航海の前夜第一篇 病めるSに 山村暮鳥
病めるSに
鉛の如に重く、ゆく方無き夕べの底。
鳥は大なる悲哀に飛𢌞りさ迷ふ。
三階の窓より
Sよ、
おまえの胸にもたれて滅びゆく日のかがやきを見た。
五月、
その五月の靑い夕
しづかに、靜かに
薄昏れゆく。
病めるSよ、
ああ、半開の快よき、
瞳をあげ、
微笑の唇を動かし給へ。
その五月、
(薔薇(いばら)の匂ひ)
見よ、みよ、市街の中央にそびえて
歡ばしき春を待つ、
時計臺の赤き電燈。
[やぶちゃん注:底本の彌生書房刊「山村暮鳥全詩集」ではここから「『自然と印象』から」というパート大見出しになって、本「病めるSに」以下を、
航海の前夜 五篇
と総標題する。その第一篇である。先に示した白神正晴氏の山村暮鳥研究サイト内の「山村暮鳥年譜」の明治四三(一九一〇)年二月一日(満二十六歳)の条に、『「病めるSに」他を『自然と印象』に掲載』とあることから、以下に続く『自然と印象』所収の詩篇群もこの時期と考えてよかろう。
この『自然と印象』とは、彼が遅れて参加した「自由詩社」(人見東明・加藤介春・三富朽葉らが興した口語による自由詩を提唱した結社で、反文語・反定型を謳った。結成は明治四二(一九〇九)年で暮鳥は翌四十三年二月に同人となっている。因みにこの時、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名を貰った(彼の本名は「土田八九十(つちだはくじゅう)」で旧姓は「志村」である)。ここはウィキの「山村暮鳥」に拠る)の機関誌の雑誌名である。
「S」不詳。次の詩群「洋館の靑き窓」の第二篇「時雨」にも登場する。本篇では今一つはっきりしないが、そちらを合わせて読むと、結核を病み、高原の療養所と思しいところにいる女性であることが判る。また、後の詩集「三人の處女」(大正二(一九一三)年)の詩集名ともなった一篇が気になる(底本は原詩集。太字は原典では傍点「ヽ」)。
*
三人の處女
指をつたふてびおろんに流れよる
晝の憂愁、
然り、かくて縺(もつ)れる晝の憂愁。
一の處女(おとめ)をSといひ、
二の處女をFといひ、
三の處女をYといふ。
然してこれらの散りゆく花が廢園の噴水をめぐり、
うつむき、
匂ひみだれてかがやく。
びおろんの絃(いと)よ!
悲しむ如く、泣く如く
哀訴(あいそ)の、されどこころ好き唄をよろこぶ
銀線よ!
晝の憂愁……
*
その「一の處女(おとめ)」「S」とは、この「S」なのでは、ないか、と。]