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2017/04/15

南方熊楠 履歴書(その9) ロンドンにて(5)

 

 小生はそのころ、たびたび『ネーチュール』に投書致し、東洋にも(西人一汎の思うところに反して、近古までは欧州に恥じざる科学が、今日より見れば幼稚未熟ながらも)ありたることを西人に知らしむることに勖(つと)めたり。これを読んで欧州人にして文通の知己となれる知名の人多かりし。時にロンドン大学総長たりしフレデリック・ヴィクトル・ジキンス氏あり。この人幼にして横浜に来たり、東禅寺で茶坊主たりしことあり。梟雄(きょうゆう)の資あってきわめて剛強の人なり。後に横浜で弁護士と医師を兼ね、日本の事物とあれば浄瑠璃、古文国学から動植物までも世界に紹介し、日本協会がロンドンに立つに及びその理事となり、加藤高明氏(そのころの公使)の乾盃辞に答えたことなどあり。この人小生が毎々『ネーチュール』に投書して東洋のために気を吐くを奇なりとし、一日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔して、氏が毎々出板する東洋関係の諸事諸文はみな小生が多少校閲潤色したるものなり。なかんずくオクスフォード大学出板の『日本古文』は、『万葉集』を主とし、『枕草紙』、『竹取物語』から発句に至るまでを翻訳したもので、序文に、アストン、サトウ、チャンバレーン、フロレンツと小生に翼助の謝辞を述べあり。このジキンス氏の世話にて、小生は英国第一流の人に知己多少あるに及べり。『ネーチュール』に出せる「拇印考」などは、今に列国で拇印指紋に関する書が出るごとに、オーソリチーとして引かるるものなり。

[やぶちゃん注:「フレデリック・ヴィクトル・ジキンス」日本文学研究者フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederic Victor Dickins 一八三九年~一九一五年)。イギリスの日本文学研究者で翻訳家。ウィキの「フレデリック・ヴィクター・ディキンズによれば、当初、イギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務め』、初の本格的英訳とされる「百人一首」(Hyakunin Isshu 一八六六年)を始めとして「竹取物語」(The Bamboo-Hewer's Story or The Tale of Taketori 一八七五年)・「忠臣蔵」(Chushingura, or The Royal League. a Japanese romance 一八七五年)・「方丈記」(Hojoki:Notes from a Ten Feet Square Hut 一九二一年)などを『英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られる』。幕末から明治初期にかけて十八年間も駐日英国公使を務めたハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes 一八二八年~一八八五年)や、イギリスに於ける日本学の基礎を築いたアーネスト・サトウ(サー・アーネスト・メイソン・サトウ(英語: Sir Ernest Mason Satow 一八四三年~一九二九年:イギリスの外交官でイギリス公使館通訳・駐日公使、駐清公使等を歴任、日本滞在は通算で二十五年にも及んだ)とも『交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに』、『イギリス留学中の経済的支援を受けるなど、深い交流があった』。『ロンドン大学で医学を専攻し』、一八五九年に『イングランド王立外科医師会所属の医師となったが、一八六二年には『イギリス海軍の船医となり』、一八六四年十月から一八六六年二月まで横浜に駐在、一旦、帰国し、一八六七年に『ミドル・テンプルに入学』、一八七〇年には法廷弁護士となった。明治四(一八七一)年に『再来日し、英国領事裁判所で働』いたが、一八七八年に体調を崩したことから、翌年に『妻と子供らとともに帰国』、一八八二年にロンドン大学の事務局長補佐となり、一八九六年には事務局長に昇格した(一九〇一年退官)。『ブリストル大学の日本語講師』も勤めている。南方熊楠より二十八歳も年上であった。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『熊楠が帰国した後にも文通を通じて交遊を保ち、熊楠が結婚した』時には、『お祝いとしてダイヤの指輪を贈』ったとある。

