「想山著聞奇集 卷の貮」 「辨才天契りを叶へ給ふ事 附 夜這地藏の事」
辨才天契りを叶へ給ふ事
附 夜這地藏の事
元田沼家の藩中にて、其後流浪せし何某有。此人若きころ、江の島辨財天を格別に信仰なし、或年、かの嶋へ參籠してつらく思ふ樣(やう)、年頃、斯の如く信心なし奉れども、いか成(なる)尊容の天女にや、正眞(しやうしん)の御姿を拜したてまつらず。何卒、先(まづ)一度尊容を拜し奉り度(たし)と、大願を發し、頻りに其事を念じ奉るに、天女も祈願の切なるを納受(なうじゆ)なし給ひたるにや。或夜、内殿(ないでん)の扉を少し開き、差覗(さしのぞ)きて拜まれさせ給ふ。其御容貌の美敷(うつくしき)御事は申(まうす)迄もなく、寶冠の輝き、御衣(おんぞ)の美麗、見るもまばゆき御有樣にて、しかも女躰(によたい)の御事なれば、威あれども猛くましまさず。さはらば靡(なび)かせもし給はん[やぶちゃん注:「なびかす」は「気の動くままに従わせる」であるから、表面上は「触れなば、それに従って、身をなよなよとなびかせんとする」の意であが、他に「相手を自分の意に従わせる」の謂いもあるから、ここは「あたかも彼に身を任せるかのような媚態のポーズをとって見せる」の意も暗に含んでいる。深読みと思われるならば、以下の展開を読まれよ。]と見あげ奉りしに、更に天女とは思はれ給はず。昔の西施・貴妃などもかゝる有さまにて有しにやと、忽ち懸想(けさう)を發して、夫(それ)よりは晝夜戀(こひ)慕ひ奉りて、忘れ兼(かね)、あはれ拜まれさせましまさゞりしかば、かくの如き妄念をも發す間數(まじき)に、悲しき事とは成(なり)たり。元(もと)、わが誓願の空(むな)しからざるを不便(ひびん)に思召(おぼしめし)、納受なし給ひて、斯(かく)拜(をが)まれさせ給ひたる上は、天女の神通(じんつう)を以て、我等が妄想の切なるをも不便に思召、何卒、一度枕をかはし、深き煩惱を救ひ給へと、其後は晝夜他事(たじ)なく[やぶちゃん注:一つのことに専念して他のことを顧みず。余念なく。]、唯(ただ)此事をのみ祈願なし奉りしに、天女も誓願の切なるを默止兼(もだしかね)給ひたるにや、或夜、寢屋へ忍び來り給ひて託(たく)し給ふは、天女と現ぜし上は、凡夫(ぼんぷ)の如き色情の戲れは思ひもよらざる事なれども、汝が念願の切なるを默止兼て、今宵、願(ねがひ)の如く、一度、枕をかはし遣すべしとて、心よげに寶帶(ほうたい)を解(とき)[やぶちゃん注:単に羽衣のような美しい着衣の帯を解(ほど)くとも採れるが、ここは弁天であるから、被った宝冠の紐を解(と)き、帯を解(ほど)いてであろう。]、錦衣(きんい)の裳(もすそ)を掲げ、莞爾(くわんじ)として夜着の内へ入(いり)給ふ有樣(ありさま)、人間に少しも變らせ給はざれども、其玉顏(ぎよくがん)の美しき事、譬(たとふ)るに物なく、御肌(おんはだ)へのえならぬ匂ひは、伽羅(きやら)・麝香(じやかう)にもまさり、蓬萊(ほうらい)の仙女、上界の天女にも、斯迄(かくまで)の美人は二人とは有間敷(あるまじき)と、氣も魂(たましひ)も奪はれ、覺(おぼえ)なく添臥(そひふし)奉りしに閨中(けいちう)の御有樣は、何も人間に變る事なく、如何にも情相(あひ)細やかにて、首尾殘る所なく、世に珍敷(めづらしき)大望を遂(とげ)たり。然るに凡夫の淺ましさには、逢(あひ)奉りし後は、昔は物をおもはざりけりと敦忠卿の哥(うた)のごとく、彌(いよいよ)やるかたなく、觸(ふれ)奉りたる御肌の匂ひ、幾日も我身に殘りて苦敷(くるしく)、いかなる罪を蒙るとも、今一度の逢瀨を免(ゆる)させ給へと、一筋に慕ひ奉り、晝夜の差別なく念じつゞけたり。