柴田宵曲 續妖異博物館 「雷公」
雷公
元和年間に大風雨があつた時、潤州延陵縣に鬼が墮ちて來た。身の丈二丈餘り、眞黑で猪のやうな顏をしてゐる。角(つの)五六尺といふのは少し長過ぎるやうだが、一丈餘りの肉翅(にくし)があり、豹の皮の褌を腰に纏うて居つた。手足の爪は皆金色で、その聲雷の如しとある。田に働いてゐた男が驚いて役人に知らせ、その邑(むら)の令がわざわざ觀に行つて、その圖を作つたりしたが、その後また雷雨があつた際に翅を持つて飛び去つたと「錄異記」に見えてゐる。
[やぶちゃん注:「元和年間」唐の憲宗の治世に使用された元号。八〇六年から八二〇年。
「潤州延陵縣」現在の江蘇省丹陽市延陵鎮附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「二丈」一丈は三・〇三メートルだから、三メートル十センチ弱。
「五六尺」一・六~一・八メートル。確かに身長に比して長過ぎて邪魔だ。
「肉翅」羽毛ではない、肉の一部である翼らしい。蝙蝠の伸縮性のある飛膜のようなものか。
「錄異記」唐末から五代十国時代にかけての道士で著述をよくした杜光庭(八五〇年~九三三年)の伝奇小説集。以上は「太平廣記」の「雷一」に「錄異記」よりとして引かれた「徐誗」(これは発見した村人の名らしい)と題するもの。以下に中文サイトのものを加工して示す。
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唐潤州延陵縣茅山界、元和春、大風雨。墮一鬼。身二丈餘。黑色、面如猪首、角五六尺。肉翅丈餘。豹尾。又有半服絳裩、豹皮纏腰、手足兩爪皆金色。執赤虵。足踏之、瞪目欲食、其聲如雷。田人徐誗、忽見驚走、聞縣。尋邑令親往覩焉。因令圖寫。尋復雷雨、翼之而去。
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日本の雷はいつ頃から太鼓を背負つた鬼の形になつたか知らぬが、翅のことは見當らぬやうである。反對に支那の雷には太鼓の話がない。要するに雷の所持品が問題になるのは墮ちた場合に限るので、雲を蹈んで天上を駈け𢌞る時の事はわからぬから、一斑を以て全豹を推す類であらう。但支那の書物には雷に關する材料が少くないから、その中の變つたのを少し擧げて見る。
[やぶちゃん注:「一斑を以て全豹を推す」(いつぱんをもつてぜんぴやうをおす)は豹の毛皮には斑(まだら)の模様があるが、その斑の一つを見るだけで、それを持つ一匹の豹全体が美しいかどうかを判断するということから、物事の一部分によって全体を推量することのたとえ。「晋書」の「王献之傳」を出典とするが、ここはフラットな謂いでなく、安易にごく一部で全体の属性を推量することが危うい、と柴田は言っているのである。]
第一に唐の沈既濟の撰んだ「雷民傳」といふものがある。雷民は即ち雷の子孫であるが、どうして雷の子孫などがこの土に生れたかといふと、昔雷雨があつて晝も冥(くら)くなつた時、陳氏の庭に大きな卵がころがつてゐた。これを何かで覆つて置いたら、數箇月たつて卵が破れ、嬰兒が出て來た。これが雷の子であつたらしく、母親の雷が戸を敲いて庭に現れ、室に入つてその子に乳を飮ませる。一年餘りしてその子がものを食べるやうになつたので、もう來なくなつたが、陳氏ではこれを己れの子として育て、義といふ名を付けた、といふのである。雷民は祖先の雷を敬ひ、每(つね)に酒肴を供へたりしてゐる。勿論後々まで雷と交渉があつて、雲霧の暗く立ちこめた夕方を、その邊の人は雷耕と呼んでゐるが、明方に野へ出て見れば、必ず何者かの耕した跡がある。これを嘉祥としてよろこぶとか、雨後に落ちてゐる黑石を雷公墨と稱し、訴訟の場合には、これを普通の墨にまぜて書けば勝つとか、自ら他と異なる風習があつた。或時大雷雨の際、空中に豕首鱗身の者が現れたのを、刀を揮つて斬つたことがあり、その者は地に落ちて血を流したが、雷鳴は益々激しく、夕方に至り途に雲を凌いで見えなくなつた。その後刀を揮つた者の家は火災が頻りに起るので、雷民の父兄から擯斥されて追ひ出されてしまつた。已むを得ず山へ行つて家を造つても、火災はこゝまで追駈けて來る。崖に穴を穿つて住むやうにしたら漸く止んだ。雷民が雷の圖を作る場合には、必ず豕首鱗身に描くさうである。「錄異記」のも猪のやうな顏をしてゐたといふから、支那の雷公は日本のと大分風采が違ふらしい。
