譚海 卷之二 下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事
下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事
○下野國萱橋と云(いふ)所は、佐竹五千石の領地也。其郷(がう)に藥師寺村と云有(あり)、往昔(むかし)諸國に藥師寺をおかれたる跡にて、今にその時の瓦時々土中より掘出(ほりいだ)すといへり。又武州甲州道中に、府中六所明神と云有、其近き所に國府寺今に殘(のこり)て有、此瓦も千年の物也。堂の雨(あま)だりに集め積(つみ)て有、好事(かうず)の者取去(とりさる)事あれば病惱(びやうなう)して異(い)有(あり)とて人(ひと)取(とる)事なし。大坂城中にも豐臣太閤築城の時のかわら往々あり、瓦文(かはらもん)に金(きん)をもちて菊桐(きくきり)の紋を燒付(やきつけ)たる物也。同城内に石の手水鉢(てうづばち)あり、甚だ大きなるもの也。本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ。又書院の雨だりに殘らず敷(しき)つめてある石は、三四寸の丸くひらたき石也、太閤の三合石と稱す。是も太閤此石の形を愛せられ、是をもちくるものには米三合づつ給はりにし故其名ありと云。
[やぶちゃん注:「下野國藥師寺」現在の栃木県南部の下野(しもつけ)市南河内地区に地名として薬師寺があり、下野薬師寺遺跡もある。ここ(グーグル・マップ・データ)であろう。ウィキの旧河内郡「南河内町」に『江戸期には佐竹氏、または、旗本・代官の支配地になり、いくつかの村が秋田藩にも属した』とある。「壹橋」は不詳だが、隣接した旧町名に下都賀郡石橋町(いしばちまち)があった。「壹橋」が「いちはし」と読むとすれば「石橋(いしはし/いしばし)」とは音が似通う。
「藥師寺」薬師如来は大乗仏教に於いて病気平癒等の現世利益に効験のある仏として古くから信仰されており、薬師寺と称する寺はかつて各地に建てられた。ウィキの「下野薬師寺跡」によれば、『栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる広大な平野上に位置し、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設けられていたことで知られる。当時、戒壇は当寺のほかに奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしか設けられておらず、これらは「三戒壇」と総称された。そのほか、道鏡が宇佐八幡宮神託事件ののち』、『当寺に左遷されたことでも知られる寺院である』。『下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には安国寺が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている』。『薬師如来を信仰する「薬師信仰」は、中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる。日本には飛鳥時代までに伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来』、天武天皇九(六八〇)年十一月に、『天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである』。『「下野」(当時は「下毛野」)の文字が六国史に頻出するようになるのもこの頃からで、大和国の薬師寺建立発願』から四年後の天武天皇一三(六八四)年に全国の五十二氏が『天武天皇より朝臣を賜姓され、下野国造家である下毛野君も大三輪君や大野君、上毛野君、中臣連、石川臣や櫻井臣等とともに朝臣姓を賜っている。その数年後以内』『には帰化した新羅人が下毛野国に賦田を受けて居住し始めたと記録されており、創建に関わったとされる直広肆下毛野古麻呂の名も同年』十『月の条に登場する』。『下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられており、『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」』『とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」』『と見える。また、下野市では下野薬師寺は』七『世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしている』。『現在でも「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる』。『発掘調査の結果、出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから』、七『世紀末の天武朝の創建であると推定されている』。「続日本紀」によれば、天平勝宝元(七四九)年に『全国諸寺墾田地限が定められた折には、奈良の法隆寺や四天王寺、新薬師寺、筑紫の観世音寺などと並んで』五百町とされたとある。『奈良時代には、僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授ける戒壇が設けられた。当寺は東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺(東大寺)戒壇院)と西戒壇(福岡の観世音寺戒壇院)に対して「東戒壇」とも呼ばれた。これらは「本朝三戒壇」(天下三戒壇、日本三戒壇とも)と総称され、国内の僧侶を統制した』。宝亀元(七七〇)年、『中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、当寺の造寺別当(造寺司の長官)となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている』。道鏡は七七二年に当地で没したとされる(近くに墓がある)。『平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。その理由として、当寺は戒壇に拠って存続していて特定の教団を持っていなかったため、戒律軽視の流れに逆らえなかったと考えられている』。