然るに又、念願の甚敷(はなはだしき)にや、現來(あらはれきた)り給ひて、再び枕をかはして打解(うちとけ)給ふ。其有さま、初にも增(まさ)りて嬉しく、かはゆく覺え奉りて、いつ迄も盡(つき)せず替らず、契(ちぎり)を籠(こめ)て給へかしと、一づに口說(くど)き續けたるに、天女もうるさくやおはしけん、我等は人間のごとく交りをなすべき身にあらねども、汝が二つなき命にもかへ、只管(ひたすら)、我を祈る心の切なるにめでゝ、一度ならず二度迄も契りを籠(こめ)たるは、汝の妄念を晴(はら)させんためなるに、いつ迄も飽(あく)事のなく、次第に思ひを重ね望(のぞみ)を增(ます)は、さりとは[やぶちゃん注:「これは、まあ! 何と!」。]、汝はわきまへのなき强慾邪淫の罪深き、足(たる)事をしらざるもの也(や)。左程のものとも思はずして、交りをなし、身を穢(けが)したるは、全く我等が誤りなり。よつて、過(すぎ)し節と今宵との汝が精液は、悉く返し戾すなりとて、夜具の上へ打付(うちつけ)給ふて、今より後は、再び我を念ずまじ、若(もし)、此上(このうへ)、念願を懸(かく)るものならば、初め汝祈誓の如く、二つなき命を亡(なく)し、永く無間(むげん)地獄に墮し遣はすべきぞとの給ひて、天女は消失(きえうせ)給ひたり。是(これ)皆、まさしき事にて、夢にてはなく、殊に打付給ふ夜具の上に、固りる精液の澤山に有(あり)たるは、怪敷(あやしく)とも、恐敷(おそろしく)とも、實(げ)に縮入(ちぢみいり)たる事にて有しとて、後々は懺悔(さんげ)して毎々(しばしば)咄したるを聞(きき)おきたりとて、其(その)昔(むか)し或人の、予が友、内藤廣庭に折々咄したるを、又、予に咄したり。かの江の島の別當岩本院の先祖も、斯(かく)の如く、辨財天に馴染(なじみ)奉りたりとの咄し有て、聞置(ききおき)たれども、昔語りゆゑ、慥成(たしかなる)事を弁(わきま)へ兼(かね)、且は不審も多くて、今記(しる)すことを得ず。續古事談に云(いはく)、張喩(ちやうゆ)と云(いふ)もの有けり。ことのほかのすきもの、又、好色にて有ける。心にふかく風月をもてあそびて、身つねに名所に遊びけり。此人、つたへて貴妃のありさまを聞(きき)て、愛念の心をおこし、見ずしらぬ世の人をこひて、心をくだき身をくるしむ。離宮の深きあとにのぞみては、昔を思(おもひ)て淚をながし、馬㟴(ばくわい)のつゝみのほとりに行(ゆき)ては、いにしへをかなしみて腸をたつ。斯の如く思ひかなしめども、おなじ世に有(ある)人ならねば、いひしらすべきかたなく、徒(いたづら)になげき、徒にこひて、年月をすごすほどに、ある時、夢にびんつら[やぶちゃん注:「みづら(みずら)」に同じい。漢字表記は「角髪・角子・鬟・髻」などで、「みみつら(耳鬘)」の転とされる。上代の男子の髪の結い方の一種で、頭頂で髪を左右に分けてそれぞれ耳の脇で輪を作って束ねた結い方を指す。]ゆひたる童子來(きたり)ていはく、玉妃(ぎよくひ)のめす也、速(すみやか)に參るべしと。夢の中に、心よろこびをなすことかぎりなし。童子を先にたてゝ、やうやう行(ゆく)程に、ほどなく玉妃の宮殿にわたりぬ。たまのすだれを入て、錦のとばりに臨みぬ。玉妃は床(ゆか)[やぶちゃん注:後に掲げる「續古事談」の原典に従った。これは後に「張喩はしもに居たり」とあるように、一段少し高いところに彼女の御座所はあうのである。但し、後のシーンからそこにまた寝台もあるのである。]の上にあり。張喩はしもに居たり。年來の心ざしをのべて、その詞(ことば)、盡(つく)る事なし。玉妃、ねんごろにあはれみ、かたらふこと、人間の女の如し。むつびちかづきて後、其(その)思ひいよいよふかく、玉妃の手をとりてゆかの上にのぼらんとするに、身おもくてたやすく登る事をえず。