甲子夜話卷之四 6 白烏の事
4-6 白烏の事
天明の末か、京師の近鄙より白烏を獲て朝廷に獻じたることあり。みな人祥瑞と言ける。然に翌年京都大火し、禁闕も炎上す。其後、松平信濃守に【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】會して聞たるは、曰、某が實家中川の領内にては、たまたま白鳥を視ること有れば、輕卒を使てこれを逐索め、鳥銃を以て遂に打殺すことなり。其ゆへは白烏(シロカラス)は城枯(シロカラス)の兆とて、其名を忌て然り。野俗のならはし也と云て咲たりしが。
■やぶちゃんの呟き
この話は最近、私が電子化した『柴田宵曲 妖異博物館 「白鴉」』にも出る。参照されたい。
「白烏」本文にある通り、白いアルビノのカラスであるので注意されたい。白鳥(はくちょう)ではないのでご注意あれ。
「天明」天明は九年までで、グレゴリオ暦では凡そ一七八一年から一七八九年。
「獲て」「とりて」。
「然に」「しかるに」。
「翌年京都大火し、禁闕も炎上す」「禁闕」は「きんけつ」で皇居のこと。御所も回禄したとなると、これは尋常の記録に残らない火災ではないから、これは天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した大火災、所謂、「天明の大火」のことと考えてよかろう。ということは白鴉の献上は天明七年のこととなる。「末か」と疑問詞を添えているし、末頃とは言えるから問題はない。ウィキの「天明の大火」によれば、『出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしのたいか)とも呼ばれた。単に京都大火(きょうとたいか)あるいは都焼け(みやこやけ)というと、通常はこの天明の大火のことを指す』。『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都はこの前後にも宝永の大火と元治のどんどん焼けで市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある』。三十日未明、『鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日早朝で、『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町の内、焼失した町は千四百二十四町、焼失家屋は三万六千七百九十七戸、焼失世帯六万五千三百四十世帯、焼失寺院二百一ヶ寺、焼失神社三十七社、死者は百五十名に及んだとする。但し、『死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は』千八百名『はあったとする説もある』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と天明の大飢饉における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示している』とある。
「松平信濃守」「【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】」松平忠明
(ただあき 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)。豊後岡藩(現在の大分県の一部にあり、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市))第八代藩主中川久貞の次男であったが、旗本松平忠常の養子となり、本丸書院番頭(ばんがしら)となった。寛政一一(一七九九)年には蝦夷地取締御用掛筆頭として幕府直轄地となった東蝦夷地に向かい、アイヌの保護・道路の開削・樺太東西海岸の探査などを指揮した。享和二(一八〇二)年には駿府城代となったが、駿府で自害した(自害理由は調べ得なかった)。
「逐索め」「おひもとめ」。
「打殺す」「うちころす」。射殺する。
「兆」「きざし」。
「忌て然り」「いみてしかり」。忌んでそのように処置致すのである。
「咲たりしが」「わらひたりしが」。逆接或いは余韻を残す接続助詞「が」で擱筆しているのは今までの「甲子夜話」では特異点である。