[やぶちゃん注:「沈既濟」(しんきさい 七五〇年?~八〇〇年?)は中唐の伝奇作家・歴史家。呉県(江蘇省蘇州)の生まれで、学者として知られ、徳宗の時に宰相楊炎の推薦によって史官となった。七八一年、楊炎の失脚によって処州(浙江省麗水)司戸参軍として左遷されたものの、数年後に楊炎の政敵が失脚、再び都に戻って礼部員外郎となっている。彼の作品では「枕中記」が最も人口に膾炙している。私の『黃粱夢 芥川龍之介 附 藪野直史注 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」 他』をお読み戴きたい。
「雷民傳」私は不学にして知らぬ。ただ、極めて酷似した内容のものを「太平廣記」の「雷二」の「陳義」に見出せる(「投荒雜錄」なるものを出典とすると最後にあるが、同話である)。前の仕儀で示す。
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唐羅州之南二百里、至雷州、爲海康郡。雷之南瀕大海。郡葢因多雷而名焉。其聲恒如在簷字上。雷之北高、亦多雷、聲如在尋常之外。其事雷、畏敬甚謹。每具酒殽奠焉。有以彘肉雜魚食者、霹靂輒至。南中有木名曰棹。以煮汁漬梅李、俗呼爲棹汁。雜彘肉食者、霹靂亦至。犯必響應。牙門將陳義傳云、「義卽雷之諸孫。昔陳氏因雷雨晝冥、庭中得大卵、覆之數月、卵破、有嬰兒出焉。目後日有雷扣擊戸庭、入其室中、就於兒所、似若乳哺者。歳餘。兒能食、乃不復至、遂以爲己子。義即卵中兒也。又云、「嘗有雷民、畜畋犬、其耳十二。每將獵、必笞犬、以耳動爲獲數。未嘗偕。動。一日、諸耳畢動。既獵、不復逐獸。至海傍測中嘷鳴。郡人視之。得。十二大卵以歸、置於室中。後忽風雨、若出自室。既霽就視、卵破而遺甲存焉。後郡人分其卵甲、歳時祀奠、至今以獲得遺甲爲豪族。或陰冥雲霧之夕、郡人呼爲雷耕。曉祝野中。果有墾跡。有是乃爲嘉祥。又時有雷火發於野中、每雨霽、得黑石、或圓或方、號雷公墨。凡訟者投牒、必以雷墨雜常墨書之爲利。人或有疾、即掃虛室、設酒食。鼓吹旛葢。迎雷於數十里外。既歸。屠牛彘以祭、因置其門。隣里不敢輒入。有誤犯者爲唐突、大不敬、出猪牛以謝之。三日又送、如初禮。又云、「嘗有雷民、因大雷電、空中有物、豕首鱗身、狀甚異。民揮刀以斬、其物踣地、血流道中、而震雷益厲。其夕凌空而去。自後揮刀民居室、頻爲天火所災。雖逃去、輒如故。父兄遂擯出、乃依山結廬以自處、災復隨之。因穴崖而居、災方止。或云、其刀尚存。雷民圖雷以祀者、皆豕首鱗身也。
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冒頭の「雷州」は恐らく現在の広東省湛江市雷州市であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「豕首鱗身」「ししゆりんしん」と読んでおく。「豕」は訓「いのこ」で猪或いは豚のこと。まあここはイノシシとしておこう。]
卵から生れた雷の子が陳義になつたのは、いづれ大昔の事に相違ないが、もう少し後になつて、雷州の雷民以外にも雷と交渉を生じた話がある。或村の老婆の娘が田圃で食事をしてゐた時、忽ち眞暗になつて大雨が降り來り、晴れたと思つたら、娘はもうゐなかつた。老婆は號哭して方々尋ね步いたけれど、その行方は皆目わからない。一箇月餘りの後、また天地晦冥になつて一しきり強い雨が降つたが、霽れてから庭を見ると、種々の御馳走を列べた席が設けられ、行方不明になつた娘が盛裝してそこに現れた。老婆が驚喜していろいろ尋ねるのに對し、私は今雷師の妻となつて、これから其方へ行かうと思つてゐる、親族が非常に多く、盛大な婚姻の式を擧げたが、一度人間に逢つて來いと云つて返してくれた、今度行けば再び歸ることはありますまい、と云つた。老婆がお婿さんに逢ふことは出來ぬかと聞いたら、それはむづかしいといふ答へであつた。幾晩か泊つた末、一夕風雨晦冥の事があつて、それきりすべての消息は絶えてしまつた(稽神錄)。――老婆と一緒に暮らす娘が突然姿をくらまし、やがて盛裝して歸つて結婚したことを告げ、數日にして去つてしまふなどは、現代にも珍しい話ではない。その去來に必ず風雨を伴ふに至つては、雷族と結婚した者に限られた現象であらう。
[やぶちゃん注:「號哭」「がうこく(ごうこく)」大声をあげて泣き叫ぶこと。「号泣」「慟哭」に同じい。
「稽神錄」五代十国時代から北宋にかけての政治家で学者・書家であった徐鉉(じょげん 九一六年~九九一年:篆書によく通じ、篆書を中心とした「説文解字」の校訂者として知られる)の撰になる志怪小説集。以上の話は「第一卷」の「番禺村女」(番禺村(ばんぐうそん)の女(むすめ))という条である。同仕儀で示す。