妃の云く、汝は人間の身也、けがらはしくいやしくして、わが床に登りがたし。張喩、ねんごろにちかづかん事をのぞむ。其時、玉妃、人をよびて、えもいはぬ香湯をまうけて其身を洗浴(せんよく)さしめて後、手を取(とり)て床のうへに登るに、身輕(かろ)くして思ひの如くのぼりぬ。交り臥(ふす)事、よのつねの如し。なつかしく睦間敷(むつまじき)事、すべて言葉も及ばず。別れの思ひ、いまだのべ盡さゞるに、曉(あかつき)の風、やうやくに驚かす。人間(じんかん)にかへらずして、爰(ここ)に止(とど)まらん事を望めども、玉妃さらにゆるす事なし。ゆるさずといへども、その思ひ淺からざるけしき也。後會(こうくわい)を契りて云く、今(いま)十五日有(あり)てそのところ[やぶちゃん注:特定地を秘した意識的ボカシ。]に行(ゆき)て、再びあひみる事をえんと。このちぎりをきゝて後、夢早く覺(さめ)ぬ。別れの淚、枕の上にかわく事なく、空敷(むなしき)床におきゐて泣悲(なきかな)しめども、甲斐なし。其後、十五日を過(すぎ)て、契りし所へ行(ゆき)ぬ。彼(かの)所は廣き野なりけり。野煙(やえん)渺茫(べうばう)として、ゆけどもく人なし。たまたま牧童の一人にあへりけるに、試(こころみ)に是(これ)を問(とひ)ければ、かの童のいはく、けさいまだくらきより此野に有(あり)、朝霧のたへまに、えもいひしらぬ天女一人まみえて、我をよびていはく、是(これ)にもし人をたづぬるもの有(あら)ば、必ず是(これ)をあたへよとて、一通の書を殘して、霧のうちにきえ、雲の中にいりぬ。かの人の示せし人か[やぶちゃん注:「あの不思議な天女が言っていた人はあなたですか?」。]とて、其書を與へたり。是をきゝて、一たびはあはざる事をかなしみ、一度は書を殘せる事を喜ぶ。心を靜めまなこをのごひて、是をひらき見るに、一紙、言葉すくなくして四韻の詩[やぶちゃん注:四箇所の句末で韻を踏む八句からなる律詩。通常、以下のような七言律詩では初句も踏むので五韻であるが、初句は踏まない場合もあり、そもそも「律詩」の大原則を「四韻」とするので問題ない。]を書(かけ)り。その中の一句にいはく、
天上觀榮雖ㇾ可ㇾ樂 人間集散忽足ㇾ悲
となんありける。人の思ひのむなしからざる事、古今もへだつる事なく、天上・人間もおのづからかよふ。誠に哀れなる事なりと云々。
[やぶちゃん注:「元田沼家の藩中にて、其後流浪せし何某」第九代将軍徳川家重とその子第十代将軍家治に仕え、側用人(明和四(一七六七)年就任)となって権勢を誇った田沼意次は、同年四月を以って二万石の相良(さがら)藩(遠江国榛原(はいばら)郡(現在の静岡県牧之原市))藩主となっている(意次の父意行は紀州藩の足軽に過ぎなかったが、第八代将軍吉宗に従って幕府の旗本となり、嫡子意次の代で異例の出世を遂げた)。天明六(一七八六)年に家治が没し、翌年、第十一将軍家斉(御三卿一橋家当主一橋治済長男で家治の養子となった)は就任、松平定信が老中となると、意次は罷免されて失脚、蟄居・減封が命ぜられ、退隠した意次から家督を継いだ意次の嫡孫田沼意明(おきあき)は陸奥下村藩(信夫郡下村(現在の福島県福島市佐倉下(さくらしも))一万石に転出させられ、相良城も廃城となって天明八年に徹底的に破却されている。その後、相良は天領となったが、文政六(一八二三)年に陸奥下村藩主若年寄田沼意正(意次四男)が相良に一万石の領主として復帰して相良城跡に相良陣屋を構え、幕末まで続いている。本「想山著聞奇集」は想山没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されたものであるから、藩士が「流浪」したからといって、意次失脚・相良藩消滅まで遡ると、六十三年も前の話柄となってしまい、この近過去形の書き出しでは不自然である(と私は思う)。されば、ここは陸奥下村藩主田沼氏というよりも、相良藩復帰後の田沼氏の「藩中」と採る方がより自然であるように思われる。
