柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(3)
昔の獅子舞歌に「大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる」とあるが、叡山の西塔に任する靜觀僧正が夜もすがら尊勝陀羅尼を詞してゐると、空を飛びつゝあつた陽勝仙人がその聲を聞いて、先づ房の前の杉の木に下り、次いで高欄の上まで來た。陽勝も嘗て西塔で僧正の弟子だつた人だから、僧正に招かれて坊に入り、年來の事を語り明したところ、愈々歸らうとしても、暫く人の氣を受けて身が重くなつたものか、俄かに飛び立つことが出來ない。その時陽勝が、香の煙りを近く寄せ給へと云ひ、香煙を近くさし寄せたら、その煙りに乘つて飛び去つた。靜觀僧正はその後も長く香爐の煙りを斷たなかつたと「今昔物語」に出てゐる。この話には明かに詩があるが、それも飯焚く煙りや炭燒の煙りでなく、香煙の煙りである點に注意すべきであらう。
[やぶちゃん注:冒頭に出る獅子舞の歌というのは、実は獅子舞歌として人口に膾炙しているのではなくて、上田敏が、かの名訳詩集「海潮音」(明治三八(一九〇五)年十月本郷書院刊)の冒頭で、扉で『遙に此書を滿州なる森鷗外氏に獻ず』と献辞を記したその裏に、
大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりて
あまぐもとなる、あまぐもとなる
獅子舞歌
と引用したことによって広く知られ、今に残っていると言うべきものである。但し、江戸俳諧に造詣が深かった柴田は「海潮音」とは別に知っていたとしてもこれはおかしくはない。
「陽勝」紀善造なる人物の子とされ、貞観一一(八六九)年生まれであるが、神仙と化したことから、没年は不詳とする。
以上に示された話は「今昔物語集 卷第十三」の「陽勝修苦行成仙人語第三」(陽勝(ようじよう)、苦行を修(しゆ)して仙人と成る語(こと)第三(さむ))の最後のパートである。以下に示す。
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今は昔、陽勝と云ふ人、有りけり。能登の國の人也。俗姓(ぞくしやう)は紀の氏(うぢ)。年十一歳にして始めて比叡(ひえ)の山に登りて、西塔(さいたふ)の勝蓮花院(しようれんぐゑゐん)の空日(くうにち)律師と云ふ事を師として、天台の法文(ほふもん)を習ひ、法花經を受け持(たも)つ。其の心、聰敏(さうびん)にして、一度聞く事を二度不問(とは)ず。亦、幼きより道心のみ有りて、餘(あまり)の心無し。亦、永く睡眠(すいめん)する事無く、戲(たはぶ)れに休息(やす)む隙(ひま)無し。亦、諸(もろもろ)の人を哀む心深くして、裸なる人を見ては衣を脱ぎて與へ、餓ゑたる人を見ては我が食を與ふる。此れ、常の事也。亦、蚊(か)蟣(きさき[やぶちゃん注:虱(しらみ)。])の身を螫(さ)し噉(は)むを厭はず。亦、自ら法花經を書寫して、日夜に讀誦(どくじゆ)す。
