一鉢の花 山村暮鳥
一鉢の花
自分は一鉢の花を買つた
それは春さきの
また東京下りのものとして
自分達貧乏人にとつては
それこそ眼球も飛びだすばかり
それほど高價なふりぢやであつた
けれど
自分は一め見ただけで
すつかりとほれこんでしまつた
そしてなけなしの錢で
それは米にも味噌にもなるのであつた錢で
花屋の手から買ひとつた
自分はうれしさにそれをかかえてどこをどうあるきまはつたものか
そのうちぽつぽつ雨が落ちてきた
やあ、花が濡れる
蝙蝠傘ももたなかつた自分は身をもつて
それをいたはりおほひかばつた
雨は次第につよくなつた
それにまた風さえはげしく加はつた
自分はもういつか自分をまつたくどこにかなくしてゐた
その一鉢の花のために
家に歸つてから
これは氣のついたことであつたが
自分はまあ、かつて自分の眞實の妻や子どもたちに對してすら
これほど情熱的なことがあつたか
でもそのときの自分は
その花のために
なんといふ想像も及ばないくるしみをしたことだらう
とはいへ、そうしてくるしめばくるしむほど
その花がいよいよ可愛く美しく
もうもう、どんなものにもかへられないと
命に賭けても愛さずにはゐられなかつた
[やぶちゃん注:「かかえて」、「風さえ」はママ。彌生書房版全詩集では五行目の「眼球」に「めだま」、次の行の「ふりぢや」に傍点「ヽ」が附されてある(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科フリージア属フリージア Freesia refracta)。
彌生書房版全詩集版。太字は前記の通り。
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一鉢の花
自分は一鉢の花を買つた
それは春さきの
また東京下りのものとして
自分達貧乏人にとつては
それこそ眼球(めだま)も飛びだすばかり
それほど高價なふりぢやであつた
けれど
自分は一め見ただけで
すつかりとほれこんでしまつた
そしてなけなしの錢で
それは米にも味噌にもなるのであつた錢で
花屋の手から買ひとつた
自分はうれしさにそれをかかへてどこをどうあるきまはつたものか
そのうちぽつぽつ雨が落ちてきた
やあ、花が濡れる
蝙蝠傘ももたなかつた自分は身をもつて
それをいたはりおほひかばつた
雨は次第につよくなつた
それにまた風さへはげしく加はつた
自分はもういつか自分をまつたくどこにかなくしてゐた
その一鉢の花のために
家に歸つてから
これは氣のついたことであつたが
自分はまあ、かつて自分の眞實の妻や子どもたちに對してすら
これほど情熱的なことがあつたか
でもそのときの自分は
その花のために
なんといふ想像も及ばないくるしみをしたことだらう
とはいへ、そうしてくるしめばくるしむほど
その花がいよいよ可愛く美しく
もうもう、どんなものにもかへられないと
命に賭けても愛さずにはゐられなかつた
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