「江の島辨財天」私の電子テクスト注「新編鎌倉志卷之六」の「江島(えのしま)」を参照されたい。そこでも注したが、この現在の神奈川県藤沢市江の島にある江島(えのしま)神社に祭られているこの弁才天像(元は本尊。現在は辺津(へつの)宮(旧下宮)に祀られてある)は女性生殖器がリアルに彫り込まれていることで知られる、やや童女形の裸形像で、通称「裸弁天」と呼ばれる、妙音弁財天像(鎌倉中期以降の作像と推定されている)である。昭和二十八(一九五三)年芸苑巡礼社刊の堀口蘇山「江島鶴岡弁才天女像」によれば、この下宮は建永元(一二〇六)年に宋から戻った慈悲上人良真が将軍実朝に上奏して建てた神社とされ、その弁財天像はそこに良真が建立した宋様の竜宮門の楼上に少女の竜女(乙姫)として造形され、祀られていたものらしい。明治の廃仏毀釈の対象となった折り、誰かが役人の目を盗んで、中津宮の床下に隠し置いて消失を免れたとある。その後、いい加減に管理され、子どもらが生殖器部分を棒で突いたりし、全体も激しく損傷したが、修復されて現在に至っている。なお、当該書は修復前の本像の写真や生殖器の彫琢の細部解説(生殖器の接写写真もあるが惜しいかなマスキングされている)、修復の際の誤謬等、極めて興味深い著作である。一読をお薦めする。
「伽羅」伽羅(きゃら)油。香木の一つである沈香(じんこう:正しくは沈水香木(じんすいこうぼく))から採取される芳香を持った精油。ウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属(学名:アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha )の植物である沈香木などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四と『非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、ワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)で aguru(アグル)または agaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものを kālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』とある。
「麝香」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus の♂の成獣にある麝香腺(陰部と臍の間にある嚢で、雌を引き付けるために麝香を分泌する)から得られる香料。ウィキの「麝香」によれば、麝香『は雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料、生薬の一種で』『ムスク(musk)とも呼ばれる』。『主な用途は香料と薬の原料としてであった。 麝香の産地であるインドや中国では有史以前から薫香や香油、薬などに用いられていたと考えられて』おり、『アラビアでもクルアーンにすでに記載があることからそれ以前に伝来していたと考えられる。ヨーロッパにも』六世紀には知として知られ、十二世紀にはアラビアから実物が伝来したという記録が残る。『甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として極めて重要であった。