甲子夜話卷之四 2 御臺所御歌、近衞公返歌幷詩歌の事
4-2 御臺所御歌、近衞公返歌幷詩歌の事
當御臺所は陽明家の御養女なり。日光山二百年御神忌勅會のとき、近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】登山ありて、それより出府なり。登城御對顏、奧迄も通られたるよし。滯府中、御臺所より、螢を籠え入て贈り玉へるときの御詠とて傳聞す。
めづらしき光りならねど時をしる
淺ぢが宿の螢なりけり
左大臣家のかへし
言の葉の玉をもそへてをくりこす
螢ぞやどの光りなりけり
此左府、鶴山と號せらる。器量ある人にて、文學にも長ぜられたりと聞く。其詩に、
[やぶちゃん注:以下の漢詩は総て底本では全体が一字下げ。]
眞珠菴見二盆梅一
幾程盆梅始吐ㇾ芳。淸標不ㇾ競百花場。先敎三好鳥爭二春信一。未ㇾ使三遊蜂竊二晴香一點二去蛾眉一醒二醉夢一。吹二來龍笛一惱二吟腸一。慇懃調護避二風雪一。唯恐東君妬二親粧一。
又
培艱壺中別有ㇾ天。春魁獨占二衆芳先一。蘂含二殘雪一影愈潔。枝奪二落霞一色更妍。月桂讓ㇾ香多呈ㇾ媚。海棠分ㇾ艷未ㇾ論ㇾ眠。逋仙元有二花梅花癖一。吟賞相親淨几邊。
又
幾歲栽培能養成。順ㇾ天致ㇾ性自敷ㇾ榮。影隨二姑射一氷肌疲。香入二羅浮一春夢驚。綠萼濃呈千朶色。瓊容淡點十分淸。名花元是江南種。移二得盆中一子細評。
【殘雪、薄霞、月桂、海棠、皆梅名也。順ㇾ天致ㇾ性柳文語】
又よまれし哥ども世に傳へし中に、
色に出て花野の秋にたくふらし
蟲も千ぐさの聲のさかりは
いかにも新らしき趣向、これらをや秀逸とは申べき。この人宮中饗應の日、緋の直垂に打刀をぞさゝれける。これは足利家より讓られし故とぞ。京紳にて此裝束せらるゝは、陽明家の外に無しと云。惜哉、去年世を早うせられき。
■やぶちゃんの呟き
「當御臺所」第十一代軍徳川家斉の正室近衛寔子(このえただこ 安永二(一七七三)年~天保一五(一八四四)年)。後の広大院。実父は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)、実母は側室市田氏(お登勢の方(慈光院))。ウィキの「広大院」によれば、『最初の名は篤姫』(知られた後の第十三代将軍家定の正室天璋院が「篤姫」を名乗ったのはこの広大院にあやかったもの)、『於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と』三歳で婚約、『薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された』。第十代将軍『徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである』。『このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため』、『幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。茂姫と家斉の婚儀は婚約から』十三年後の寛政元(一七八九)年に行われた。茂姫は天明元(一七八一)年十月頃に、『豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また将軍家の正室は公家や宮家の娘を迎える事が慣例であるため、茂姫は家斉が将軍に就任する直前』『に島津家と縁続きであった近衛家及び近衛経熙』(つねひろ 宝暦一一(一七六一)年~寛政一一(一七九九)年:従一位・右大臣)『の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえただこ)」として結婚することとなったのである。また、父・重豪の正室・保姫は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった』とある(下線やぶちゃん)。当時、満四十二歳。
「陽明家」近衛家の別称。宮中の門の一つである陽明門に因むもの。「近衛」も京都近衛の北、室町の東に邸宅を構えたことに由来する。
「日光山二百年御神忌勅會」文化一二(一八一五)年四月に挙行された東照宮二百回神忌。
「近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】」近衛基前(もとさき 天明三(一七八三)年~文政三(一八二〇)年)は父は近衛経熙の子。母は有栖川宮職仁親王の娘董子。この会見の折りは右大臣か左大臣。寔子より十歳年上。