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庚申歳【案、庚申當宋建隆元年。】番禺村有老姥與其女餉田。忽雲雨晦冥、及霽、乃失其女。姥號哭、求訪、鄰里相與尋之不能得。後月餘、復云雨晝晦、及霽、而庭中陳列筵席、有鹿脯、乾魚、果實、酒醢、甚豐腆。其女盛服而至。姥驚喜持之、女自言、爲雷師所娶、將至一石室中、親族甚眾、婚姻之禮、一同人間。今使歸返、而他日不可再歸矣。姥問、「雷郎可得見耶。」。曰、「不可得。」。字留數宿、一夕復風雨晦冥、遂不可見矣。
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割注の「建隆元年」が正しければ(事実、干支は庚申)、ユリウス暦九六〇年の出来事である。]
雷車を推すといふ話も日本になくして支那にある話の一つである。「搜神後記」に周といふ人が都に出る途中、日暮れの路傍に小さな新しい家があり、一人の女が門に立つて居つたが、周を見て、もう日が暮れますと云ふ。この家に一夜の宿を乞ふと、夜の八時頃に外から子供の聲で、その女の名を呼び、雷車を推せといふ命令だと傳へた。女は周に挨拶して出て行つたが、夜が明けて見たら家も何もなく、新しい塚があるばかりであつた。この塚の主である女は何者か、何の因緣で雷車を推さなければならぬか、「搜神後記」はこれらに就いて何も書いてない。雷車なるものがどこに在つて、これを推すとどうなるのか、さつばりわからぬのである。
[やぶちゃん注:「搜神後記」四世紀、東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」を後補する書で、かの「桃花源記」が採録されていることから東晋の陶淵明の著作とされるが、仮託と考えてよい。但し、六朝志怪の面目は備えており、同時代の作であることは疑いがない。「第五卷」の以下。同前の仕儀で示す。
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永和中、義興人姓周、出都、乘馬、從兩人行。未至村、日暮。道邊有一新草小屋、一女子出門、年可十六七、姿容端正、衣服鮮潔。望見周過、謂曰、「日已向暮、前村尚遠。臨賀詎得至。」。周便求寄宿。此女爲燃火作食。向一更中、聞外有小兒喚阿香聲、女應、「諾。」。尋云、「官喚汝推雷車。」女乃辭行、云、「今有事、當去。」。夜遂大雷雨。向曉、女還。周既上馬、看昨所宿處、止見一新塚、塚口有馬尿及餘草。周甚驚惋。後五年、果作臨賀太守。
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「永和」これは東晋の穆帝の治世で使用された元号で三四五年から三五六年。言っておくと、高校生に中島敦の「山月記」の原典「人虎傳」などを読ませると、最後に高い地位に就いたとあるのだから、その怪異体験が出世を予兆しているのだなどと言った生徒がいたが、これは当時の志怪や伝奇の常套的な形式、マニエリスムとしての額縁なのであって、官職就任と怪異体験には直接の因果関係はない。]
元和年間に建州の山寺に一宿した者が夜半に目をさますと、門外がびどくやかましい。窓から覗いて見たら、數人の者が斧を揮つて雷車を造りつゝあつた。そのうちに肌寒くなつて嚏をしたら、あたりは眞暗になり、その人は兩眼とも盲になつてしまつたと「酉陽難俎」にある。人間の見るべからざるものを窺つた爲、かういふ祟りを受けたらしい。これなどは作業中を一瞥したに過ぎぬが、「廣要記」にある話は暴雨の際に雲中から落ちて來たものがある。村女九人が一つの車を護つて居り、王老の女阿推――亡くなつてから半歳ばかりたつた女もその中に在つた。王は悲喜交々到るといふ有樣で、母親や妹も出て來て、話は容易に盡くべくもなかつたが、仲間が頻りに促すので、また車に戾つた。車が地を離れるに從つて雲がこれを蔽ひ、次いで雷聲が起る。はじめて雷車たることを知つたとある。
こゝに村女とあり、半歳前に亡くなつたともあるので、「搜神後記」の記事と結び付きさうな氣もする。
[やぶちゃん注:「建州」現在の福建省建甌(けんおう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「嚏」「くさめ」。くしゃみ。
以上の「酉陽雜俎」は「卷八」の「雷」の以下。