また、興奮作用や強心作用、男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされ、六神丸、奇応丸、宇津救命丸、救心などの日本の伝統薬・家庭薬にも使用されているが、日本においても中国においても漢方の煎じ薬の原料として用いられることはない』。『中医学では生薬として、専ら天然の麝香が使用されるが、輸出用、または安価な生薬として合成品が使われることもある』。『麝香はかつては雄のジャコウジカを殺してその腹部の香嚢を切り取って乾燥して得ていた。香嚢の内部にはアンモニア様の強い不快臭を持つ赤いゼリー状の麝香が入っており、一つの香嚢からは』凡そ三十グラム程得られる。『これを乾燥するとアンモニア様の臭いが薄れて暗褐色の顆粒状となり、薬としてはこれをそのまま、香水などにはこれをエタノールに溶解させて不溶物を濾過で除いたチンキとして使用していた。ロシア、チベット、ネパール、インド、中国などが主要な産地であるが、特にチベット、ネパール、モンゴル産のものが品質が良いとされていた。これらの最高級品はトンキンから輸出されていたため、トンキン・ムスクがムスクの最上級品を指す語として残っている』。麝香の採取のために『ジャコウジカは絶滅の危機に瀕し、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)によりジャコウの商業目的の国際取引は原則として禁止された』。『現在では中国においてジャコウジカの飼育と飼育したジャコウジカを殺すことなく継続的に麝香を採取すること』『が行なわれるようになっているが、商業的な需要を満たすには遠く及ばない。六神丸、奇応丸、宇津救命丸などは条約発効前のストックを用いているという』。『そのため、香料用途としては合成香料である合成ムスクが用いられるのが普通であり、麝香の使用は現在ではほとんどない』。『麝香の甘く粉っぽい香気成分の主成分』はムスコンと呼ばれる物質でこれを〇・三~二・五%程度含有し、ほかに微量成分としてムスコピリジン・男性ホルモン関連物質であるアンドロステロンやエピアンドロステロンなどの化合物を含むが、『麝香の大部分はタンパク質等である。麝香のうちの』約十%程度が『有機溶媒に可溶な成分で、その大部分はコレステロールなどの脂肪酸エステル、すなわち動物性油脂である』。「語源」の項。『麝香の麝の字は鹿と射を組み合わせたものであり、中国明代の『本草綱目』によると、射は麝香の香りが極めて遠方まで広がる拡散性を持つことを表しているとされる』。『ジャコウジカは一頭ごとに別々の縄張りを作って生活しており、繁殖の時期だけつがいを作る。そのため麝香は雄が遠くにいる雌に自分の位置を知らせるために産生しているのではないかと考えられており、性フェロモンの一種ではないかとの説がある一方』、『分泌量は季節に関係ないとの説もある』。『一方、英語のムスクはサンスクリット語の睾丸を意味する語に由来するとされる。これは麝香の香嚢の外観が睾丸を思わせたためと思われるが、実際には香嚢は包皮腺の変化したものであり睾丸ではない』。因みに、『ジャコウジカから得られる麝香以外にも、麝香様の香りを持つもの、それを産生する生物に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。霊猫香(シベット)を産生するジャコウネコやジャコウネズミ、ムスクローズやムスクシード(アンブレットシード)、ジャコウアゲハなどが挙げられ』、『また、単に良い強い香りを持つものにも同様に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。マスクメロンやタチジャコウソウ(立麝香草、タイムのこと)などがこの例に当たる』とある。
