柴田宵曲 妖異博物館 「古兜」
古兜
松下久左衞門といふ人が、若い時分に編笠をかぶつて步いてゐると、うしろから名乘りかけて、親の敵と云ふ者があつた。編笠を脱いだら、これは人達ひを致した、とあやまつて立ち去つた。その後また上野の下で、同じやうに聲をかけられたので、編笠を脱いで見れば、此間と同じ男であつた。拙者は二度まで見誤り申した、よく御姿の敵(かたき)に似て居られることでござる、拙者はもう見損ひますまいが、拙者と同じく狙つて居る者が一人あり、萬一見誤らぬとも限りませぬ、向後は編笠をおかぶりなされぬやう、お賴み申すと云ひ、茶屋に伴つて酒などを勸め、失禮を謝して別れた。久左衞門は生涯編笠をかぶらなかつたさうである(異説まちまち)。
[やぶちゃん注:「異説まちまち」は和田烏江正路著であるが、筆者の詳細事蹟は不詳である。赤穂義士関連などの武辺物の多い、江戸期随筆でも古いものに属す。以上は「卷之二」にある以下の条の一節である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「一」は除去した。【 】は原典割注、〔 〕は原典頭注。
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六七十年前までは、ひたもの喧嘩も有しなり。夫故敵討も多し。予十一歳斗の時、五十餘の家咄けるは、かたき討にや有けん。年老たる者と、若きものと切結びけるを、年老たる者の小もの、年若にて有しが、若者の後に𢌞りて、足を取てころばしたるを、年老の老切殺したり。悦て其供の小者をいざなひて、行たる事有しと語りし。敵討のことも、日本武士鑑といふ板行ものにもありし。松下久左衞門【明曆の頃の生れ。】若き時、編笠を被りて步行ける。うしろより名乘かけて、親の敵と云けるを、編笠をぬぎければ、人たがひなりとて謝しける。其後また、上野の下にて、同じく聲かけゝるを、編笠ぬぎたれば最前の男なり。右の者いふ、我等二度まで見あやまり候。よく御姿の敵に似玉ひしこと也。我等はもはや見損ずまじ。しかし我等とおなじくねらふ者一人あり。若見あやまり侍んまゝ、編笠を此已後着玉ふ事なき樣に、たのみまゐらする也とて、茶屋にて酒などすゝめて謝しけるとなり。夫故久左衞門死するまで編笠を着せずといふ。編笠にて面のしれぬやうになること、心得あるべき事也。また古人歌舞妓警〔對面曾我ナラン。〕見けるに、親の敵に出合けるに、何やらん無ㇾ據ことにて、其場をのがす事有。後來を期す事有しに、右の古人、親の敵に出合、後を期す事有べからず。此狂言おもしろからずとて、つゐ立て歸りけるとかや。〔黑田如水ガ賴政ノ身ノナルハテハノ謠ヲ嫌ヒシト同日ノコトナリ。〕今時の狂言は、敵討がすめば狂言しまふてしまふ故に、かれのこれのと敵討延すを、おもしろきといふなり。可笑記にいふ如く、親の敵に出合たらば、大小は勿論、若有合ずば小刀にても、楊枝にても、若無手ならば喰付て成とも、讎を報ぜよと有り。此風の古人までしたはしくこそ。
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最後はキョウレツ! 本文に松下は明暦の頃の生まれとあり、明暦は一六五五年から一六五七年で、また、彼の若き時のエピソードとする以上は、第四代徳川家綱の治世の後半、或いは時期綱吉の治世初期のことと考えてよかろう。]
他人の空似もかうなると甚だ危い。「笠がよう似た淸十郎の笠に」ではないが、編笠をかぶると顏がよくわからぬ結果、誤認を生ずるのであらう。顏がわからぬ上に姿恰好が似てゐれば、そそつかしい敵に斬り付けられる虞れがないとも云へぬ。
「天明紀聞」に道具屋の某が、或店で古兜を買ひ求め、それをかぶつて飯田町邊を通ると、思ひもかけぬうしろから一刀斬り付けられた。大あわてにあわてて、近所に出入りの屋敷があつたのを幸ひに、そこへ逃げ込み、人を付けて貰つて、こはごは歸宅した。道筋に一人の士が、拔刀を持ちながら倒れて死んでゐたが、これが道具屋に斬り付けた男かどうか、よくわからない。兜をかぶれば編笠と似た結果になるにせよ、前の話とは時世が違ふ。兜をかぶつて江戸市中を步く士などはない筈だから、誤認して斬り付けられることもなささうなものだが、何分頭も尻尾もない話で、どうにも説明の仕樣がない。
[やぶちゃん注:「天明紀聞」著者も成立年代も不詳。所持しないので原典は示せない。]
そこで、この兜に怪異性を與へ、その所持者に次々と事件が起ることにしたのが、「兜」(岡本綺堂)である。最初の一段は大體「天明紀聞」を敷衍(ふえん)したものと思はれるが、以下はすべて想像の産物であらう。無論、時代は大分引下げてある。道具屋の何者かに斬り付けられるのが文久二年、その後兜が紛失したり、またどこかで手に入れた道具屋が往來で斬られたり、いろいろ曲折があった末、彰義隊の戰爭になる。最初の道具屋から兜を讓り受けた旗本の子が、上野から箕輪の方へ落ちて行く途中、圖らずこの兜を拾ふ。落武者の身で兜をどうする考へもなかつたけれど、圓通寺の近くで少時匿まつて貰ひ、食事の世話などをしてくれた母娘(おやこ)が、禮の小判は受取らず、その兜を頂戴したいと云ふ。この母娘がどうやら兜の賣却者らしくなつてゐるが、上野の戰爭の翌年、母娘は古机の上に兜を飾つて自殺した、といふ後日譚があるのである。倂し不思議な兜の因緣は、まだ終りにならない。一たび手に入れ、盜人に持ち去られ、落武者になつてから路上に拾ひ、母娘に與へて去つた兜に、明治の銀座の夜見世でめぐり合つた。そのまゝ看過しがたく買つて歸つた兜は、何の話柄も起さなかつたが、その子の代になつて、大正の震災で全燒に遭つた際、避難先へ一人の女が屆けて來るといふ、最後の山を作つてゐる。たゞ一つの古兜、頭も尻尾もない「天明紀聞」の記事が、これだけ因緣纏綿したものになるのは、一に作者の想像の力に外ならぬ。
[やぶちゃん注:私も好きな岡本綺堂「兜」は、昭和三(一九二八)年九月発行の『週刊朝日』が初出。「青空文庫」こちらで読める(新字新仮名)。]