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元和末、止建州山寺中。夜中、覺門外喧鬧、因潛於窗欞中觀之。見數人運斤造雷車、如圖畫者。久之、一嚏氣、忽斗暗、其人兩目遂昏焉。
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「廣要記」不詳。されば、原文も探り得ない。]
さうかと思ふと、またこんな話もある。北都介休縣の民が晉祠の軒に宿つたところ、夜半に門を敲いて、介休王、暫く霹靂車をお貸し下さい、これこれの日に介休の麥を收めてしまひたいのです、といふ聲が聞える。暫くして人が出て來て、霹靂車は今忙しいから貸すことは出來ない、といふ大王の話を傳へた。けれども借りに來た方はなかなか引き下らず、繰り返して歎願するので、遂に人が五六人、燭を秉(と)つて廟の後から現れた。介山の使者は馬に乘つたまゝ門を入り、旗のやうなものを授かつた。旗はすべて十八枚あつて、一枚每に稻妻のやうな光りを發する。かういふ情景を目擊した男は急いで家に歸り、麥は早く刈り取つた方がいゝ、今に大風雨が來るといふことを近村に觸れ𢌞つたが、誰も信ずる者がない。自分のところだけさつさと麥を刈り收め、親戚等と共に高い丘の方へ避難してゐると、果してその日の午頃に至り、介山上に起つた雲氣が忽ちに天を蔽ひ、すさまじい大雷雨になつた。千餘頃(けい)の麥は全くめちやめちやになり、數村の民は妖としてこれを訴へたと「酉陽雜俎」に見えてゐる。霹靂車も雷車も大体似たものであらうが、愈々出でて愈々わからなくなつて來る。
[やぶちゃん注:「北都」唐代の太原府のこと。以下の注参照。
「介休縣」東洋文庫版今村与志雄氏の注によれば山西省介休県とする。現在の山西省晋中市介休市。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「晉祠」(しんし)は同じく今村氏の注によれば、『山西省太原[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]の西南』の『縣甕(けんおう)山麓にある。晋水の水源』で『周の武王の弟であり、唐に封ぜられた唐叔虞(しゅくぐ)を祭祀する』とある。
「千餘頃」「頃」(けい)は中国の面積単位で「一頃」は 約 66,667 平方メートルであるから、「千頃」で六十七平方キロメートル。因みに八丈島は七十平方キロメートルである。
以上は「酉陽雜俎卷八」の「雷」の以下。同前。
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李墉在北都、介休縣百姓送解牒、夜止晉祠宇下。夜半、有人叩門云、「介休王暫借霹靂車、某日至介休收麥。」良久、有人應曰、「大王傳語、霹靂車正忙、不及借。」。其人再三借之、遂見五六人秉燭、自廟後出、介休使者亦自門騎而入。數人共持一物如幢扛、上環綴旗幡、授與騎者曰、「可點領。」。騎者卽數其幡、凡十八葉、每葉有光如電起。百姓遍報鄰村、令速收麥、將有大風雨、村人悉不信、乃自收刈。至其日、百姓率親情據高阜、候天色及午、介山上有黑雲氣如窯煙、斯須蔽天、注雨如綆。風吼雷震、凡損麥千餘頃。數村以百姓爲妖訟之、工部員外郎張周封親睹其推案。
*]
「聊齋志異」の「雷曹」は樂雲鶴なる者が壯士に伴はれて天界に遊ぶ話である。その中に二頭の龍の駕車に乘り、貯へた水を雲間に注ぐところがある。壯士は卽ち雷曹で、三年間地上に謫せられ、今その期限が滿ちたものとわかつた。別るゝに臨み、駕車の長い繩につかまらせ、これで下りればいゝと云ふ。樂頗る危ぶんだが、雷曹笑つて心配はないと云ふ。その言に從つたら、忽ちにして地に達し、然もそこは自分の村の外れであつた。繩は次第に縮まつて雲中に收まり、また見えなくなつた。久しい旱(ひで)りの頃で、十里内外のところはろくに雨が降らなかつたが、樂の村だけは彼が天上から注いだ水で、溝が一杯になつてゐた。――この話は童話的要素があつて甚だ面白い。樂が天上で袖に入れて來た星屑を机の上に置くと、晝は黑い石のやうだが、夜に入れば光明煥然として四壁を照らすなどといふのも、童話的要素の附錄と見るべきものである。
[やぶちゃん注:原文は以下。同前。
