南方熊楠 履歴書(その18) 勝浦へ向かう
かくて小生舎弟方に寄食して二週間ならぬうちに、香の物と梅干しで飯を食わす。これは十五年も欧州第一のロンドンで肉食をつづけたものには堪えがたき難事なりしも、黙しておるとおいおいいろいろと薄遇し、海外に十五年もおったのだから何とか自活せよという。こっちは海外で死ぬつもりで勉学しおったものが、送金にわかに絶えたから、いろいろ難儀してケンプリジ大学の講座を頼みにするうち、南阿戦争でそのことも中止され、帰朝を余儀なくされたもので、弟方の工面がよくば何とぞ今一度渡英して奉職したしと思うばかりなるに、右ごとき薄遇で、小使い銭にも事をかかす始末、何をするともなく黙しおるうち、翌年の夏日、小生海水浴にゆきて帰る途中小児ら指さし笑うを見れば、浴衣の前破れてきん玉が見えるを笑うなり。兄をしてかかるざまをせしむることよというに、それが気に入らずばこの家を出よと迫る。その日はたまたま亡父母をまつる孟蘭盆(うらぼん)の日なるに、かくのごとき仕向け、止むを得ず小生はもと父に仕えし番頭の家にゆき寄食す。しかるに、かくては世間の思わく悪しきゆえ、また甘言をもって迎えに来たり、小生帰りておると、秋に向かうに随い薄遇ますますはなはだし。ここにおいて、一夕大乱暴を行ないやりしに辟易して、弟も妻も子供も散り失せぬ。数日して、もと亡父在世の日第一の番頭なりしが、大阪で十万円ばかり拵(こしら)へたる者を伴い来たる。この者は亡父の恩を受けしこと大なるに、亡父の死後、親には恩を受けたり子らには恩を受けずなどいい、大阪に止まって、兄が破産せしときも何の世話も焼かざりしものなり。よって烈しくその不忠不義を責めしに、語塞(ふさ)がる。よって、この者のいうままに小生父の遺産を計(かぞ)えしめしに、なお八百円のこりあり、ほしくば渡すべしという。かかる不義の輩に一任して、そのなすままに計えしめてすら八百円のこりありといいしなれば、実は舎弟が使いこみし小生の遺産はおびただしかりしことと思う。しかるに、小生はそんな金をもろうても何の用途もなければとて依然舎弟に任せ、その家で読書せんとするも、末弟なるもの二十六歳になるに父の遺産を渡されず常々怏々(おうおう)たるを見て、これもまた小生同席中弟常楠にかすめられんことを慮り、常楠にすすめて末弟に父の遺産分け与えしめ妻を迎えしめたり。しかるに、小生家に在ってはおそろしくて妻をくれる人なし。当分熊野の支店へゆくべしとのことで、小生は熊野の生物を調ぶることが面白くて、明治三十五年十二月に熊野勝浦港にゆき候。
[やぶちゃん注:「翌年の夏日」帰国の翌年であるから、明治三四(一九〇一)年の満三十四歳の夏である。本段落の最後に「明治三十五年」とあるが、これは南方熊楠の記憶違いで「明治三十四年である。
「語塞(ふさ)がる」意味がとりにくいが、唾を飛ばして不忠を指弾した後に逆接の接続助詞「に」で、しかもこの後で、「この者のいうままに小生父の遺産を計(かぞ)えしめしに」と続くとなれば、そこでこの男に、悠々と「まあ、まあ、ちょっとそこいらでお話をさせて下さい。」と口を挟まれ、亡父の遺産について「残高を計算を致して見ましょう」(第一の番頭だから相応しいといえば、相応しい)と話を変えられてしまった、ということであろう。義憤の口調から言えば、「話を突如、遮られた。」というニュアンスか。
「末弟」南方楠次郎(明治九(一八七六)年~大正一〇(一九二一)年)。熊楠の弟常楠より六つ下の末弟。後に西村家に入籍した。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の記載によれば、『兄熊楠を尊敬し、熊楠の在外中に蔵書、筆写本の整理に当っている。熊楠も九歳年下のこの末弟をもっとも可愛がり、在英中には楠次郎を呼び寄せて学問をさせたいと常楠に訴えたり、帰国後は自分の目にかけたお手伝いの女性を楠次郎の嫁にと奨めたりしたこともあった』とある。
「怏々」不平不満のあるさま。
「明治三十五年十二月に熊野勝浦港にゆき候」河出書房新社の「新文芸読本 南方熊楠」の年譜によれば、年だけでなく月も誤っている。それによれば、不仲の常楠と離れて、南紀の陸上植物類・藻類・菌類・粘菌類等の調査を始めるために現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(なちかつうらちょう)に向かったのは明治三四(一九〇一)年の十月末のことである。]
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