甲子夜話卷之三 33 松平肥前守【治茂】、文才の事 / 甲子夜話卷之三~了
3-33 松平肥前守【治茂】、文才の事
述齋話る。肥前少將治茂も、近世の國持の内にては見所あり。白川侯當路のとき、世人風靡する中獨り屈せず。間柄なればとて、國元より尺牘を贈て、時事を議す。その氣燄想ふべし。宮中にて營中にて奏者番習禮のとき、一度したるまでにて、再びせずして本席に戾る。因て脇坂淡路守呼返せば、今敷居に手の付たることなるべし。其事は心得て居るなりとて、囘顧もせず引退たり。又昌平の聖廟拜詣のとき、長袴の裾をくゝること出來ず、空しく立て居しかば、見かねて、勤番の史打よりてくゝりたり。これ宮中にては坊主、兩山にては案内僧のくゝれは遂に自身くゝりたること無故なり。しどけ無き所に大家風の體ありき。又寬裕の所あり。家臣ども他行して遲く歸るときは、言を托して溜池邸に行き遲刻せりと云【溜池邸には養母の圓締院住る】〕。それは聞流して咎めず。時として笑ふて云。皆々は溜池と云よき行所あり。我等は行所無しと。又身持に手堅きことどもあり。その中、袴は夜ふけても脱ぐことなし。奧に居ても然り。臥床に入るとき始て袴を脱げり【述齋の妹は肥州の妻なり】〕。かゝる古風なる人も、今は稀なり。此侯、文詩に長じたるは格別のことなり。彼家士古賀彌助【淳風】召出されざる間は、人皆彌助が潤色ならんと評しける。然ども府に召れて後も、文詩少しも降らず。人始て服せり。此侯、始めは、佐嘉の支家鹿嶋二萬石にて勤められ、予が先人政功君と同席にてありしが、後本宗を嗣れたり。故に予も若き頃は懇會して、江城より長崎の地にても、屢行交せり。因て江都に在るときも、予が邸に來られ、祖母夫人と先君のこと申出られて、舊時を語られき。其質厚篤なることなりき。其容體は腰をそらせ、鳩胸にて、足は棹の如く立て步する人なり。因て殿中にても、人其容體はおかしがりたり。又一種の癖あり。手水をせらるゝ時、湯次の水を何遍ともなく替るほど、長く爲られたり。
■やぶちゃんの呟き
「松平肥前守【治茂】」「肥前少將治茂」当初、肥前国鹿島藩第五代藩主、後に肥前国佐賀藩第八代藩主(経緯は後注で示す)であった「佐賀藩中興の祖」と呼ばれる鍋島治茂(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)である。彼は肥前守で左近衛権少将であった。但し、どうも後の人物関係(「養母の圓締院」「述齋の妹は肥州の妻なり」等)が上手く一致しないところがある。識者の御教授を乞うものである。
「述齋」林述斎。
「話る」「かたる」。
「白川侯」松平定信。
「當路」「要路に当たる」の意で、重要な地位についていること。言わずもがな、定信は老中首座で将軍輔佐であった。
「尺牘」「せきとく」。手紙のこと。古来、中国で一尺四方の牘(木の札)を書簡に用いたことに由来し、本邦では狭義には漢文体書簡のみを指した。
「氣燄」「きえん」。「気炎」に同じい。
「脇坂淡路守」播磨龍野藩第八代藩主で龍野藩脇坂家十代で、寺社奉行から老中となった脇坂安董(やすただ 明和四(一七六七)年~天保一二(一八四一)年)であろう。
「今敷居に手の付たることなるべし。其事は心得て居るなり」これは再応の礼として確かに敷居に手をついたのである。それは確かなことだ、と言う謂いであろう。
「囘顧もせず引退たり」底本には「『みかへり』もせず引」(ひき)「『しりぞき』たり」と「昌平」昌平黌。
の聖廟拜詣のとき、長袴の裾をくゝること出來ず、空しく立て居しかば、見かねて、勤番「兩山」徳川家菩提寺の増上寺と寛永寺。
「大家風の體」「たいかふうのてい」。
「他行」「たぎやう」。
「言を托して」ここは「言い訳として」の意で、しかもそれ真っ赤な嘘でわけである。
「養母の圓締院」不詳。
「古賀彌助【淳風】」鍋島治茂に仕えた儒学者古賀精里(こがせいり 寛延三(一七五〇)年~文化一四(一八一七)年)。「淳風」(「あつかぜ」か)は字(あざな)、「彌助」は通称。ウィキの「古賀精里」によれば、『佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱子学を、西依成斎に山崎闇斎の学を学ぶ。大坂に塾を開き尾藤二洲や頼春水らと親しく交わる。帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え』、安永一〇・天明元(一七八一)年に『藩校弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定めてその基礎を確立した』。『闇斎朱子学の教説にもとづいて学問思想の統制をはかり、徂徠学を斥けた』。寛政八(一七九六)年、四十七歳の『時に抜擢されて昌平黌の儒官となり、柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士といわれた。三人はいずれも懐徳堂の中井竹山と親交があり、老中松平定信の寛政の改革に際して、相互に影響を与えたとされる(寛政異学の禁)』。『性格は「厳密寡黙」と頼山陽に評され、精里の詩は学者らしい観念的な詩である』とある。
「召出されざる間は、人皆彌助が潤色ならんと評しける。然ども府に召れて後も、文詩少しも降らず」古賀が昌平黌に召し出されるまでは、彼の文才を藩内の誰彼は実は評価しておらず、古賀の誇大誇張と思っていたが、幕府に招聘されて後も、彼の文才は降(さが)るどころか、いよいよ名声の高まったことを謂うのであろう。
「佐嘉の支家鹿嶋二萬石」佐賀は古くは「佐嘉」の表記が主に使われていた。佐賀鹿島藩は鹿島(現在の佐賀県鹿島市)周辺を領有した佐賀藩の支藩。鍋島治茂は佐賀藩第五代藩主鍋島宗茂の十男で、宝暦九(一七五九)年に第四代鹿島藩主鍋島直郷の養子となり、宝暦一三(一七六三)年に第五代鹿島藩主となったが、明和七(一七七〇)年に主藩の第七代佐賀藩主鍋島重茂が三十八歳で死去、嗣子が無かったため、その跡を継いで、第八代藩主となった経緯がある。
「予が先人政功君」静山の実父松浦政信(享保二〇(一七三五)年~明和八(一七七一)年)のことか。第八代藩主松浦誠信の三男であったが、家督を継ぐことなく、三十七歳で早世した。
「本宗」「ほんそう」。宗主家。自身の出自である佐賀藩主鍋島主家のこと。前注参照。
「嗣れたり」「つがれたり」。
「行交せり」「ゆきかはせり」。
「立て步する」「たててあゆまする」。
「湯次」「ゆつぎ」は「湯桶」(ゆとう)」に同じ。手水(ちょうず:便所)を使った後、手洗いをする際に用いた、ぬるま湯を入れた木製の容器。注ぎ口と柄があり、多くは漆塗りである。それを侍者に注がせて洗うのであるが、それを何杯も継ぎ足しさせるほど、しつこく洗浄したというのである。彼にはやや病的な潔癖症があったものかも知れない。
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