としよつた農夫は斯う言つた 山村暮鳥
としよつた農夫は斯う言つた
あの頃からみればなにもかもがらりとかわつた
だがいつみてもいいのは
此のひろびろとした大空だけだぞい
わすれもしねえ
この大空にまん圓い月がでると
穀倉のうしろの暗い物蔭で
俺等(おいら)はたのしい逢引をしたもんだ
そこで汝(われ)あみごもつたんだ
何をかくすべえ
穀倉がどんな事でも知つてらあ
そうして草も燒けるやうな炎天の麥畑で
われあ生み落とされたんだ
それもこれもみんな天道樣がご承知の上のこつた
おいらはいつもかうして貧乏だが
われあ秣草(まぐさ)をうんと喰らつた犢牛(こうし)のやうに肥え太つてけつかる
犢牛のやうに強くなるこつた
うちの媼(ばばあ)もまだほんの尼つちよだつた
その抱き馴れねえ膝の上で
われあよく寢くさつた
それをみるのが俺等(おいら)はどんなにうれしかつたか
そして目がさめせえすれば
山犬のやうに吼えたてたもんだ
其處にはわれが目のさめるのを色色(いろん)な玩具(おもちや)がまつてただ
なんだとわれあおもふ
そこのその大きな鍬だ
それから納屋にあるあの犁と
壁に懸つてゐるあの大鎌だ
さあこれからは汝(われ)の番だ
おいらが先祖代代のこの荒れた畑地を
われあそのいろんなおもちやで
立派に耕作(つく)つてくらさねばなんねえ
われあ大(でけ)え男になつた
そこらの尼つ子がふりけえつてみるほどいい若衆(わけえしゆ)になつた
おいらはそれを思ふとうれしくてなんねえ
しつかりやつてくれよ
もうおいらの役はすつかりすんだやうなもんだが
おいらはおいらの蒔きつけた種子(たね)がどんなに芽ぶくか
それが唯(たつた)一つの氣がかりだ
それをみてからだ
それをみねえうちは誰がなんと言はうと
決して此の目をつぶるもんでねえだ
[やぶちゃん注:一行目「あの頃からみればなにもかもがらりとかわつた」の「かわつた」、十一行目「そうして草も燒けるやうな炎天の麥畑で」の「そうして」はママ。なお、彌生書房版全詩集も「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)も十五行目の「われあ秣草(まぐさ)をうんと喰らつた犢牛(こうし)のやうに肥え太つてけつかる」の頭の「われあ」を「われは」と《訂している》が、従えない。そもそも前後が「われあ」であるのにここだけを「われは」と《訂する》意図が全く不明である。]