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樂雲鶴、夏平子、二人少同里、長同齋、相交莫逆。夏少慧、十歳知名。樂虛心事之、夏亦相規不勌、樂文思日進、由是名並著。而潦倒場屋、戰輒北。無何、夏遘疫卒、家貧不能葬、樂鋭身自任之。遺襁褓子及未亡人、樂以時恤諸其家、每得升斗、必析而二之、夏妻子賴以活。於是士大夫益賢樂。樂恆産無多、又代夏生憂内顧、家計日蹙。乃嘆曰、「文如平子、尚碌碌以沒、而況於我。人生富貴須及時、戚戚終歳、恐先狗馬填溝壑、負此生矣、不如早自圖也。」。於是去讀而賈。操業半年、家貲小泰。
一日、客金陵、休於旅舍。見一人頎然而長、筋骨隆起、彷徨座側、色黯淡、有戚容。樂問、「欲得食耶。」其人亦不語。樂推食食之、則以手掬啗、頃刻已盡。樂又益以兼人之饌、食復盡。遂命主人割豚肩、堆以蒸餅、又盡數人之餐。始果腹而謝曰、「三年以來、未嘗如此飫飽。」。樂曰、「君固壯士、何飄泊若此。」。曰、「罪嬰天譴、不可説也。」。問其里居、曰、「陸無屋、水無舟、朝村而暮郭也。」。樂整裝欲行、其人相從、戀戀不去。樂辭之。告曰、「君有大難、吾不忍忘一飯之德。」。樂異之、遂與偕行。途中曳與同餐。辭曰、「我終歳僅數餐耳。」。益奇之。次日、渡江、風濤暴作、估舟盡覆、樂與其人悉沒江中。俄風定、其人負樂踏波出、登客舟、又破浪去、少時、挽一船至、扶樂入、囑樂臥守、復躍入江、以兩臂夾貨出、擲舟中、又入之、數入數出、列貨滿舟。樂謝曰、「君生我亦良足矣、敢望珠還哉。」。檢視貨財、並無亡失。益喜、驚爲神人、放舟欲行。其人告退、樂苦留之、遂與共濟。樂笑云、「此一厄也、止失一金簪耳。」。其人欲復尋之。樂方勸止、已投水中而沒。驚愕良久。忽見含笑而出、以簪授樂曰、「幸不辱命。」江上人罔不駭異。
樂與歸、寢處共之。每十數日始一食、食則啖嚼無算。一日、又言別、樂固挽之。適晝晦欲雨、聞雷聲。樂曰、「雲間不知何狀。雷又是何物。安得至天上視之、此疑乃可解。」。其人笑曰、「君欲作雲中遊耶。」。少時、樂倦甚、伏榻假寐。既醒、覺身搖搖然、不似榻上、開目、則在雲氣中、周身如絮。驚而起、暈如舟上。踏之、耎無地。仰視星斗、在眉目間。遂疑是夢。細視星嵌天上、如老蓮實之在蓬也、大者如甕、次如瓿、小如盎盂。以手撼之、大者堅不可動、小星動搖、似可摘而下者。遂摘其一、藏袖中。撥雲下視、則銀海蒼茫、見城郭如豆。愕然自念、設一脱足、此身何可復問。俄見二龍夭矯、駕縵車來。尾一掉、如鳴牛鞭。車上有器、圍皆數丈、貯水滿之。有數十人、以器掬水、遍灑雲間。忽見樂、共怪之。樂審所與壯士在焉、語衆云、「是吾友也。」。因取一器授樂、令灑。時苦旱、樂接器排雲、約望故鄉、盡情傾注。未幾、謂樂曰、「我本雷曹、前誤行雨、罰謫三載、今天限已滿、請從此別。」。乃以駕車之繩萬尺擲前、使握端縋下。樂危之。其人笑言、「不妨。」樂如其言、飀飀然瞬息及地。視之、則墮立村外。繩漸收入雲中、不可見矣。
時久旱、十里外、雨僅盈指、獨樂里溝澮皆滿。歸探袖中、摘星仍在。出置案上、黯黝如石、入夜、則光明煥發、映照四壁。益寶之、什襲而藏。每有佳客、出以照飲。正視之、則條條射目。一夜、妻坐對握髮、忽見星光漸小如螢、流動橫飛。妻方怪咤、已入口中、咯之不出、竟已下咽。愕奔告樂、樂亦奇之。既寢、夢夏平子來、曰、「我少微星也。君之惠好、在中不忘。又蒙自天上攜歸、可云有緣。今爲君嗣、以報大德」。樂三十無子、得夢甚喜。自是妻果娠、及臨蓐、光輝滿室、如星在几上時、因名「星兒」。機警非常、十六歳、及進士第。
異史氏曰、「樂子文章名一世、忽覺蒼蒼之位置我者不在是、遂棄毛錐如脱屣、此與燕頷投筆者、何以少異。至雷曹感一飯之德、少微酬良友之知、豈神人之私報恩施哉、乃造物之公報賢豪耳。」。
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柴田天馬氏の訳文「雷曹」を先の角川文庫版で示す。
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雷曹(らいそう)
楽雲鶴(らくうんかく)と夏平子(かへいし)の二人は、小さいころから同じ里(さと)に住み、大きくなっては同じ斎(しょさい)で勉強する、莫逆(したしい)い交わりであった。
夏は小さいときから賢く、十歳になると、もう名を知られていたので、楽は、すなおな気持ちで、彼を、うやまい、夏も、たがい規(ただ)しあって、倦まず、はげましてくれる。それで楽の学問も日に日に進歩し、夏と碧で、名亮られるようになったのだが、二人とも試験運が潦倒(わる)くて戦輙北(らくだい)した。
