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« 山村暮鳥詩集「月夜の牡丹」始動 / 序詩 / 李の花 | トップページ | 蟻   山村暮鳥 »

2017/04/04

或る時(十五篇)   山村暮鳥

 

   或る時

 

ふなばらを

まつ靑にぬりたてられて

うれしさうな漁船だ

──鮪をとりにでかけるところか

 

ああ、春だの

 

 

 

   おなじく

 

若布賣(わかめうり)の

脊中に

めづらしい蠅が一疋

      ついてゐた

越後の蠅だよ

きつと、さうだよ

          (上州にて)

 

 

 

   おなじく

 

かへるでも

とびこんだのか

ぽちやんと

水の音がした

 

 

 

   おなじく

 

まつくらな

ほんとにまつくらな

晩だな

あ、蛙だ

地の底でくくくく‥‥

 

[やぶちゃん注:彌生書房版全詩集版では末尾のリーダは六点。]

 

 

 

   おなじく

 

まつ黑い

春の土から

かげらふのやうに

わいたんだらう

とつても大きな靜けさである

それだから

だれをみてもにこにこと

 

そしてまた寂しいのである

 

[やぶちゃん注:最終行の独立(即ち、全二連一篇構成)はママ。原典では九頁改行でこの最終行のみが十頁目に印刷されているが、前行の後には版組上、明らかに印刷可能な一行があるのに印字されずのあるので、行空けが確信犯で行われていることが判る彌生書房版全詩集版も同じく行空きとなっている。]

 


 

   おなじく

 

穀物の種子(たね)はいふ

 「どこにでもいい

 どこにでもいい

 まいてください

 はやく

 はやく

 蒔いてください

 地べたの中にうめてください」

 

 

 

   おなじく

 

どんよりと

花ぐもりである

櫻がきれいにさいてゐる

こんな日に

死ぬことなどを

だれがおもはう

 

 

 

   おなじく

 

花もまた

おもふぞんぶん

おたがひの

深い匂ひをくみかはすか

霞のやうな

ほこりである

 

[やぶちゃん注:太字「ほこり」は原典では傍点「ヽ」。]

 

 

 

   おなじく

 

どうせ死ぬなら

こんな日だと

うたつたばかがあるさうだ

櫻が

うたはせたんだらう

 

[やぶちゃん注:太字「ばか」は原典では傍点「ヽ」。]

 

 

 

   おなじく

 

さくらよ

さくらよ

生きてるうちに

もう、いくど

お前の咲くのをみるだらう

自分は──

 

 

 

  おなじく

 

滿開のさくらを一枝

だいじさうにかかえてにこにこと

寂しい田舍道をあるいてゐた

どこへゆくのであつたか

あの老人

自分ははつきりと

いまもいまとておぼえてゐる

いつまでも

いつまでも

わすれたくないもんだ

あの顏

 

自分はあのとき──

いまどきの世にも

まだ、こんな幸福さうな顏が

のこつてゐたかとおもつた

 

[やぶちゃん注:二行目「だいじさうにかかえてにこにこと」の「かかえて」はママであるが、実はこの行、原詩集では「だいじさいにかかえてにこにこと」となっている。これでは読めない。彌生書房版全詩集版は「だいじさうにかかへてにこにこと」(歴史的仮名遣の不徹底な勝手な補正は同彌生書房版全詩集版の常套仕儀)である。流石に私もここは誤植と断じ、彌生書房版全詩集版の通り、「だいじさうに」と「う」に本文を変えた。万一、方言であるなどという事実がある場合、お知らせ願えると嬉しい。]

 

 

 

   おなじく

 

花咲爺さん

  どこにゐる

きれいにみごとに花をさかせて

こつそりとかくれてしまつた

 

あんまり花が

きれいにみごとにさいたので

はづかしくなり

うれしくなり

氣味惡くなり

寂しくなり

それで

  かくれてしまつたのか

 

