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2017/04/02

雄渾なる山巓   山村暮鳥

 

  雄渾なる山巓

 

山、それは力だ

此の秀麗なうつくしい山

山はうつくし

けれど寂しい

山は靜穩だ

山は孤獨だ

山はさびしい

さびしいが

ぢつとみつめてゐると

若々しく

單純で

そして眞實で美しい

靜かな山

雲表にそびえた山

冷酷で

眞實で

雄大で

平凡である山

大地にふかぶかと

ぐつと足をふんばつたやうに

そして蒼空に

その額をすりつけてゐる山

きよらかなめで山へ對へ

山は神聖である

また山は力強く

どつしりした力強さで

その大きな手で

やさしくだきしめてくれる

山は語らないが

その深いところには

火のやうなおそろしい情熱がある

ああ山

平凡で

幽邃で

崇高な山

みよ、顳顬のあたりの赤禿げ

そこに夕日がかつとあたつて

あかあかと莊嚴に反射してゐることもあるが

とほくとほく

だがそれは暮近くのことだ

黎明の山は、まるで

みがきあげたやうな淸淨さで

棚曳いてゐる朝霞の上に

くつきりとうつくしく立つてゐるのだ

ほんとに秀麗な山だ

それでゐて

馬鹿々々しいほどの巨大さである此の山

手をのばせば

その指尖が

天にとどくやうなてつぺんに

いま自分は立つてゐる

ここでは

草一本生えてゐないのが

なんともいへず寂しい

さびしいのか

あまり崇高すぎるのである

自分のこの小さき

みるかげもなく……

みすぼらしく……

 

ここからみると

どこもかしこも一面の靄で

靄のほかはなんにもみえない

星が天一ぱい

こぼれるばかりにきらきらしてゐる

それだけだ

やがて遠く

その靄の中からぼんやりした大きな金貨のやうな太陽があたまをだすと

あたりがだんだんはつきりして

空は空

山は山

あんなにでてゐた星も

いつのまにか

一つのこらずなくなつてゐる

 

靄がうすらぎきえてなくなると

山山が鮮かにみえる

山山はちやうど浪のやうだ

その山と山とのあひだに

白くひかつて

ながながと

帶のやうな河がみえる

一めんの平地である

靑々とした丘がみえる

ずつと遠くには海がみえる

小さくかすかにそれがみえる

けれど村々はみえない

都會もみえない

とにかくそのどこにかたくさんのにんげんもすんでゐるのだが

それがひとりもみえない

 

そればかりか

ここには鳥も啼いてゐない

草一本はえてゐないから

花もない

獸もゐない

ここはそんなに高い山のてつぺんだ

麓をみればただふかぶかと樹木がはえしげり

そのうへにたかくたかく

によつきり立つてゐるのが此の山だ

 

太陽ののぼるにつれて

それとなくいつしかおちついてきた自分

もうなんでもない

雲があしもとをかすめてゆく

雲は息のやうだ

風を起してゆく

その雲も

小さいのはいいが

大きなのになるとすこし怖い

ぽろりと自分獨りがさみしくなる

なんともいへずさみしくなる

けれど

それが過ぎさると

また、なんでもない

 

さすがに高山はすがすがしい

そのてつぺんにたつてゐると

自分は

きよらかに洗ひ晒されたやうだ

そして自ら神々しくさえなる

ああ此の自分が

麓にあつてはまるで獸のやうであつた自分が

(なんといふ恥しいことだらう)

それがどうだ

いまは

此のなごやかさは

此の靜穩(しづか)な

此の深い

此のひろびろした海のやうな心で

此の手を

すべての上に伸ばしてゐる

これが自分であらうか

神である

 

自分はいましも神である

自分はそして山のてつぺんに立つてゐるのだ

ふもとのことをおもへば

そこには

森があり

野があり

畑や田圃があり

沼があり

海があり

そして鳥や獸やむしけら

もろもろの魚類

草木

穀物

また村々があり

都會があり

そこでたくさんのひとびとは

よろこんだり

かなしんだり

生れたり

死んだり

それにひきかへて

ここではすべてが永遠である

ここには生も死もない

よろこびもない

かなしみもない

なんにもない

ただ永遠があるばかりだ

 

雨がさつとかかる

ここの雨は下からふる

上へふる

風もふきあげる

山裾はとほく驟雨のやうだ

雷も

谿底の方でごろごろしてゐる

だがここはからりと晴れわたつてゐる。そして

太陽はすぐ頭の上だ

 

おお山は

山は千古の眞理である

山は宇宙の意志である

山は自然の愛情である

山は音樂である

この幽邃

この壯大

この嚴肅

この沈默

この憂欝

この豐饒

この淳朴

この眞實

この一徹

この寛容

この愛

この情熱

この冷酷

この孤獨

この靜穩

この無爲

この閑寂

この深遠

この晴朗

この美以上の美

この力以上の力

この神祕なあらはれ

この幻想的な雄大

この單純なる

この平凡なる

この秀麗なる

この崇高なる

この淸淨無垢なる

 

そのともは

星であり

月であり

太陽であり

風であり

雲であり

また雨であり

雪である

 

山はとこしへにめざめず

ぐつすりとねむつてゐるともみえ

または、じいつと高いそこから

下界をながめてゐるともおもへる

なんにせよ

山はこの世界を飾る

山は

この世界に巨人をうみだす

山と山とのたにまから

湧いてながれてつきない泉よ

ちよろちよろとながれでるその水のきよらかさ

そのみづを手に掬むものに生長(いのちなが)かれ

 

ああ山、山、山

山はいい

 

ふもとでは

蛆蟲のやうにうようよとむらがつて、いまもいまとてひとびとが

まるで沸えかへつた熱湯の中のやうなくるしみに

あえぎあえいで生きてゐるんだ

ああ山、山

ここにかうしてゐると自分は神だ

だが自分はふもとをおもふ

此の山をくだらなければならない

山の靈氣をみにおびて

此の山をくだるのだ

自分も

ひとびとと一しよであるために

ひとびとと一しよになるために

そのくるしみの

その渦卷をめがけて

そのひとびとの中に飛びこまなければならない

 

おお山よ、すばらしい山よ

いまこそ

お前は自分の中にある。

 

[やぶちゃん注:「そして自ら神々しくさえなる」の「さえ」はママ。

「きよらかなめで山へ對へ」の「對へ」は「むかへ」で、向かえ・向きなさい、の謂い。

 なお、

   *

火のやうなおそろしい情熱がある

ああ山

幻想的な雄大

平凡で

幽邃で

崇高な山

   *

の箇所であるが、彌生書房版全詩集版では、ここが、

   *

火のやうなおそろしい情熱がある

ああ山

幻想的な雄大

平凡で

幽邃で

崇高な山

   *

と「幻想的で雄大」という一行が挿入されているという、大きな違いがある。

 

「顳顬」「こめかみ」。「蟀谷」と同じい。目尻と耳の上の間にある、物を嚙むと動く部分(発音通り、「米を嚙むと動く所」の意である)。

「此のなごやかさは」は彌生書房版全詩集版では「此のあざやかさは」である。これは、彌生書房版全詩集版の方が正しいように思われる。

「掬むもの」「くむもの」(汲む者)。

「あえぎあえいで生きてゐるんだ」はママであるが、彌生書房版全詩集版では「あえぎあへいで生きてゐるんだ」となっているのも、また、おかしい。正しゅうするならば、「あへぎあへいで生きてゐるんだ」でなくてはならぬ。不審である。

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