而る間、堅固の道心發(おこ)りて、本山(もとのやま)を去りなむと思ふ心、付きぬ。遂に山を出でて、金峰(みたけ)の仙(せん)の舊室(もとのむろ)[やぶちゃん注:金峰山にある以前に持経仙人という方が住んでおられた古い庵室(あんじつ)。]に至りぬ。亦、南京(なみきやう)の牟田寺(むたでら)に籠り居て、仙の法を習ふ。始は穀を斷て菜(くさひら)を食らふ。次には、亦、菜を斷ちて菓(このみ)・蓏(くさのみ)を食らふ。後には、偏へに食(じき)を斷つ。但し、日に粟(あは)一粒(ひとつぶ)を食らふ。身には藤(ふぢ)の衣を着たり。遂に食(じき)を離れぬ。永く衣食(えじき)の思ひを斷ちて、永く菩提心を發(おこ)す。然れば、烟(けぶり)の氣(け)を永く去りて跡を不留(とどめ)ず。着たる袈裟を脱ぎて、松の木の枝に懸け置きて、失せぬ。袈裟をば經原寺(きやうぐゑんじ)の延命(えんみやう)禪師と云ふ僧に讓れる由を云ひ置く。禪師、袈裟を得て、戀ひ悲しむ事、限無し。禪師、山々谷々(やまやまたにだに)に行きて、陽勝を尋づね求むるに、更に居(ゐ)たる所を知らず。
其の後、吉野の山に苦行を修(しゆ)する僧、恩眞(おんしん)等(ら)が云く、
「陽勝は既に仙人に成りて、身に血肉(ちしし)無くして、異(こと)なる骨、奇(あや)しき毛、有り。身に二つの翼(つばさ)生(お)ひて、空を飛ぶ事、麒麟・鳳凰の如し。龍門寺(りうもんじ)の北の峰にして此れを見る。亦、吉野の松本の峰にして、本山(もとのやま)の同法(どうぼふ[やぶちゃん注:比叡山にて修学していた当時の同学の修行僧。])に會ひて、年來(としごろ)の不審を淸談(せいだん)しけり。」
と告ぐ。
亦、笙(しやう)の石室(いはむろ)に籠ろて行ふ僧、有りけり。食を絶ちて日來(ひごろ)を經たり。不食(ふじき)にして法花經を讀誦す。其の時に靑き衣を着たる童子、來て、白き物を持ちて、僧に與へて云く、
「此れを可食(くらふべ)し。」
と。僧、此れを取りて食ふに、極めて甘くして餓うる心、直りぬ。僧、童子に問ひて云く、
「此れ誰人(たれびと)ぞ。」
と。童子、答へて云く、
「我れは此れ、比叡の山の千光院の延濟和尚の童子なりしが、山を去りて、年來(としごろ)苦行を修(しゆ)して仙人と成れる也。近來(ちかごろ)の大師は陽勝仙人也。此の食物(じきもつ)は、彼(か)の仙人の志し遣(つかは)す物也。」
と語りて去りぬ。
其の後(のち)、亦、東大寺に住ける僧に陽勝仙人、値(あ)ひて、語りて云く、
「我れ、此の山に住して五十餘年を經たり。年は八十に餘れり。仙の道を習ひ得て、空を飛ぶ事、自在也。空に昇り、地に入るに、障(さは)り無し。」
と。法花經の力に依りて、佛(ほとけ)を見奉り、法を聞き奉る事、心に任せたり。世間(よのなか)を救護(くご)し、有情(うじやう)を利益(りやく)する事、皆、堪へたり。
亦、陽勝仙人の祖(おや)、本國(もとのくに)にして病ひに沈みて、苦しみ煩ふに、祖(おや)、歎きて云く、
「我れ、子多しと云へども、陽勝仙人、其の中に我が愛(かな)しき子也。若し、我が此の心を知らば、來て我れを見るべし。」
と。陽勝、通力を以つて此の事を知りて、祖(おや)の家の上に飛び來りて、法花經を誦(じゆ)す。人、出でて、屋(や)の上を見るに、音(こゑ)をば聞くと云へども、形をば不見(み)ず。仙人、祖(おや)に申して云く、
「我れ、永く火宅(くわたく)を離れて人間(にんげん)に不來(きたら)ずと云へども、孝養(けうやう)の爲に強(あなが)ちに來りて、經を誦し、詞(ことば)を通ず。每月(つきごと)の十八日に、香(かう)を燒き、花を散らして、我れを待つべし。我れ、香の煙(けぶり)を尋ねて、此に來り下(お)りて、經を誦し、法を説きて、父母(ぶも)の恩德を報ぜむ。」
と云ひて飛び去りぬ。
