じゆびれえしよん 山村暮鳥
じゆびれえしよん
泥醉せる聖なる大章魚
そらに擴げた無智の足
官能の高壓的なからくりに
マリヤ・マルタは
はんかちいふを取り出し
なみだを絞る
晝の十二時
盲目なる大章魚の礫刑(はりつけ)
毛のない頭蓋を直立させ
三鞭酒(しやんぺん)の脚杯(さかづき)ささげ
もぐもぐ何か言ふさうなが
なにがなにやら
あはれ晝の十二時
[やぶちゃん注:太字「はんかちいふ」は底本では傍点「ヽ」。標題「じゆびれえしよん」“jubilation”は英語では「歓喜・慶祝・祝祭」であるが、山村暮鳥が好んで用いるフランス語では俗語としての「大喜び」の意で、ここはそれの方がいいように思われる。
「マリヤ・マルタ」新約聖書に登場する姉妹。「マルタ」が姉で妹がマリア。後者は特に「ベタニアのマリア」と呼ばれる。エルサレムの近郊ベタニアに弟ラザロとともに暮らし、イエスと親しかった。参照したウィキの「マリア(マルタの妹)」によれば、『イエスが彼女らの家を訪れた時、迎えた姉マルタが接待のことで忙しくしていたのに対し、妹マリアはイエスの語る言葉に聞き入っていた。この姉妹の態度の違い』『は、伝統的に「活動的生活」と「観想的生活」を表すものであると考えられてきた。教会、とくに修道の伝統のなかでは観想的生活を重視する論述がなされるが、エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして』良しとした『とする独自の解釈を提出している。また東方教会においては、「観想的生活」と「活動的生活」はそれ自体において優劣をもたないが、マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる』。『またあるとき、マリアはイエスの足に香油を注ぎ、その足を自らの髪で拭った』。『この話は類似のエピソード』『の合成によるものかもしれない。この行為はイエスがキリスト(メシア=油を注がれし者)として祝福されること、あるいは近く来たるべき喪葬を暗示する。実際のイエスの喪葬にはマグダラのマリアが香油を用意した』『ことから、ベタニアのマリアとマグダラのマリアはしばしば混同もしくは同一視される』。五九一年、ローマ教皇グレゴリウス一世は、『ベタニアのマリアとマグダラのマリア、また』、「ルカによる福音書」に登場する「罪の女」を『同一人物とした。この理解は西方教会(特にカトリック)でのみ支持され、東方教会では受け入れられずに終わった』ともある。]

