柴田宵曲 妖異博物館 「古枕」
古枕
盧生に黃梁一炊の夢を見させた呂翁の枕は、「枕中記」に從へば、「瓷(かはら)にしてその兩端を竅(あな)にす」にある、今もある陶枕である。この枕に就いた盧生は、夢の中で枕の竅の身を容るゝに足るべきを思ひ、潛り入ることから五十年に亙る榮華の夢がはじまるので、邯鄲の夢を説く者は、どうしてもこの前提を閑却するわけに往かぬ。元來道士である呂翁が短裝靑駒の客盧生と落合ひ、彼が頻りに不遇を歎ずるのを聞いて、然る後これを貸す以上、尋常の枕である筈がない。
[やぶちゃん注:これはもう、私が満を持して作った『芥川龍之介「黃粱夢」 附藪野直史注 附原典沈既濟「枕中記」全評釈 附同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』の閲読を自信を持ってお薦めするものである。]
「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」といふ囘文の歌を寶船に刷り、これを枕の下に敷いて初夢を見る日本人は、何か枕に關する奇譚を持ち合はせてゐさうなものだが、あまり見當らない。但し少し方角の違つたところに、こんな話がある。
[やぶちゃん注:以上の回文歌は、ウィキの「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」によれば、『室町時代の頃から、「初夢」文化のひとつとして日本で行われた風習に用いられた。現代ではマイナーな風習と化しているが、「初夢」に「宝船」はこの歌が簡略化された名残りでもある。
大抵は冒頭部の「長き夜の」(「長き夜の…」)、あるいは「なかきよの」「なかきよ」と略される』。これは「村草に くさの名はもし 具はらは なそしも花の 咲くに咲くらむ」や「惜しめとも
ついにいつもと 行春は 悔ゆともついに いつもとめしを」』『などとともに有名な回文和歌のひとつ』で、『歌の出展元や意味・解釈についてはいくつか説がある。出展として有力な文献に、室町時代の通俗辞書『運歩色葉集』(著者未詳。』天文一七(一五四八)年『成立)、中国(当時:明)の『日本風土記』』(天正二〇(一五九二)年)が『ある。このことから風習そのものは、』十六『世紀後半に広まり行われたものであったとされる』。漢字を当てると、
長き夜(よ)の遠の睡(ねむ)りの皆(みな)目醒(めざ)め波乘り船の音の良きかなで、意味・解釈は、
『進みゆく船は心地良く波音を立てるので、過ぎ去る刻の数えを忘れてしまい、ふっと「朝はいつ訪れるのだろう」と想うほど夜の長さを感じた』。『調子良く進む船が海を蹴立てゆく波の音は、夜が永遠に続いてしまうのではと思うほど心地よいので、思わず眠りも覚めてしまう』。『長い世の中の遠い戦いの記憶から皆よ目を覚ましなさい。波に乗っている船にぶつかる音の状況はよいのだろうか』とする。なお、『歴史的仮名遣いからすれば、「とおの」は「とほの」であるが、この歌が成立していた頃にはそういった遣い方が衰退していた』と注する。『言葉遊びとしての要素を多く含んだ歌で、「なみのりふね(波乗り船)」と「みのり(実り)」が掛けられているのをはじめ、「とおの(遠の)」と「とおの(十の)」、「長き夜(夢見が続く)」や「長き世(長寿)」、または「長き世(時代の波)」、「船(宝船)」と「不音(静かな)」など、音や意味合いなどの言葉遊びが随所に用いられている』。正月二日(地方によっては三日)の夜に、『上記の歌が書かれた七福神の宝船の絵を枕の下に置き、歌を』三度読んでから『寝ると吉夢を見られるという風習がある。また、歌を歌いながら千代紙や折り紙などに歌を書き記し、その紙を帆掛け船の形に折って枕の下に置くことで良い夢が見られるとも。なお、悪い夢を見てしまった場合は、その船を川に流すことで邪気を払い縁起直しした(水に流す)』。『江戸時代には、正月早々に「お宝、お宝」と声を掛け、歌が書かれた宝船の絵を売る歩く「宝船売り」がおり、暮れどきになると庶民は買いに走っていたとされる』とある。]
