山村暮鳥詩集「萬物節」――百田宗治「編纂後記」――
[やぶちゃん注:以下、底本の詩人百田宗治(ももたそうじ 明治二六(一八九三)年~昭和三〇(一九五五)年:パブリック・ドメイン)の手になる「編纂後記」を電子化しておく。前の「かなしさに」の注で示したように。以上の詩篇の幾つかについて、具体的な製作年代が記されてあるからである。一部記号の脱字を補い、踊り字「〱」は正字化した。]
編纂後記
山村暮鳥の遺稿(詩・童謠・童話)を携へて、山村未亡人が上京されたのは十月末のことであつた。花岡謙二君と同道して厚生閣を訪ねられた。暮鳥の生前に水戸で一度か二度お目にかゝつたことがあるが、その頃にくらべるとずつと肥つてゐられるやうにお見受けした。
遺稿は詩・童謠・童話のほかに、小説、感想、飜譯なども相當の量に
上つてゐるさうであるが、こんどはとりあへず詩だけを拜見することにした。この詩集に收錄したものゝほかに、『三人の處女』以前の作品、『三人の處女』と『聖三稜玻璃』の中間の作品などもあつたが、感ずるとこもあり、とりあへず『風は草木にささやいた』の前から大正八九年頃までのものを、未發表・未完成の・作品を中心としてとりいそぎ一册にまとめることにした。いま大體判明してゐるものだけの製作年度を、その後夫人から屆いた手紙によつて次に擧げて置く。
1(未發表と思はれる作品)の扉詩(扉の裏に九ポイントで組んだ詩)を除いて「陸稻畠を……」までが大正六年、「喫茶の詩」七年、「自分はこれまで……」から「ある農夫に就て」までが八年、「うす濁つたけむり……」から後は十二年の作品で、そのうち「りんごよ……」だけが十三年になつてから書いたもの。
2(未發表・未完成の作品)では、最初の「友よ……」から「なぎさで網を引いてゐる」までが八年、「或る日曜日の詩」だけが七年、それから「ぷうう……」が九年、「冬の着物」が十年、「身自らにおくる詩」十一年。
3 の作品は大正六年一月から九月まで、雜誌『詩歌』(前田夕暮氏主宰)に載せたもの。
4 のうちで判明してゐるものは「自分の詩」、「いのちのあるもの」、「ある日の詩」、「黎明の詩」、「夕の詩」、「椿」、「窓にて」、「春」、「萬物節」、「太陽の詩」、「蜀黍畑がある」、「笊には米が一ぱいある」、「日光の詩」、「朝」、「大風の詩」が七年から八年にかけてのもの。「この鴉を見ろ」は六年、「日本」九年、「靑い天」十一年、「雄渾なる山巓」、「陸橋の上にて」十年、「大光明頌榮」「蚊」十二年、それから「眞言」「芽」「かなしさに」の三篇が五年の作、他は不明である。
題のついてゐない作品(主として未完成のもの)は、最初の一行の始めの數語にりリーダーを付けて題に換へておいた。
既刊の詩集に入れられた詩は省いたが、或は二三重複してゐるものがあるかも知れない。
本の題の「萬物節」は集中の一篇り詩の題から私が選んだ。裝釘も嘗て椎の木社時代に幾册かの詩書を手がけたことを思ひ出し、昔に返つたつもりで自分でやつて見たが、いろいろ材料を制限されてゐるので、思つたやうなものにはならなかつた。たゞ室生犀星っ訓が早急の乞を容れて題簽を引受けてくれたことは有難かつた。古い友だちのかういふ厚窓を、故人も地下で歡んでゐてくれよう。
もしこの詩集が迎へられたら、つゞいて未發表の初期詩集その他の刊行にも順次及んで行きたいと思つてゐる。以上事務的なことだけを書きつけた。(百田宗治)
[やぶちゃん注:軍靴の足音が迫った昭和一五(一九四〇)年十二月十一日の刊行であることが、「いろいろ材料を制限されてゐるので、思つたやうなものにはならなかつた」という述懐に滲んでいる。それにしても、伊藤信吉・壺井繁治・藤原定・山室静という錚々たる詩人らの編集本である彌生書房版全詩集版の杜撰さに比して、百田宗治の誠実さはどうか。詩人もピンキリだ。]