●以下、漢詩を我流で書き下しておく。但し、全部、意味が判っていて訓読している訳ではない。これといって深く惹かれ、意味を探りたい部分もない。されば細かな語注は附さぬ。悪しからず。判らないとどうにもならぬ箇所のみ先に附言しておくと、「逋仙」は宋代の隠逸詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)のこと。詩は作る傍から捨てたとされ、現存するものは少ないが、奇句多く、「山園小梅」の「疎影橫斜水淸淺 暗香浮動月黃昏」(疎影 橫斜(わうしや) 水 淸淺(せいさん) / 暗香(あんかう) 浮動 月 黃昏(わうこん))の二句は梅を詠んだ名吟とされる(「山園小梅」全詩はウィキの「林逋」を参照されたい)。「姑射」は不老不死の仙人が住むされる山。藐姑射(はこや)山。「羅浮」とは広東省増城県北東に実在する山(標高一二九六メートル)であるが、大洞窟があって、古来そこには仙人が住むとされた仙境である。「瓊容」は珠玉のような美形。美しい梅花或いはそこにおかれた露の比喩か。
*
眞珠菴、盆梅を見る
幾程(いかほど)の梅 始めて芳(かんばし)きを吐く
淸標(せいひやう) 競はず 百花の場(ば)
先づ 好鳥をして春の信(まこと)を爭はしむ
未だ 遊蜂をして晴香を竊(ぬす)ましめず
蛾眉を點じ去つて 醉夢を醒まし
龍笛を吹き來たらせて 吟腸を惱ます
慇懃(いんぎん)たる調護(てうご) 風雪を避らしめ
唯だ 恐る 東君 親粧(しんせう)を妬(ねた)むを
又
培艱(ばいかん)の壺中 別に天有り
春魁(しゆんくわい) 獨り衆芳先を占(し)む
蘂(しべ) 殘雪を含んで 影 愈(いよい)よ潔く
枝 霞に奪はれ落ちて 色 更に妍(うつく)し
月桂 香を讓り 多く 媚を呈し
海棠 艷を分ちて 未だ眠(ねぶ)りを論ぜず
逋仙(ほせん) 元(もと) 梅花の癖 有り
吟賞して相ひ親しむ 淨几(じやうき)の邊(ほとり)
又
幾歲 栽培 能く養成す(やうじやう)す
天に順ひ 性(しやう)を致し 自(おの)づから榮を敷く
影 姑射(こしや)に隨ひて 氷肌 疲れ
香 羅浮(らふ)に入りて 春夢 驚く
綠萼(りよくがく) 濃呈(のうてい) 千朶(せんだ)の色(いろ)
瓊容(けいよう) 淡點(てんてん) 十分の淸(せい)
名花 元 是れ 江南の種(しゆ)
盆中に移し得て 子細 評せり
*
「順ㇾ天致ㇾ性柳文語」『「天に順ひて性(しやう)を致し」とは柳の文の語(ご)。』「柳」は中唐の詩人柳宗元のこと。彼の「種樹郭橐駝傳(しゅじゅかくだでん)」という文の一節である。正確にはその「能順木之天、以致其性焉爾」(能(よ)く木の天に順(したが)ひ、以つて其の性を致すのみ)という表現を短縮したもので、木を育てるということは「木本来の持っている天然自然に従って、その内に持って生まれて「在る」ところの生きんとする性質(働き)を導いてやるだけのことに過ぎぬ」という謂いであろう。
「たくふ」「比ふ」「類ふ」で「似せる・匹敵させる」の謂いであろう。
「直垂」「ひたたれ」。
「打刀」「うちがたな」と訓ずる。室町時代以降は「刀(かたな)」と言った場合、日本刀ではこの「打刀」を指すと考えてよい。主に馬上合戦用である「太刀」とは異なり、徒戦(かちいくさ)用に作られた刀で、反りは「京反り」と称して刀身中央で最も反った形を呈する。これは腰に直接帯びた際に抜き易い反り方で、対人戦闘の際の実用性を考えてあるものである。長さも概ね成人男性の腕の長さに合わせたものが多く、これも即戦時の抜き易さが考慮されている。
「惜哉」「をしきかな」。
「去年」「こぞ」。この一語によって「甲子夜話卷之四」のこの部分は「甲子夜話」起筆から一ヶ月半以内に記されたものであることが判る。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月十七日の甲子夜を起筆とするが、近衛基前はその「前年」の文政三(一八二〇)年に逝去しているからである。されば、ここまでの記載は実に、その閉区間内(大晦日までは旧暦で四十三日間)に書かれたものであることが判り、静山の非常に意欲的な本書の記述スピードがここで知れるのである。
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