著者として―― /山村暮鳥詩集 「梢の巣にて」後書き
著者として――
こゝにあつめたこれらの詩はすべて人間畜生の自然な赤裸々なものである。それ以外のなんでもない。これらの詩にいくらかでも價値があるなら、それでよし、また無いとてもそれまでだ。
[やぶちゃん注:最後の「だ」は原典では「た」であるが、特異的に訂した。]
自分が詩人としての道をたどりはじめたのは、ふりかへつて見るともうずゐぶん遠い彼方の日のことだ。そのをりをりの自分が想ひだされる。耽美的で熱狂的で、あるなにものかにつよくつよくひきつけられてゐた自分、それがなにものだか解らない。自分はそれに惑溺してゐた。それは美のそして中心のない世界であつた。それから自分はいつしか宗教的の侏儒であり、中古の鍊金士などのあやしい神祕に憑かれてゐた。その深刻さにおいてはすなはち象徴そのものであつたやうな自分。嚴肅もそこまでゆくと遊びである。それにおそれおのゝいた自分。そして一切をかなぐりすてゝ、靈魂(たましひ)を自然にむけた。人間も自然もみんなそこでは新しかつた。かうして陶醉とものまにあとの轡を離れて、自分はさびしくはあつたが一本の木のやうにゆたかなる日光をあびた。それも一瞬間、運命はすぐかけよつて自分をむごたらしくも現實苦痛の谿底に蹴落したのだ。
[やぶちゃん注:太字は原典では傍点「ヽ」。
「ものまにあ」“monomania”。偏執狂。ギリシャ語(“monos”(「単一の」)+“mania”(狂気)に由来)精神疾患の一つ。患者が単一(群)の種の思考のみしか受け入れなくなる偏執症の一種。かつて詩集「聖三稜玻璃」に室生犀星が寄せた序の「聖ぷりずみすとに與ふ」(太字は元は傍点「ヽ」)の中で、室生は山村暮鳥のことを『尊兄の愉樂はもはや官能や感覺上の遊技ではない。まことに恐るべき新代生活者が辿るものまにあの道である』と評していた。
「轡」は「くつわ」。]
その谿底でかゝれたのがこれらの詩章である。これらの一字一句はすべて文字通りに血みどろの中からでてきた。自分は血を吐きながら、而も詩をかくことをやめなかつた。それがこれらの詩章である。
人間畜生の赤裸々なる! こゝまでくるには實に一朝一夕のことではなかつた。
眞實であれ。眞實であることを何よりもまづ求めろ。
暮鳥、汝のかく詩は拙い、だがそれでいゝ。
けつして技巧をもてあそんではくれるな。油壺からひきだしたやうなものをかいてはならない。
[やぶちゃん注:「油壺からひきだしたやうなもの」継ぎ足し継ぎ足ししてきた使い古した紋切り型の詩想や技巧を指すのであろう。]
ジヨツトオの畫、ミケランゼロの彫刻、あの拙さを汝はぐわんねんしてゐるのではないか。おゝ、何といふ偉大な拙さ!
[やぶちゃん注:「ジヨツトオ」イタリア・ルネサンスの先駆者とされる画家・建築家として知られるジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone 一二六七年前後~一三三七年)。
「ミケランゼロ」言わずと知れたイタリア・ルネサンスの巨匠ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti
Simoni 一四七五年~一五六四年)。
「ぐわんねん」「願念」か。]
暮鳥はそれをめがけてゐる。
あゝミケランゼロ! 人間が達しえたその最高絶頂に立つてゐる彼の製作、みよその頭に角のはへてゐるモオゼのまへではナポレオンも豆粒のやうだ。
此の偉大はどこからきたか。自分等はそのかげにかのドナテロを見遁してはならない。眞實そのものゝやうなドナテロ。
――茨城縣磯濱にて――
[やぶちゃん注:著者山村暮鳥自身による後書き。最後の識場所のそれは原典では下六字上げインデント。
「ドナテロ」イタリア・ルネサンス初期の彫刻家ドナテッロ(Donatello 一三八六年前後~一四六六年)。
「茨城縣磯濱」既注であるが、再掲しておくと、本詩集刊行当時(大正一〇(一九二一)年五月二十五日。暮鳥三十七歳)の暮鳥一家は大正九(一九二〇)年一月二十七日から茨城県磯浜町(いそはまちょう)(現在の大洗町(おおあらいまち)明神町(みょうじんちょう))の別荘に移っている(転地療養。但し、この前には実は目まぐるしく茨城県内での移転を繰り返している)。暮鳥は三年前の大正七(一九一八)年の半ば(当時は水戸ステパノ教会勤務)より結核の顕在的な重い症状が認められたようであり、同年九月二十八日には大喀血を起こし、翌大正八年六月初旬には日本聖公会伝道師を休職している。
次の頁に奥附があるが、略す。]
« 莊嚴なる苦惱者の頌榮 山村暮鳥 | トップページ | 山村暮鳥詩集「土の精神」始動 / 縞鯛の唄(序詩)・永遠の子どもに就て »