詩集「風は草木にささやいた」改版 山村暮鳥「卷首に」
[やぶちゃん注:以下は衰弱が激しくなった大正一三(一九二四)年八月三十日にイデア書院から刊行された詩集「風は草木にささやいた」(初版本は六年前の大正七(一九一八)年十一月十五日白日社刊)の改版の、新たに書き下ろされた山村暮鳥の「卷首に――」と題した序である。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの同原本の画像を視認した。]
卷首に――
此の詩集を街頭におくりだしてから春秋はいくたびか囘つた。はやいものだ。それと一しよに世にでた千草がもう來春は小學校にあがるのでゐる。その子どものうまれたのと前後して病床にぶつたほされた自分は、だが、まだかうして罅の深くはいつたままの體である。
[やぶちゃん注:山村暮鳥の次女千草は初版刊行の二ヶ月前の大正七(一九一八)年九月生まれで、その出生直後の九月二十八日朝、暮鳥は自宅で大喀血を起こし、病床に臥した。]
そうしたときのものだけに此の詩集は、自分にとつて、他のどの詩集よりもことさらになつかしまれる。
それからの自分達の日々がどんなものであつたか。とても、ありのままには書き綴ることができない。此處まで生きのびてきたことは、とにかく奇蹟にもひとしい事實。
まことに此の自然の中でくるしみくるしむものにのみ自然はおのが美と愛とを、人生無上の滋味としてあぢははせるのか。
いま鮮裝改版し、ひさしく絶本になつてゐた此の詩集をふたたびあたらしく梓刊するにあたつて。そのことが泌々と思ひゐはされる。
[やぶちゃん注:「梓刊」「しかん」。「梓」は「版木に文章や図画を彫って出版すること」の謂いで、「刊梓(かんし)」とも称し、出版のこと。「上梓(じょうし)」に同じい。
「泌々と」「しみじみと」。何度も言ってきたが、誤字ではなく、「泌」には「沁みる・滲みる」の意があり、暮鳥の好きな用字なのである。]
だがまた讀みかへしてみると、これらの詩章は、いまの自分とは遠く隔つてゐる。それはまるで旅人が自分のたどりたどつてきたその空の彼方をはるかにふりあほいで望むようなもの――その頃の詩境はといへば、まだいかに眞摯であつたとは言へ、まだ自然乃至人生の讃美、讃美にのみ始終してゐたその自然とともどもに汗を流しなみだをながしてはゐなかつた。
[やぶちゃん注:最終一文はママであるが、「讃美にのみ始終してゐた」。「その自然とともどもに汗を流しなみだをながしてはゐなかつた。」であろう。]
いかにも人生の苦しみの中にはゐた。けれど、その自然と一しよに生きてはゐなかつた。
時分は此の詩集を千にするであらうひとびとに言ふ。それはほかでもない。
――かくも自分の讃歎せずにはゐられなかつたその自然と生活との眞只中に燦然と生きてほしいといふ一事である。
さて、最後にかうして此の詩集がま記もや日の光にふれるようになつたのは、ひとへに小原學兄の懇切なお勸めによる。
このことを自分は著者の心からの感謝として、ここに銘記しておく。
茨城縣イソハマにて
山村暮鳥
[やぶちゃん注:「小原學」不詳。イデア書院の関係者か。白神正晴氏の「山村暮鳥年譜」の中にイデア書院の関係者に『小原國芳』という名を見出せ、また、底本の奥附の後にイデア書院のポリシーが四条に亙って記されている中の、三条目に『松原、小原兩文學士及びその恩師先輩學友の作品を出版いたします。その外はその方々の推薦による權威あるものにあらざれば出版いたしませぬ。』と記してあるからには、この序の「小原」とはこの『小原』『文學士』なる人物である可能性がすこぶる高いと考えてよかろう。識者の御教授を乞うものである。
「茨城縣イソハマ」磯濱。本詩集刊行当時の暮鳥一家は大正九(一九二〇)年一月二十七日から茨城県磯浜町(いそはまちょう)(現在の大洗町(おおあらいまち)明神町(みょうじんちょう))にいた。]

