張地藏は越後國梅崎の話で、これは往來の中に地藏の肩と、錫杖を持つた肩先とがちょつと出てゐる。昔からこれを掘り出さうとすれば、大雷大雨があるとか、祟りがあるとか、掘り出した土が一夜のうちに落ちて、穴が埋もれてしまふとかいふことで、かう呼ばれたらしい。正體が地藏であるだけに、立石村の石よりは手數がかゝつてゐたが、どうして地上に出ることを好まれぬのか、そこまでは書いてない。

[やぶちゃん注:以上は「梅翁隨筆」の「卷之五」の「越後根張地藏の事」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「一」は除去した。

   *

  ○越後根張地藏の事

越後國柏崎は富家軒をならべ、此邊りにての繁花の地なり。今は白川領となれり。此宿往來の中に根張地藏とて、土中より肩計出、錫杖をもちたる手先少し出たるあり。いにしへより是を掘出さんとするに大雷大雨し、或は祟り、又掘出せし土、一夜の中に落て穴埋もれ、終に分り得る事なきゆへに、根張地藏といふなり。

   *

無粋なことを言うが、これは伝聞の誤りか流言飛語の類いではなかろうか? 「柏崎市」公式サイト内の「柏崎市名所案内」の中に「ねまり地蔵(じぞう)」というのが現存するのであるが、これは埋もれて何ぞいない(恐らくはかつても)からである。そもそも地蔵が祟っては、これ、あきまへんがな!]

 

 元來動かぬ筈の石なればこそ、僅かな動きも問題になる。頭を地上に出したり引込めたり、その意志らしいものが現れるほど、怪異の度を增すわけである。更に石の動きが活潑になつたら、吾々は瞠目して引退るより外に途がない。米村平作といふ人が朝早く起きて、表座敷で若黨に髮を結はせてゐると、近い閑所の屋根石の中で、川石と山石とが互ひに動いてぶつかり合ふ。後には一二尺も飛び退いて、兩方から飛びかゝり、一二尺の空中で相打つ事、恰も鬪雞の如くであつたが、一つの石は鬪ひ負けた形で、屋根から地面に落ちると、もう一つの石も追駈けて下に落ち、地上でまた鬪ひ出した。そのうちに一つの石が眞二つに割れたら、二つとも動かなくなり、常の石と少しも變らなくなつた。若黨に見て來いと云つても、氣味を惡がつて躊躇してゐるので、平作自身庭に下りて見たが、石は寂然として微動だもしなかつた(雪窓夜話抄)。

[やぶちゃん注:「閑所」(かんじよ・かんしよ)で厠(かわや)のこと。当時は便所は屋外に別個建てするのが普通。

「川石と山石」視認していて判別出来るということは、「川石」は水流で丸くなっており、「山石」はごつごつとしているということなのであろう。

 以上は「雪窓夜話抄」の「卷上」の「米村氏怪異の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]

 

 倂しこれらは怪異に足を踏み込んだまでで、まだ妖を以て呼ぶ域には至つてゐない。「中陵漫錄」記すところの伊豆山中の話は、明かに石妖である。石の多く出る山の中で、石工が數人晝休みをしてゐるところへ、一人の婦人が現れて、皆さん一日中働いて、さぞお疲れでせう、私がこれから按摩して上げます、と云つて肩を揉み出した。非常にいゝ氣持で睡つてしまふと、その次の按摩に移る。數人順々に睡つて一人だけ殘つた時、どうもこの婦人は容貌も美しいし、この邊にゐさうな女ではない、蓋し妖婦であらうと、自分は揉んで貰はずに立ち去つた。途で獵師に出逢つたのを幸ひに、この話をしたら、それは狐か狸だらうと云ふ。共に引返して、獵師が一發放つたが、堅い石が折れて飛び散つただけであつた。揉まれて睡つた連中は、皆背中に縱橫に引疵がある。病人のやうになつてゐるのを連れ歸り、醫療を加へたので漸く癒えた。婦人は石氣の怪であらうといふことであつたが、妖はその後も折々姿を現したさうである。

[やぶちゃん注:以上は「中陵漫錄」の「卷之十三」の「石妖」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。一部にオリジナルに推定で歴史的仮名遣の読みを附し(カタカナのそれは原典のもの)、一部の記号を改変・追加した。

   *

     ○石 妖

 豆州の人甞(かつ)て云(いは)く、豆州の山中に多く石を出す。此所、石工數人晝皆休息す。此時に一の婦人來(きたり)て、此石工に謂(いひ)て云く、終日(ひねもす)働(はたらき)て勞(つか)るべし。爾(それがし)が按摩して進ずべしと云て、一人の肩を按摩す。其(その)心(ここち)、常に異(ことなり)てよし。故に能(よく)く寢る。又一人を按摩す。是もまた眠る。如ㇾ此(かくのごとく)して眠る事數人、殘(のこり)の一人熟視して、思ふに此婦、甚だ美麗にして凡婦(ぼんぷ)に非ず。是れ妖婦なるべしとて、此處を去る。幸(さいはひ)に獵人(かりうど)に逢ふ。此事を語る。獵人、果して狐狸なるべしとて、共に來り見れば、其婦立去(たちさり)て、其石を取る所に至(いたり)て猶逃𢌞(にげまはり)す。獵人、鐵丸(たま)二つを入(いれ)て是を打つ時は、石の折(をれ)て散るが如し。扨(さ)て怪しと思ひて共に行(ゆき)て見れば、堅(かたき)石皆折(をれ)て飛散(ひさん)したるのみなり。按(あんず)るに、此婦人、卽ち石氣(せつき)の怪(くわい)なるべしと云(いひ)て、其眠(ねむり)たる人を見るに、皆背上(はいじやう)、石にて按摩したるが如く、縱橫(じふわう)に引疵(ヒキキズ)あり。其(その)人皆、氣を絕して大病(たいびやう)の形(かたち)の如し。各家に還(かへ)して醫藥を加(くはへ)て漸(やうや)く治すと云(いふ)。此後(こののち)も往々(わうわう)、妖人(えうじん)出(いづ)る事ありと云。予按(あんず)るに、「物理小識(ぶつりしやうしき)」曰(いはく)、『石者氣之授ㇾ土之骨也。』と云(いへば)、此(これ)骨神(こつしん)の化(くわ)して婦人となる物なり。

   *

文中の「爾(それがし)」は普通、二人称「なんぢ」とか指示語「それ」と読むのであるが、それでは意味が通らないので、しばらく特異的にかく訓じておくこととした。「物理小識」は書名。康煕三(一六六四)年の序を持つ、明末清初の思想家方以智(ほういち 一六一一年~一六七一年:安徽省出身。一六四〇年に進士となり、翰林院検討を授けられたが、満州族の侵略に遭い、嶺南各地を流浪、清軍への帰順を拒んで僧侶となった。朱子学の格物窮理は事物の理を探究するには不十分なものと断じ、当時、渡来していたジェスイット(イエズス会)宣教師たちから西洋の学問を積極的に摂取した。また元代の医師朱震亨(しゅしんこう)の相火論及び覚浪道盛の尊火論に基づいて、あくまで事物の〈然る所以(ゆえん)の理〉を探究する方法としての〈質測学〉と、形而上的真理探究の方法としての〈通幾(つうき)〉を唱えた。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)が著した学術書で、本邦では洋学書・蘭学書として読まれたようである。「石者氣之授ㇾ土之骨也」は「石は、氣、之(こ)れ、土に授(さづ)かれし骨(ほね)なり。」と取り敢えず訓じておく。] 

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