「逢奉りし後は、昔は物をおもはざりけりと敦忠卿の哥」権中納言藤原敦忠(延喜六(九〇六)年~天慶六(九四三年)の「拾遺和歌集」(第七一〇番歌)の、
題しらず
逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物も思はざりけり
これは「百人一首」に採られているが、そこでは一般に、
逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物を思はざりけり
とされ、それで人口に膾炙されてしまっている。
「別當岩本院」「新編鎌倉志卷之六」の「江島(えのしま)」の当該条と私の注を引いておく(リンク先は作成がUnicode対応以前のため、漢字の正字が不全であるので、修正を加えてある)。
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巖本院(いはもといん) 島の入口(いりくち)、右の方にあり。客殿に、額、巖本院、朝鮮國螺山書すとあり。此島の別當にて、眞言宗、仁和寺の末寺なり。此島に、下の宮・上の宮・本社とてあり。下宮は下の坊司(つかさ)とり、上の宮は上の司とり、本社は巖本院司とるなり。下の坊と巖本院とは妻帶(さいたい)なり。上の坊は淸僧なり。是を江の島の三坊と云ふ。
[やぶちゃん注:岩本院古くは岩本坊と称し、小田原北条氏が厚い信仰を持った室町期から存在し、江戸期には慶安二(一六四九)年に京都仁和寺の末寺となって院号の使用が許され、島内の全社寺を支配する惣別当となった。後、岩本院と上之坊及び下之坊の間では参詣人の争奪に絡む利権抗争が燻り続けるが、寛永十七(一六四〇)年に岩本院が幕府からの朱印状を入手、まず上の坊を、次に下の坊を支配下に置いた。かくして宿坊営業や土産物を始めとする物産管理、開帳や出開帳等の興業事業の総権益を握り、岩本院には将軍や大名家が宿泊するなど、大いに栄えていた。江の島には三重の塔や弁財天像が祀られていた竜宮門等の建物や仏像があったが、明治の廃仏毀釈令によって破壊されてしまった。]
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「内藤廣庭」既出既注であるが、再掲する。不詳。ただ、想山と同時代人の、幕末の国学者で、同じ尾張藩に仕えたこともある内藤広前(ひろさき 寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)の初名は広庭である。同名異人か?
「續古事談に云、……」「續古事談」(鎌倉初期(跋文によるなら建保七(一二一九)年)に成立した説話集。先行する同時期の刑部卿源顕兼の「古事談」を受けたものであるが、編者は不詳である)のそれは設定から判る通り、大陸の作品の翻案物で、種本は北宋の秦醇(生没年未詳)の「驪山(りざん)記」「溫泉記」かと推定されている。例によって想山の引用はかなり正確であるが、想山のそれを加工データとして、岩波新古典文学大系版の「古事談・続古事談」の「巻第六 漢朝」当該章(但し、新字体)で校合しつつ、以下に示す。読みは一部にオリジナルに歴史的仮名遣で入れた。