江戸深川の三十三間堂の近くに、久しく明いた家があつた。或醫者がこれを借りて、こゝへ移つたら、ほどなく病氣になつた。これは永いこと明家(あきや)であつたから、陰濕の氣の深いためであらうと、自ら處方した藥を服用したが、更に驗が見えず、後には異症を現し、時々ものに脅かされるやうになつた。その時ふと思ひ當つたのは、自分が何かに魘(おそ)はれるはじめ、雜具部屋の方から冷たい風が吹いて來ると、必ず氣持が變になるといふことであつた。これは妖怪のために惱まされるらしい、何か怪しいものがあるかどうか、よく見て參れと家人に命じた。いろいろ搜して見たが、怪しむべき物は何もない。古い持佛堂があつたのを開いて見ても、一物もなかつたが、下段の戸をあけて見たら、古い木枕が一つ出て來た。これこそ幾百年も經た古物と見える。此奴が妖をなすに相違ないと病人が云ふので、直ちに打ち割つて、薪を積んだ中に投じ、燒き捨ててしまつた。「その臭、屍を燒くに異ならず、病頓(とみ)に癒ゆ」と「牛馬問」にある。
[やぶちゃん注:「牛馬問」江戸中期の儒学者新井白蛾(正徳五(一七一五)年~寛政四(一七九二)年:江戸生まれ。朱子学を学び、二十二歳で江戸で教え始めたが、当時は荻生徂徠の門流が風靡していたので京に移り、易学を究め、「古易の中興」を唱えた。寛政三(一七九一)年に加賀藩第十代藩主前田治脩(はるなが)に招かれ、藩校となる明倫堂の創設に関わり、その学頭となって亡くなるまでその地位にあった。以上はウィキの「新井白蛾」に拠る)が宝暦五(一七五五)年に著わしたもので、人からよく尋ねられる事物について記した考証物である。私は所持しないので原典は示せない。]
これは現代の心理學でも解釋出來さうな話で、妙なところから誰が使つたかわからぬ古い枕などが出て來れば、氣持がよくないにきまつてゐる。燒き棄てれば一切空に歸して、さつぱりする。そんな古い枕なら、「その臭、屍を燒くに異ならず」といふのも怪しむに足らぬ。別に火をかけた際、枕が悲鳴したとも、怪しい物が飛び出したとも書いてないし、尋常に灰になつてしまつたのだから、大した妖物ではあるまい。
「雪窓夜話抄」にあるのは元錄年中の話で、仙洞附の侍に木阪雅樂頭といふ人があつた。常に酒氣芬芬として居つたが、或時草履取りを一人連れて、今出川の切通し町の方へぶらぶら步いて行くと、古道具の市(いち)が立つて人が大勢集まつてゐる。雅樂頭も立つて見物してゐるうちに、油にしみた古い木枕が出て來た。さすがにこれは値を付ける者がない。一人が二文と云ひ、他の一人が三文と云つたきり、その後は何の聲も聞えなかつたのを、雅樂頭が酒機嫌で五文と云つたものだから、負けたと云つて渡されてしまつた。草履取りは少からず迷惑して、手に持てば油じみて滑るのを、繩で括つて提げて歸る。その夜は御所の宿直番だつたので、この枕を持つて暮方から出かけたが、その頃には醉も稍々さめかけてゐたらしい。懷中から紙を出して拭いて見ても、何年といふことなく、垢つき油じみて煤まぶれになつた枕は、拭いたぐらゐでは綺麗にならぬ。小刀で四方をこそげるうちに、どうやら枕にして寢られさうになつたから、傍にあつた煙草盆を引き寄せ、こそげた木屑をその中にくべて置いた。ところが夜の更けるに從ひ、その煙が御所中に薰じ渡つた。「屍を燒くに異ならず」どころの話ではない。一體誰の焚いた名香だと調べた結果、雅樂頭の部屋であることが明かになつた。枕を手に入れた次第は右の通りである。何でも二三百年來、日本には渡來せぬ伽羅の枕とわかつて、五文で落した古枕は、院の御所へ獻上せられるといふ大變な出世になつた。
手のつけられぬやうに油じみた枕でも、最後の一段に至つて天地霄壤の差を生ずる。眞に價値ある物は、容易に埋沒してはしまはぬのであらう。
[やぶちゃん注:以上は「雪窓夜話抄 卷上」の「雅樂頭(うたのかみ)奇南香(キヤラ)の枕を買ふ事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]