亦、陽勝仙人、每月(つきごと)の八日に、必ず、本山(もとのやま)に來りて、不斷(ふだん)の念佛を聽聞(ちやうもん)し、大師の遺跡を禮(をが)み奉る也。他(ほか)の時は不來(きたら)ず。而(しか)れば、西塔の千光院に淨觀(じやうぐわん)僧正と云ふ人、有りけり。常の勤めとして、夜(よ)る、尊勝陀羅尼を終夜(よもすがら)、誦(じゆ)す。年來(としごろ)の薰修(くんじゆ[やぶちゃん注:永年の修行の積み重ね。])入りて、聞く人、皆、貴ばずと云ふ事、無し。而る間、陽勝仙人、不斷の念佛に參るに、空を飛びて渡る間(あひ)だ、此の房の上を過ぐるに、僧正、音(こゑ)を擧げて尊勝陀羅尼(そんしようだらに)を誦(じゆ)するを聞きて、貴(たふと)び悲むで、房(ばう)の前の椙(すぎ)の木に居(ゐ)て聞くに、彌(いよい)よ貴くして、木より下(お)りて、房の高欄(かうらん)の上に居(ゐ)ぬ。其の時に、僧正、其の氣色(けしき)を怪しむで、問ひて云く、
「彼(あ)れは誰(た)そ。」
と。答へて云く、
「陽勝に候(さむら)ふ。空を飛びて過ぐる間(あひだ)、尊勝陀羅尼を誦し給へる音(こゑ)を聞きて、參り來る也。」
と。其の時に、僧正、妻戸(つまど)を開(ひら)きて呼び入(い)る。仙人、鳥の飛び入るが如くに入りて、前に居(ゐ)ぬ。年來の事を終夜(よもすがら)談じて、曉(あかつき)に成りて、仙人、
「返りなむ。」
と云ひて立つに、人氣(ひとのけ)に、身(み)、重く成りて、立つ事を得ず。然(しか)れば、仙人の云く、
「香(かう)の烟(けぶり)を近く寄せ給へ。」
と。僧正、然(しか)れば、香爐(かうろ)を近く指(さ)し寄せつ。其の時に、仙人、其の烟に乘りてぞ、空に昇りにける。此の僧正は、世を經て、香爐に火を燒(た)きて、烟(けぶり)を不斷(たた)ずしてぞ有りける。
此の仙人は、西塔に住ける時、此の僧正の弟子にてなむ有りける。然(しか)れば、仙人返りて後(のち)、僧正、極めて戀ひしく悲しびけりとなむ語り傳へたるとや。
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柴田の言うように、この話は何とも高貴な詩の香りが漂っていて素晴らしい。]
「十訓抄」にある松の葉の僧は氣の毒な喜劇である。松の葉を食ふこと兩三年、自分でも身が輕くなつたやうに思はれるので、仙人になる決心をして、あらゆる物を弟子に讓り、祕藏の水瓶だけを身に著けて出た。弟子同朋、傳へ聞いた人々まで大勢集まつて、この登仙行を迭る。僧は山の傍に差出た巖の上に登つて、一度に空へ登らうと思ふが、その前に近く遊んで皆樣の御覽に入れようと云ひ、谷から生えてゐる松の木の四五丈もある梢へ飛んだ。今までも内々で飛ぶ練習はしてゐたのに、この場に臨んで臆したらしく、飛びそこなつて谷へ落ち込んでしまつた。見物の人達は案に相違して、そのうちに飛び上つて來るだらうと見てゐたが、さういふ樣子もない。谷底の嚴に當つて水瓶もわれ、自分も大怪我をして、もとの坊へ擔ぎ込まれた。一旦弟子に讓つた坊や財物も取り返し、松の實の葉の代りに五穀を貪り食つて、殘生を保つより外に途がなかつた。
[やぶちゃん注:「十訓抄」(じつきんしやう(じっきんしょう))は鎌倉中期に成立した教訓説話集。編者は未詳。以上は「第七 可専思慮事」(思慮を専らにすべき事)の冒頭(「序」に続く本文筆頭)に挙げられた救いようのない莫迦坊主の話である。以下に原典を読み易く加工して示す。
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一 河内國、金剛寺とかや云ふ山寺に侍りける僧の、「松の葉を喰ふ人は、五穀を食(く)はねども苦しみなし。能(よ)く食ひおほせつれば、仙人とも成りて、飛びありく」と云ふ人ありけるを聞きて、松の葉を好み食ふ。誠(まこと)に食ひやおほせたりけむ、五穀の類ひ、食ひのきて、やうやう兩三年に成りにけるに、實(げ)にも身も輕くなる心地しければ、弟子などにも、