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張喩[やぶちゃん注:原典では「張兪」「張愈」とも表記される。]といふもの有けり。ことのほかのすきもの、又、好色にて有ける。心にふかく風月をもてあそびて、身、つねに名所にあそびけり。此人、つたへて貴妃のありさまを聞て、遙(はるか)に愛念の心をおこす。みずしらぬ世の人をこひて心をくだき身をくるしむ。離宮[やぶちゃん注:玄宗が楊貴妃を最初に召し出した温泉のある驪山宮。]の古き[やぶちゃん注:想山は「深き」と誤読している。]あとにのぞみては、昔を思ひて淚をながし、馬嵬(ばくわい)のつゝみのほとりに行ては、いにしへをかなしみてはらわたをたつ。かのごとくおもひかなしめども、おなじ世にある人ならねば、いひしらすべきかたなし。いたづらになげき、いたづらにこひて年月をすごすほどに、あるとき、夢に、みづらゆひたる童子きたりていはく、
「玉妃のめすなり。すみやかにまゐるべし。」[やぶちゃん注:「長恨歌」や「長恨歌傳」等によれば、楊貴妃は仙界に行ってそこでは「玉妃太眞院」などと名乗っていたことになっている。]
と。夢の中の心、よろこびをなす事限なし。童子をさきにたてて、やうやうゆくほどに、程なく玉妃の宮殿にわたりぬ。玉の簾を入(いり)て、錦のとばりにのぞみぬ。玉妃はゆかの上にあり。張喩は下に居たり。としごろのこゝろざしをのべて、その詞つくる事なし。玉妃、ねんごろにあはれみかたらふこと、人間(にんげん)の女のごとし。むつびちかづきて後、其思ひいよいよふかし。玉妃の手をとりて床のうへにのぼらんとするに、身おもくて、たやすくのぼる事をえず。妃のいはく、
「汝は人間(にんげん)の身也、けがらはしくいやしくしてわが床にのぼりがたし。」
張喩、ねんごろにちかづかむ事をのぞむ。そのとき、玉妃、人をよびて、えもいはぬ香湯をまうけて、その身を洗浴せしめて後、手をとりてゆかのうへにのぼるに、身かろくして思(おもひ)のごとくにのぼりぬ。まじはりふすこと、よのつねのごとし。なつかしくむつまじき事、すべて詞も及ばず。わかれのおもひいまだのべつくさざるに、曉の風やうやくにおどろかす。人間(じんかん)にかへらずして、ここにとゞまらん事をのぞめども、玉妃さらにゆるすことなし。ゆるさずといへども、其思ひあさからざるけしきなり。後會を契りていはく、
「今十五日ありて、その所にゆきて、ふたゝびあひみることをえん。」
と。此契(ちぎり)を聞て後、夢早くさめぬ。わかれの淚、枕の上にかわくことなし。空むなしき床におきゐて、なきかなしめども甲斐なし。其後、十五日を過て、契し所へ行(ゆき)ぬ。かの所はひろき野也けり。野煙(やえん)渺茫(べうばう)として、ゆけどもく人なし。たまたま牧童の一人にあへりけるに、こゝろみにこれをとひければ、かの童のいはく、
「けさいまだくらきより此野にあり。朝霧のた絕間(たえま)に、えもいひしらぬ天女一人まみえて、我をよびていはく、『これにもし人をたづぬるものあらば、かならずこれをあたへよ』とて、一通の書を殘して、霧のうちにきえ、雲の中にいりぬ。彼(かの)人の示せし人か。」
とて、その書をあたへたり。これをききて、一たびはあはざる事をかなしみ、一度は書をのこせる事をよろこぶ。心をしづめ。まなこをのごひて、これをひらき見るに、一紙、ことばすくなくして、四韻の詩をかけり。その中の一句にいはく、
天上觀榮雖ㇾ可ㇾ樂 人間亦散忽足ㇾ悲
[やぶちゃん注:「天上の觀榮は樂しむべしと雖も 人間(じんかん)の聚散(しうさん)は亦(また)悲しむに足る」。岩波版はこのように「亦」であるが、その注に諸本では「人間聚散忽足ㇾ悲」とあるとあり、想山のそれは誤りではない。その場合は「人間(じんかん)の聚散(しうさん)は忽(すなは)ち悲しむに足る」であろう。]
となむありける。人の思ひのむなしからざる事、古今もへだつる事なく、天上・人間(じんかん)もおのづからかよふ。まことにあはれなる事也。
*]