まもなく、夏は病気にかかって死んだが、貧乏で葬ることができないのを、楽は進んで引き受け、あと残った襁褓子(あかご)と未亡人に対し、ときどきその家に行って恤(めぎ)む。一升でも一斗でも、手に入るごとに、きっと二つに分けてあたえる。それを頼(たより)に、夏の妻子は生きてゆくのだった。
そんなことから、士大夫(がくしゃ)たちは、ますます楽を賢良な人だといって尊敬したのであるが、もともと楽の財産は多くもなかったのに、夏に代わって暮らしむきの心配をしてやるので、家計が日に日にに苦しくなってきた。
彼は嘆息した、
「平子ほどの文章家でさえ、つまらなく死んでしまうのに、おれなんかが、どうなるものか。人生富貴つかむのは時がたいせつだ。年じゅう、ぐずぐず心配しているだけでは、犬や馬より先に、のたれ死にをして、この生命にそむくことになるだろうから、早く考えたほうがよい」
彼は読書をやめて賈(あきんど)なり、半年ほど、あきないをして、いくらか楽になったのである。
ある日、金陵に旅をして旅舎(はたご)に休んでいると、背の高い、筋骨の隆起(もりあが)った人が、そばを、うろうろしているのを見た。薄黒い顔色をして、悲しそうなようすなので、
「食いたいのですか」
と聞いたが、黙っているのだ。楽が食いものを推しやって、お食べなさいと言うと、その人は手ですくって、ぺろりとたいらげた。楽は、また二人まえの食事をやったが、また、すぐに食ってしまった。で、楽は、あるじに言いつけ、豚の肩肉を切り、蒸餅を、つみあげて出させた。それは何人まえかの食事なのだが、その人は、また、あまさず食ってしまい、やっと果腹(まんぷく)したらしく、
「三年このかた、こんなに食い飽きたことはありません」
と礼を言った。楽が、
「きみのような、りっぱな男が、どうして、こんなに、うろついてるのかね」
と聞くと、
「天罰を受けているのです。話せません」
と言った。楽が、また里居(すまい)をたずねると、
「陸に屋(いえ)なく、水に舟なしで、朝は村、暮(より)は郭(いしがき)です」
と言った。やがて楽は支度をして旅舎を出たが、その人は、なごり惜しげに、ついてくるので、楽は、来るなと、ことわった。
すると、
「きみには、大難がある。ぼくは、一飯の親切を忘れることができない。きみの大難を黙って見てはいられないのだ」
と言った。楽は、ふしぎ思って、とうとう、いっしょに行くことにしたが、途中で食事をともにしようと思って引っぱると、
「ぼくは、一年に数(なんど)しか食わないのです」
と言ってことわるので、楽は、ますます、ふしぎに思うのだった。
次の日、長江を渡るときにわかに風波が起こって、幾そうかの估舟(あきんどぶね)は、ことごとく、くつがえり、楽も、その人も、ともに江中に沈んだが、やがて風が静まると、その人は楽を負い、波を踏んで出てきて、楽を、その船に助け入れ、臥(ね)て番をしていろ、と言いつけてから、また江中に飛びこんだ。どうするのかと思っているうちに、両手に貨(しなもの)を夾(はさ)んで出てきて、舟の中に投げ入れ、また水にはいったのである。何度かはいって、何度か出た。品物は舟いっぱいに並べられた。
楽は、感謝して、
「きみは、ぼくを生かしてくれた。それで充分だ。品物の、かえることまで望みはしないよ」
と言いながら調べて見た。品物は少しもなくなっていないのだ。楽は、ますます驚いて、神人(かみ)だと思ったのである。やがて、舟を出して行こうとすると、その人は別れを告げるので、楽は苦(しい)て引きとめ、とうとういっしょ江を渡りながら、楽はにこにこして、
「今度の災難は、金の簪を一本失っただけで、すんだ。ありがとう」
と言った。すると、その人は、また探そうとする。楽が、とめようとしたときには、もう水中に飛びこんで見えなかった。楽は驚いて、しばらく水面を見ていると、たちまちにこにこしながら水から出てきて、簪を楽にわたし、
「お望みどおりに、うまく探せた」
と言うのだった。江上の人たちで、ふしぎがらぬ者はなかった。
楽はその人といっしょに帰り、寝室をともにして暮らすのであったが、彼の食事は十幾日ごとに、やっと一度で、食うとなると、数えきれぬはど食うのである。
ある日、また別れると言うのを、楽は固(しい)て引きとめたが、それは、ちょうど、雨の降りそうな暗い昼で雷(かみなり)の音が聞こえていたから、楽は、
「雲のなかは、どんなようすだろう。雷とは、またどんな物かな。なんとかして天上に行ってみることができたら、疑いが解けるのだが」
と言った。すると、その人は、
「きみは、雲中の遊びを、しようというのか」
と言って笑った。