それでも「日本三代実録」によると、貞観一六(八七四)年に『平安京紫宸殿において大般若経の伝読』が行われたが、その「金字仁王経」七十一部が五畿七道各国に一部ずつ配布された際、『当寺には大宰府観世音寺および豊前国弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)とならび、各国配布分とは別の』一部が配置されており、『東国における当寺の位置付けの高さが窺われる』とある。鎌倉時代の建久四(一一九三)年には源頼朝より供僧三口が『寄せられたほか、鎌倉幕府からの積極的な後援がうかがわれ』、その後も『慈猛上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には門前市も形成されたという』。『室町時代、室町幕府は禅宗への帰依が篤くした。戒律・真言に拠る当寺は新たな庇護者を求め、足利尊氏・直義が全国に安国寺利生塔を建てるという意向を容れ』、暦応二(一三三九)年には「安国寺」と改名した。但し、『一般的にはその後も近世まで「下野薬師寺」と呼称されていた』。『戦国時代、後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて堂宇は焼失し、以後威容を取り戻すことはなくなる』。『近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の安国寺)、佐竹氏から寺領』十石が寄進されており、『また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の龍興寺)は、佐竹氏から寺領』二十石が寄進された。この二つの寺は天和元(一六八一)年から享保四(一七一九)年にかけて『薬師寺の正統を争う訴訟を起こし』、議論の末、天保九(一八三八)年に、『「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する』『」という合意に達し現在に至っている』という。『発掘調査の結果』、『明らかとなった寺域は東西約』二百五十メートル、南北約三百三十メートルで、『伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そして』、『その北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である』。また、『中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認され』ているから、これだけの伽藍、瓦もたんと出ようというものである。
「府中六所明神」現在の東京都府中市宮町にある旧武蔵国の総社であった大国魂(おおくにたま)神社。ウィキの「大國魂神社」によれば、『武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを合わせ祀るため、「六所宮」とも呼ばれる』のことであろう。『古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。この長い巡礼を簡単に行えるよう、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの武蔵国の総社にあたる』。『当社は府中市中心部に鎮座するが、「府中」の市名はかつて武蔵国の国府があったことに由来する。当社の境内地がかつての武蔵国の国府跡』で江戸時代も『府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から武蔵国分寺や武蔵国分尼寺までの道が整備されていた』。創建は景行天皇四一(一一一)年と伝えられ、『源頼朝が妻の安産祈願をし、また源頼義と義家が奥州戦に向かう際に戦勝祈願を』したといった伝承もある。因みにここの例祭は、暗闇の中で神輿渡御が行われていたことから「くらやみ祭」と呼ばれ、「ハレ」である当夜は近世まで男女の暗中での交合が許されていた。
「國府寺」昭和五〇(一九七五)年以降の発掘調査によって、先の大国魂神社境内の南北の溝と、旧甲州街道、及び、大國魂神社のすぐ北にある「京所道(きょうづみち)」に挟まれた、南北三百メートル東西二百ネートルの範囲が「国衙」であったことが判明している(以上はウィキの「武蔵国府跡」に拠る)。発掘調査で実際にここに語られている瓦が主要出土品として出ている。
「此瓦も千年の物也」武蔵国府は奈良時代初期(平城京への遷都は和銅三(七一〇)年)から平安中期にかけて置かれていたから、良心的に捉えるなら、千年は誇張ではなく、寧ろ正確と言える(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞記録である)。
「雨だり」雨だれが落ちる軒下。
「菊桐の紋」実際には豊臣秀吉が朝廷より下賜された桐紋のことであろう。実際に天皇家の菊紋と、それに次ぐとされる桐紋を合体させた紋はない。菊紋は菊を象ったものを装飾化することを許容された程度のもので、正規の家紋として認められたものではない。例えば大坂城天守閣の大棟や大破風などにある通称「太閤菊の紋」などを指しているのであろうが、復元物を見ても、天皇家の菊とは被らないように花弁の数が減らしてあり、デザインも大きく異なる。
「同城内に石の手水鉢あり、甚だ大きなるもの也」不詳(私は大阪城に行ったことがない)。識者の御教授を乞う。
「本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ」これは蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)が京都市山科区にあった山科本願寺の第八世法主であった当時を指す。同寺の建立は文明一五(一四八三)年で、延徳元(一四八九)年に蓮如は五男の実如に本願寺を委譲して実如が第九世となっているが、蓮如はここで入滅しているから、この表現が正確であるとするなら、その六年間に造られた手水鉢ということになる(こちらの本願寺は天文元(一五三二)年に六角氏と法華宗徒によって焼き討ちされて消失した。現在、その跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っている)。]