ある時(十六篇) 山村暮鳥
ある時
大木の幹をなでつつ
ふと手をとめ
しみじみと
みみをすました
何の氣もなく、何の氣もなく
ちようど脈でもみるやうに
なんといふ自分であらう
[やぶちゃん注:「ちようど」はママ。]
おなじく
雨は一粒一粒
よふけてきけ
遠い
遠い
むかしのことを
ものがたるよ
おなじく
しみじみと
氷の中でめざめるのは
小さな眞珠の月であらう
よあけである
どこかの山の沼である
おなじく
自分はみた──
遠い
むかしの
神々の世界を
小さなをんなの子が
しきりに
花に
お辭儀をしてゐた
おなじく
なんでもしつてゐるくせに
なんにもしらないふりをしてゐる
梅の古木か
ちらほら
雪のやうな花をつけ
雪のやうなその花を匂はせつ
すつきりとしてゐる
おなじく
たふとさはこの重みにあれ!
林檎を掌(てのひら)に
のせてながめてゐる
おなじく
おう、これは
これは自分の心などより
こんなにも
こんなにも
大きな林檎だ
おなじく
林檎のような
さびしがりはあるまい──
一つあつても
いくつも
いくつも
積み重ねられてあつても
[やぶちゃん注:「ような」はママ。]
おなじく
こどもは林檎が好きだから
りんごもこどもがすきなんだ
必定(きつと)、さうだ
おなじく
林檎よ
こどもに食べられろ
こどもにばつかり
頰ばられろ
おなじく
りんごはいい
ましてや
子どもと妻と
町からかつてきてくれた林檎だ
どうして頰摺りしずにゐられよう
どうして齒なんかがあてられよう
おなじく
どれもこれも
一ようにまつ赤であつた
林檎は……
けれどそのなかでの
とりわけ赤い一つは
ああ、よくみると
はやくも蟲蝕まれてゐるではないか
[やぶちゃん注:「一よう」はママ。]
おなじく
りんごはいい
たべなくつていい
たべられなくつていい
だが
たべられるところで
なほさらいいのだ
たべられるのにたべないで
ながめてゐるから
さらにさらにいいのだ
おなじく
まつ赤な林檎をみてゐると
きまつて自分は
昵(じつ)としてゐられなくなる
林檎が殘忍をよびおこすんだ
それこそ
美しいものの惡戲(いたづら)である
[やぶちゃん注:「昵(じつ)として」のルビ「じつ」はママ。これを漢字音(漢音)として用いる場合なら「ぢつ」が歴史的仮名遣では正しい。しかし「じつとして」という和語ではそれは歴史的仮名遣の誤りではない。彌生書房版全詩集版は「ぢつ」と〈訂〉しているが、私は従えないのである。]
おなじく
くつてしまへ
くつてしまへ
赤い林檎はおそろしい
それは
あんまり美し過ぎる
おなじく
美しいものは
みんな食べてしまふがいい
たべられるような
畫をみせろ
また詩をかけ
赤い林檎のような詩を──
汝、暮鳥よ
詩は食べられぬといふてはならない
[やぶちゃん注:三行目「たべられるような」の「ような」はママ。六行目「赤い林檎のような詩を──」は、実は原典では「赤い林檎のようふな詩を──」となっている。前の「ような」の用字法から歴史的仮名遣は訂さないとしても「ふ」は読解不能である。されば、この「ふ」は特異的に衍字と断じて除去した。彌生書房版全詩集版は「赤い林檎のやうな詩を──」と美事に優等生の〈消毒〉がなされてある。]