「東禅寺」これは熊楠の「東漸寺」の誤りかと思われる。横浜市磯子区杉田に現存する臨済宗霊桐山東漸実際禅寺で、正安三(一三〇一)年に北条一族の北条宗長が桃渓徳悟を開山に迎えて建立された。至徳三(一三八六)年には五山十刹の制により、十刹の第七位に列せられている。他にも「東禅寺」という寺はあるが、明治初期の横浜居留地にいた外国人は容易には出かけられず、かなり厳しい許可申請が必要であったから、私は最も近い、由緒あるこの寺であろうと推定したものである。もし誤りであれば、御教授願いたい

「梟雄」「きょうゆう」と読み、本来は、「残忍で強い人」の意である。ここは「残忍」はやめて、「冷徹にして沈着」ぐらいにしておきたい。

「加藤高明」(たかあき 安政七(一八六〇)年~大正一五(一九二六)年)は外交官・外務大臣(第十六・十九・二十六・二十八代)・貴族院議員及び第二十四代内閣総理大臣。ウィキの「加藤高明によれば、尾張藩下級藩士の次男として生まれ、明治一四(一八八一)年七月に『東京帝国大学法学部を首席で卒業し』、『三菱に入社』、『イギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき』、明治一九(一八八六)年には『岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長女・春路と結婚』したが、『このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる』こととなる。明治二〇(一八八七)年から『官界入りし』、『外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任』し、明治三三(一九〇〇)年には第四次伊藤内閣の外相に就任して『日英同盟の推進などに尽力した』とある(下線やぶちゃん)。南方熊楠の滞英は一八九二年から一九〇〇年である。

「オクスフォード大学出板の『日本古文』」英語原題や出版年の書誌を調べ得なかった。識者の御教授を乞う。

「アストン」イギリスの外交官で、初期の著名な日本研究者であったウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。ウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストンによれば、朝鮮語の研究者としても知られる。元治元(一八六四)年に、イギリス公使館勤務日本語通訳生として来日し、二年前に来日していた二歳年下のアーネスト・サトウとともに、『日本語の動詞の理論を研究した。この難解な研究は、西欧の学者による日本語研究の基礎となるものであった』(その後その成果を元に彼は日本語文法書も出版している)。明治一七(一八八四)年には『領事試験に合格した。江戸・東京および横浜の公使館に勤務していたサトウとは異なり、アストンは神戸および長崎の領事を務め』、『二年後の明治十九年には通訳としての最高位である日本語書記官に就任した』。その後、一八八四年、『アストンは朝鮮駐在の最初のヨーロッパ人外交官(領事)となったが、政治状況が不安定となったため』、翌年に朝鮮を離れて帰国の途に就いた。彼は「日本書紀」を英訳(Nihongi; Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697 一八九六年)したり、一八九九 年にはA History of Japanese Literature(「日本文学史」)、一九〇五年にはShinto, the Way of the Gods.(「神道」)なども執筆している。

「チャンバレーン」イギリスの著名な日本研究家バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年)。東京帝国大学文学部名誉教師。所謂、「お雇い外国人」として明治六(一八七三)年に来日、東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。明治一五(一八八二)年には「古事記」を完訳している(KO-JI-KI or“Records of Ancient Matters”)。明治一九(一八八六)年からは東京帝国大学の外国人教師となった。つ英語の日本語学習書を始めとして多くの著作を発表した。明治四四(一九一一)年に離日した。初期の小泉八雲とも親交があった(後年は疎遠となった)。

「フロレンツ」ドイツの日本学者カール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年)であろう。明治二二(一八八九)年に来日し、東京帝国大学でドイツ語・ドイツ文学・比較言語学を講じながら、日本文化を研究、明治三十二年には神代紀の研究によって東京帝大より文学博士号を受けている。他にも「日本書紀」や日本の詩歌・戯曲などを翻訳した。

「拇印考」一八九四年十二月から二月に三回に分けて『ネイチャー』に発表された英文論文The Antiquity of the "Finger-print" Method(「『指紋』法の古式」)。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」(私も所持している本であるが、なんでこれが入手困難になるかななあ?! 余も末じゃて!)内のこちらのページの松居竜五拇印が詳しい。]

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