南方熊楠 履歴書(その19) 熊野での採集成果
そのころは、熊野の天地は日本の本州にありながら和歌山などとは別天地で、蒙昧(もうまい)といえば蒙昧、しかしその蒙昧なるがその地の科学上きわめて尊かりし所以(ゆえん)で、小生はそれより今に熊野に止まり、おびただしく生物学上の発見をなし申し候。例せば、只今小生唯一の専門のごとく内外人が惟う粘菌ごときは、東大で草野博士が二十八種ばかり集めたに過ぎざるを、小生は百十五種ばかりに日本粘菌総数をふやし申し候。その多くは熊野の産なり。さて、知己の諸素人学者の発見もあり、ことに数年来小畔氏奮発して一意採集されてより、只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候。しかし、小生のもっとも力を致したのは菌類で、これはもしおついであらば当地へ見に下(くだ)られたく、主として熊野で採りし標品が、幾万と計えたことはないが、極彩色の画を添えたものが三千五百種ばかり、これに画を添えざるものを合せばたしかに一万はあり。田中長三郎氏が『大毎』紙に書いたごとく、世界有数の大集彙なり。また淡水に産する藻は海産の藻とちがい、もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし。その淡水藻をプレパラートにおよそ四千枚は作り候。実に大きな骨折りなりしが、資金足らずしてことごとく図譜を作らぬうちに、プレパラートがみな腐りおわり候も、そのまま物語りの種にまで保存しあり。実に冗談でないが沙翁(シェイクスピア)の戯曲の名同然 Lover’s Labour’s Lost ! なり。
[やぶちゃん注:「惟う」「おもう」。思う。
「粘菌」真核生物アメーバ動物門(Amoebozoa:アメーボゾア)コノーサ綱 Conosea変形菌亜綱 Myxogastria に属し、ツノホコリ亜綱 Ceratiomycetidae・真正粘菌亜綱 Myxogastromycetidae・ムラサキホコリ亜綱 Stemonitomycetidae に分かれ、さらに Parastelida 目・ハリホコリ目 Echinosteliida・コホコリ目 Liceida・ケホコリ目 Trichiida・ムラサキホコリ目 Stemonitida・モジホコリ目 Physarida に分類される生物群で、「変形体」と呼ばれる栄養体形態では、移動しながら微生物などを摂食する〈動物的〉性質を持ちながら、一方で、小型の「子実体」を形成して胞子によって繁殖するという〈植物的〉或いは〈菌類的〉性質を併せ持った特殊なライフ・サイクルを持つ生物群を指す。詳しくは私が参照したウィキの「変形菌」などを読まれたい。
「草野博士」草野俊助(明治七(一八七四)年~昭和三七(一九六二)年)は植物学者で日本に於ける菌・粘菌学研究の先駆者の一人。福島県出身。大正一四(一九二五)年に母校である東京帝国大学の教授となり、東京文理科大学教授も勤めた。「壺状菌類の生活史に関する研究で」で昭和八(一九三三)年に帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞、日本学士院会員で日本菌学会初代会長。
「小畔氏」南方熊楠の粘菌研究の高弟小畔四郎。既出既注。まさにこの勝浦行の折りに那智の瀧で初めて出逢って意気投合したのが始まり。
「一意」「いちい」。一つのことに精神を集中すること。
「只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候」ウィキの「変形菌」によれば、変形菌は現在、世界で約四百種が知られている(現在では一般にはその総てを「変形菌門コノーサ綱変形菌亜綱」に属させており、南方熊楠の研究当時とは分類学的にはかなり異なり、分子生物学の台頭により向後も変化し、種数も恐らくは爆発的に増えるのではないかと私には思われる。実は私も二十代の頃、南方熊楠を知った当時、採取・研究を志そうと思ったことがある)。
「菌類」(きんるい)は広義には菌界 Fungiの当時の伝統的な四大分類で言う、ツボカビ門 Chytridiomycota・接合菌門 Zygomycota・子嚢菌門 Ascomycota・担子菌門 Basidiomycota に属する所謂、茸(キノコ)・黴(カビ)・酵母などと呼称される生物群の総称であるが、熊楠の時代には実は粘菌(変形菌類)も菌類として扱われていた。但し、混同して貰っては困るのはこの場面に於いて南方熊楠が言っている「菌類」はもっと限定的で、主に担子菌門や子嚢菌門に属するところのキノコ類を指している点である。なお、現在(二〇〇八年発表)の既知の菌類の種数は約九万七千種とされるが、総種数については、一九九一年にイギリスのホークスワース(Hawksworth)が総現存種数を百五十万程度と推定しており、研究者によってその推定数値は五十万から九百九十万種と非常な幅がある(国立科学博物館 植物研究部の細矢剛氏の「日本には菌類が何種くらいいるか」(PDF)を参照されたい。ホークスワースの推定計算式も出ている)。本邦に植生するキノコの種数も約二千五百種が記載されているが、実際には四千から五千種が植生するとされる。さすれば、南方熊楠の標本数「三千五百種」「一万」というのは、同種のステージの違いなどのダブりを勘案したとしても、今現在でも驚異的と言え、「世界有数の大集彙なり」は自画自賛の誇大広告でもなんでもなく、まっこと凄い資料数なのである。
「田中長三郎」既出既注。
「淡水に産する藻」淡水性藻類は多様な種に及び、淡水の河川・湖沼・湿地・水たまりに生育する藻類の他、樹幹・岩石・土壌・苔などの多少とも湿気のある所に植生する気生藻、氷や雪の上に生える氷雪藻、温泉に生える温泉藻、更には動物・植物・菌類・地衣類に共生している共生藻なども含まれる。藻類の内、褐藻類(不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae)や紅藻類(紅色植物門 Rhodophyta)は主に海産で淡水にはごく限られた種類が見られるだけであるが、緑藻類(緑藻植物門Chlorophyta 緑藻綱 Chlorophyceae)・珪藻類(オクロ植物門 Ochrophyta カキスタ亜門 Khakista 珪藻綱 Diatomea)などは海水・淡水の両方に産し、ミドリムシ類(ユーグレナ藻綱 Euglenophyceae ユーグレナ(ミドリムシ)目 Euglenales ユーグレナ(ミドリムシ)科 Euglenaceae ミドリムシ属 Euglena)はほぼ淡水産、ストレプト植物門 Streptophyta 車軸藻綱 Charophyceae シャジクモ目 Charales シャジクモ科 Characeae に属する車軸藻類は全淡水産である。現在、地球上には約三万種の藻類が知られているが、淡水藻類と海産藻類の割合はほぼ二分の一ずつである(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。この記載に従えば、淡水藻類は凡そ世界で一万五千種で、熊楠がその「プレパラート」を「四千枚」作製したとあるのは単純に全種異種であるとするなら、現生淡水藻の四割弱の標本数となり、やはり驚異の数値となる。但し、藻類もやはりライフ・サイクル内での変形・変態が甚だしいから、これが総て異種である可能性は極めて低いと思われはする。
「もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし」金にならぬ生物の研究は、基本、南方熊楠が生きた時代から少しも進歩していない。明治の子どもが抱いた生物の不思議への素朴な疑問の多くは、未だに専門的に解き明かされてはいないのである。例えば、そうだな、私の「アオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ」をお読みあれ。これを面白いと思われる奇特な御仁には私の「盗核という夢魔」もお薦めする。
「Lover’s Labour’s Lost !」ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)作の喜劇「恋の骨折り損」。一五九五年~一五九六年頃の作とされる。]
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