「我(われ)は仙人になりなむとする也。」
と、常は云ひて、
「今、今。」
とて、うちうちにて、身を飛び習ひけり。
「既に飛びて、登りなん。」
と云ひて、坊も何も弟子どもに分け讓りて、
「登りなば、仙衣を着るべし。」
とて、形のごとく、腰にものを單(ひとへ)卷きて出で立つに、
「我が身には、これよりほかは、いるべき物なし。」
とて、年來(としごろ)、祕藏して持ちたりける水瓶(すいびん)ばかりを腰に付けて、すでに出でにけり。弟子・同朋、名殘(なごり)惜しみ悲しぶ。聞き及ぶ人、遠近(をちこち)、市(いち)のごとくに集りて、
「仙に登る人、見む。」
とて、集(つど)ひたりけるに、この僧、片山のそばにさし出でたる巖(いはほ)の上に登りぬ。
「一度に空へ登りなんと思へども、近く、まづ、遊びて、ことのさま、人々に見せ奉らむ。」
とて、
「かの巖の上より、下に生ひたりける松の枝に居(ゐ)て遊ばん。」
とて、谷より生ひ上がりたる松の上、四、五丈[やぶちゃん注:約十二~十五メートル。]ばかりありけるを、下(さ)げざまに飛ぶ。人々、目をすまし、あはれを浮かべたるに、如何しつらん、心や臆したりけん、兼ねて思ひしよりも、身、重く、力、浮き浮きとして、弱りにければ、飛びはづして、谷へ落ち入りぬ。人々、あさましく見れども、
「これほどのことなれば、やうあらむ。さだめて、飛び上がらむずらむ。」
と見るほどに、谷の底の巖に當りて、水瓶も割れ、また、わが身も散々に打ち損じて、唯、死にに死ぬれば、弟子・眷屬、騷ぎ寄りて、
「いかに。」
と問へど、いらへもせず。わづかに息のかよふ計(ばか)りなりけれど、とかうして、坊へかき入れつ。爰(ここ)に聚(あつ)まれる人、笑ひののしりて、歸り散りぬ。扨、この僧、有るにもあらぬやうにて、病み臥せり、とかく云ふばかりなくて、弟子も恥づかしながらあつかふ間(あひだ)、松の葉ばかりにては、命(いのち)生くべくも見えねば、年來(としごろ)、いみ敷(じ)く喰(くら)ひのきたる五穀をもて、樣々(さまざま)、いたはり養へば、命ばかりは活(い)けれども、足・手・腰も打ち折りて、起居(おきゐ)もえせず。今は松の葉喰(くら)ふにも及ばず。もとのごとく、五穀むさぼり食ひて、弟子どもに、勇々(ゆゆ)しく讓りたりし、坊も寶も取り返して、かゞまり居たり。
仙道にいたる人、たやすからぬ事也。文集[やぶちゃん注:「白氏文集」。]には、「賤(いや)しくも金骨(きんこつ[やぶちゃん注:「仙骨」に同じい。世俗を超越した風格。])の相なくば、丹臺(たんだい[やぶちゃん注:仙人界。])の名を期(き)し難し」とこそ、書かれて侍るなれ。ただ松の葉を食ひ習ひたる計りにて、左右(さう)深き谷へ向ひて飛びけるこそ、思ひはかり、なけれ。但し、唐の玄宗の宮に、西王母と云ふ仙女參りて、仙桃を七ツ奉れりけるを、
「この種を我が宮に移さんと思ふ。」
とのたまはせたりければ、王母、うち笑ひて、
「天上の菓、人間(じんかん)に留まりがたくや。」
と申して、はかなげに思ひ奉りけり。帝(みかど)だにも、かく愚かにおはしましければ、まして、この僧、仙を得たりと思ひて、未得謂得の心、幼なかりけるも、理(ことわ)りなり。
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「未得謂得」は音なら「ミトクヰトク」であるが、「未だ得ざるを得たりと謂ふ」と訓読しておきたい。]