しばらくすると、楽は、ひどく、だるくなったので、榻(ねだい)に俯(うつぶ)して、うたた寝をした。やがて目がさめたが、身体が、ゆらゆらして、榻の上のようではない。目をあけると、雲の中にいて、まわりは絮(わた)のようである。驚いて立ちあがると、舟の上みたいに目まいがするし、踏んでみても、やわらかで、地めんはないのだ。上を見ると、星が目の前にあるので、夢だと思った。よく見れば、星は、蓬(つと[やぶちゃん注:花托(かたく)の意。])のなかにある蓮の実のように、雲の中に嵌(は)めこまれていた。大きいのは甕(かめ)ぐらい、次は瓿(つぼ)ぐらいである。手でゆすぶってみた。大きいのは堅くて動かなかったが、小さいいのは、ぐらぐらして、摘み取れるようだったから、その一つを摘んで袖の中にしまった。
雲を押しわけて見おろすと、蒼茫(はてのない)銀海のようで、城郭が豆ぐらいに見える。楽は驚いて、もし足をすべらせたら、自分は、どうなるかしれないと思うのだった。
と、二つの竜が、夭矯(はね)ながら、幌車(ほろぐるま)を引いてきた。尾を振るたびに、牛鞭を鳴らすような音が響くのである。
車の上の器(うつわ)は、すべて、周囲が何丈もある大きなもので、水が満々と貯えてあった。数十人が器を持って水をすくい、まんべんなく雲なかに撒いていたが、ふと楽を見つけて、みんな、ひどく怪しむのであった。楽が、仲間を、よく見ると、その中に大食の壮士がいた。彼は、みんなに向かい、
「これは、わしの友だちだ」
と言い、一つの器を楽にわたして水を撒かせた。そのときは、ひどい旱(ひでり)が続いていたから、楽は器を受け取って雲を排(ひら)き、故郷の方を望んで、こころ尽くしの水をそそいだのである。
まもなく、彼は楽に向かい、
「わしは、もとは雷曹(かみなり)だが、あやまって雨を降らした罰で、三年の間、下界に謫(や)られ、今、やっと期限が満ちたのだ。これで別れよう」
と言うと、車につけた一万尺もあろうかと思われる、長い繩の一端をつかみ、それにすがって、おりろと言った。楽は、あやぶんだが、彼が笑いながら、
「だいじょうぶだ」
と言うので、言われたとおりにした。するすると、またたくうちに地上についた。見ると、村はずれに落ちて立っているのだ。繩は、だんだん雲の中におさまって見えなくなったのである。
そのときは長い旱が続いていて、せっかくの雨も、十里以外は、わずかに指のかくれるほどであったが、楽の里(むら)だけは、溝や小川が満ちあふれるほどに降った。
家に帰って、たもとを探ると、摘んできた星は、そのままあった。たもとから出して机の上に置いたが、昼は黒ずんで石のように見えながら、夜になれば、光り輝いて、あたりを照らすのである。楽は、ますます宝として、大事にしまっておき、佳(よ)い客があるごとに、それを出して酒席を照らしたが、まともに見つめると、光のすじが目を射るようであった。
ある夜、妻は、星と向きあって髪を結っていた。と星の光は、だんだん螢のように小さくなって、すっと流れた。妻が怪しんで、あっと言ったときには、もう口の中にはいっていた。吐きだそうとしたが、出なかった。とうとう喉を通ってしまった。
妻は驚いて、楽のところに走ってゆき、そのことを告げたので、楽も、ふしぎなことだと思った。やがて寝てから、夢に夏平子が来て、
「ぼくは少微星なのだ。きみの親切は、こころの中で忘れるひまもない。それに、天上から連れ帰られたのは、縁があるというものだから、きみの嗣(よつぎ)になって大恩に報いたいと思う」
と言った。楽は三十になって子がなかったから、夢をみて、ひどく喜んだ。
妻ははたして娠(みおも)になって、子どもの生まれる時には、光が部屋じゅうに輝き、星が机の上にあるときのようであった。で、星児(せいじ)と名づけたが、非常に賢く、十六歳で進士の試験に及第したのである。
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流石、天馬空を行くが如き名訳と存ずる。]
狂言の「針立雷」は田舍𢌞りの藪醫者が天上から墜落した雷を療治する話である。雷は腰の痛みもすつかり癒えて天上するまでになつたが、醫者に拂ふ藥代の持ち合せがない。水損旱損のないやうにしてやる約束で天上してしまふ。日本にも雷に關する話は大分あるが、支那のやうに人間と交渉を生ずる話はあまり見當らぬ。「針立雷」などはその少い中の一つとして、記憶して置いてよからうと思ふ。
[やぶちゃん注:「針立雷」「はりだていかづち」と読む。個人ブログ「クリコの観能日記」のこちらで黒川能のそれを画像附きで楽しめる。]