あんまり

花といふ花が

きれいにみごとにさいたので

わたしらまでが

はづかしくなり

うれしくなり

氣味惡くなり

いひようもなく寂しくなる

 

花咲爺さん

  どこにゐる

ひよつこりとでてきて

につこりと

わらつてみせてはくれませんか

 

あんたは

どこにもゐないのだ

みたものもないのだ

だが、花は

かうしてみごとにさいてゐるのよ

 

花咲爺さん

あんたが花とさいたんだ

あんたが花にばけたんだ

それだから

うつとりとさ

見惚れてでもゐるほかないんだ

 

[やぶちゃん注:「いひようもなく」はママ。実は第二連二行目は「きれいにみこどにさいたので」となっている。他が「みごと」であるからこれは流石に誤植と断じ、特異的に訂した。無論、彌生書房版全詩集版でも「きれいにみごとにさいたので」となっている。]

 

 

 

   おなじく

 

もんぐら、もんぐら

いい季節になつたもんだな

鼴鼠(もぐらもち)よ

ゆふべの月が

おや、まだでてゐる

おまへらもそこで

一生懸命働いてゐるんか

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「もんぐら」「鼴鼠(もぐらもち)」は脊椎動物亜門哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae のモグラ類の地方名や旧称である(旧称では他に「うごろもち」「うぐるもち」「もぐるもち」等がある。本邦には四属七種が棲息する)。因みに、脱線しておくと、私はモグラを「土竜」と書くのは誤りであり、これは偶然であるが、彼らの主摂餌生物である蚯蚓(みみず:環形動物門貧毛綱 Oligochaeta)と誤認(或いは誤伝)されたものと思う。彼らの巣は地中を這った竜の跡ようには見えはするが、実際に掘ってみると直に崩れてしまい、我々現代人がまことしやかな図鑑で見るような、地中縦横の堅固なトンネルのように古人が認識することは実は難しいのではないかと私は思う。何より、実際、「土竜」は中国の古い本草学でも圧倒的にミミズを指示する熟語である。かなり後代になってからはモグラをも指すようにもなりはしたようではあるが(大修館「廣漢和辭典」では、最後にその意を掲げるものの(国字としてはいない)、例文がない)、例えば現代中国語でモグラは生物学上の分類でも「鼹科」「鼴鼠科」と表記する。]

 

 

 

   おなじく

 

どこかに

みそさざいのような

口笛をふくものが

かくれてゐる

なあんだ

あんな遠くの桑畑に

なんだか、ちらり

見えたりかくれたりしてゐるんだ

 

[やぶちゃん注:この「おなじく」は彌生書房版全詩集版ではカットされている。詩集「雲」の「野良道」の一篇とごく相似形であるからであろうが、完全相同ではないので、私は採用する。以下が詩集「雲」版のそれである。

   *

 

 おなじく

 

そこらに

みそさざいのような

口笛をふくものが

かくれてゐるよ

なあんだ

あんな遠くの桑畑に

なんだか、ちらり

見えたりかくれたりしてゐるんだ

 

   *

或いは、彌生書房版全詩集版の編者これに相当する原稿を見出せず、詩集「雲」版の以上の詩句を弄ったものを編者花岡が捩じ込んだとでも判断したのかも知れぬ。にしても、山村暮鳥の晩期のこうした短章が、ますます相互に相似的になっているのは詩人自身の確信犯であり、それらを別な詩的連続体の一シークエンスにコンセプト違いで使用しようとすることは普通に考え得るし、それは評価されこそすれ、自己剽窃・安易な再使用などとして批判される筋合いのものでさえない。「おなじく」というこうした映画のモンタージュ手法を考える時、この詩篇を、既出詩篇の草稿みたようだ、作者の意志に反した編者の捩じ込みだ、などと容易に断じて外してしまうよりは、取り敢えず残しておいて、読者の判断に任すことのこそが、全詩集の成すべき責務であると私は思うものである。]

 


 

   おなじく

 

こそこそと

つれだつて

猫めが

小麥畑にはいつていつた

 

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