支那の雷にはかういふ卑小なのは少いが、「子不語」中の一話などは、こゝに擧げて置くのに恰好のものかも知れぬ。杭州に萬姓の富家があり、大厦高樓をつらねて居つたところ、一日雷が落ちた。恰も萬の家に産婦があつたので、その穢(けがれ)に觸れた雷公は昇天出來なくなり、已むを得ず高い木の上に蹲つて居つた。「子不語」の傳へる雷公の風采は、雞の如き爪、尖つた嘴で、手に錐を持つてゐるといふのだから、日本のとは大分違ふ。下から見てゐる連中には何者とも知れなかつたが、漸くにして雷公とわかつたので、萬は笑談半分に、どうだ、誰かあの錐を取つて來る者はないか、賞銀は十兩出すぞ、と云ひ出した。皆默つて尻込みする中に、聲に應じて現れたのは瓦屋であつた。彼は日暮れの暗がりに紛れて攀ぢ登り、雷公が睡つてゐるのに乘じ、その錐を偸んで來た。萬が手に取つて見ると、鐡でもなければ石でもない。まぶしいやうに光つて居り、長さは七寸ばかりで、先が甚だ鋭く、石を刺すことが泥の如くである。折角手に入れたものの、人間には使ひ途がないので、いつそ刀に作り直したらよからうといふことになり、鐡工に命じて火に入れさせたら、忽ち一陣の靑姻と化し去つた。俗に天火は人火を得て化すといふ、信(まこと)に然りと書いてある。
[やぶちゃん注:これは「小不語」の「卷八」にある「偸雷錐」である。以下に以前の仕儀で示す。
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杭州孩兒巷有萬姓甚富、高房大廈。一日、雷擊怪、過産婦房、受汙不能上天、蹲於園中高樹之頂、雞爪尖嘴、手持一錐。人初見、不知爲何物、久而不去、知是雷公。萬戲諭家人曰、「有能偷得雷公手中錐者、賞銀十兩。」。眾奴嘿然、俱稱不敢、一瓦匠某應聲去。先取高梯置牆側、日西落、乘黑而上。雷公方睡、匠竟取其錐下。主人視之、非鐵非石、光可照人、重五兩、長七寸、鋒棱甚利、刺石如泥。苦無所用、乃喚鐵工至、命改一刀、以便佩帶。方下火、化一陣靑煙、杳然去矣。俗云、「天火得人火而化。」。信然。
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うむ! これは確かに能狂言「針立雷」の真正大陸版の趣きがある!]
雷の奇譚を列擧すれば容易に盡きぬであらう。もう一つ「子不語」にあるのは、黃氏の老婆が獨り室内に坐つてゐると、突然劇しい風雨になり、霹靂一聲と同時に、左側の壁の下に置かれた器物が室中に移動し、壁を離るゝこと四五尺のところに止まつた。この壁を塗つた白い壁土は、厚さ三分ぐらゐに過ぎなかつたが、これもまた壁を離れ、四五尺ばかりの距離に直立し、寸毫の壞れたところもなかつた。老婆は驚きの餘り氣絶し、暫くして蘇つたが、何に擊たれたかわからず、家の中を點檢しても、その外にこれといふ被害はなかつた。
[やぶちゃん注:これは「續不子語」の「卷九」にある「雷異二則」の最初の事例である。例の仕儀で以下に示す。
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滁州某村有黃氏嫗獨坐室中、午後風雨暴至。忽霹靂一聲、左壁下諸器物皆移置室中、離壁四五尺、壁上白泥厚不過三分、亦離壁四五尺、植立如堵、絲毫不損。嫗驚樸、良久乃蘇、不知所擊何物,其家亦無他異。
*]
かういふ話は雷公が姿を現すものよりも或意味に於て恐ろしい。「劇談錄」にも元積といふ人の別莊が出來上つたばかりの時、疾風甚雨があり、油を入れた甕が六つ七つ、霹靂一聲と共に梁上に整列し、油は一滴もこぼれなかつた話がある。その年主人が亡くなつたといふのを見れば、これは明かに凶兆であつた。
[やぶちゃん注:「劇談錄」唐の康餅の伝奇小説集。これは「太平廣記」の「卷第三百九十四 雷二」に「劇談錄」からとして、以下のように出る。中文サイトから今回は校注部(丸括弧部分)を含め、例の仕儀で引く。それだと「元積」はかの知られた中唐の詩人元稹である可能性があるか?
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唐元稹(「稹」原作「積」、據明抄本改)鎮江夏。襄州賈墅(明抄本「墅」作「塹」)有別業。構堂、架梁才畢、疾風甚雨。時戸各輸油六七甕、忽震一聲、甕悉列於樑上、都無滴汙於外。是年稹卒。
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