又、日本靈異記に、和泉國和泉郡血渟上山寺有二吉群天女摸像一、聖武天皇御世、信濃國優婆塞來二住於其山寺一、瞻二睇之天女像一而生二愛欲一繫ㇾ心ㇾ之、每二六時一願云如二天女容一好女賜ㇾ我、優婆塞夢見婚二天女像一、明日瞻ㇾ之、彼像裙腰不淨染汚、行者視ㇾ之而慚愧言、我願二似女一、何忝天女專自交ㇾ之、媿不ㇾ語二他人一【中略】里人聞ㇾ之、往問二虛實一、並瞻二彼像一、淫精染穢、優婆塞不二ㇾ得隱事一而愆具陳語諒委、深信ㇾ之者无二感不應一也【下略】[やぶちゃん注:底本は一部の返り点が不全なので私が勝手に訂した。]と云々。全く同日の談也。神佛も人の眞實を以(もつて)祈誓するときは、むりなる事にも應じ給ふもの也。まして正直なる事を祈願するにおいてをや。さて是を以て見る時は、小野小町の少將に打解(うちとけ)ざりしを、今の世までもつれなき事にいひつたふるは、うべ成(なる)かな。
[やぶちゃん注:「日本靈異記」「にほんりやういき(にほんりょういき)」は正式には「日本國現報善惡靈異記」で、平安時代初期に書かれた、現在、現存するところの最古の仏教説話集。著者は法相宗大本山である奈良の薬師寺の僧景戒で、上・中・下三巻から成り、原典は変則漢文で書かれている。成立年ははっきりしないものの、序と本文の記載内容から、弘仁一三(八二二)年とも推定されている。以上は「中卷」の「生愛欲戀吉祥天女像感應示奇表緣第十三」(愛欲を生じ、吉祥天女(きちじやうてんによ)の像に戀ひ、感應して奇表を示す緣(えん)第十三)である。原文(こちらのページのものを加工させて貰った)と書き下し文(板橋倫行氏校注になる角川文庫刊を参考にしつつも、一部を私の訓読ポリシー(助詞・助動詞以外は漢字を用いる)に基づいて漢字或いは平仮名に直し、一部の訓読(「之」の指示語が省かれている等)には従っていない)を示す。読みも一部、追加した。
(原文)
和泉國泉郡血淳山寺、有吉祥天女像。聖武天皇御世、信濃國優婆塞、來住於其山寺。睇之天女𡓳像而生愛欲、繫心戀之、每六時願云、如天女容好女賜我。優婆塞夢見婚天女像。明日瞻之、彼像裙腰不淨染汙。行者視之而慚愧言、我願似女、何忝天女專自交之。媿、不語他人。弟子偷聞之、後其弟子、於師無禮。故嘖擯去。所擯出里、訕師程事。里人聞之、往問虛實、竝瞻彼、淫精染穢。優婆塞不得隱事而具陳語。諒委、深信之者、無感不應也。是奇異事矣。如涅槃經云「多婬之人畫女生欲」者其斯謂之矣。
(書き下し文)
和泉(いづみ)の國泉(いづみ)の郡(こほり)血淳(ちぬ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)有り。聖武天皇の御世、信濃國優婆塞(うばそこ)、其の山寺に來り住む。之(こ)の天女の像を睇(めかりう)ちて愛欲を生じ、心に繫(か)けて之れを戀ひ、六時每(ごと)に願ひて云はく、
「天女のごとき容好(かほよ)き女(をむな)を我に賜へ。」
と。
優婆塞、夢に天女の像に婚(くがな)ふと見る。
明くる日、之れを瞻(み)れば、彼(か)の像の裙(も)の腰、不淨に染(し)み汙(けが)れたり。行者、之れを視(み)て慚愧(ざんき)して言はく、
「我(われ)、似たる女を願ひたるに、何ぞ忝(かたじけな)くも天女專(もはら)自(みづか)ら之れに交(まじ)はる。」
と。媿(は)ぢて、他人(ひと)に語らず。
弟子、偷(ひそ)かに之れを聞き、後、其の弟子、師に禮(いや)無し。故に嘖(せ)めて擯(お)ひ去る。擯(お)はれて里に出で、師を訕(そし)りて事を程(あらは)す。里人、之れを聞きて、往きて虛實(まことそらごと)ならんを問ひ、竝びに彼(か)の像を瞻(み)れば、淫精、染み穢れたり。優婆塞、隱す事を得ずして具(つぶ)さに陳(の)べ語りき。諒(まこと)に委(し)る、深う信(う)くれば、感の應ぜざる無きことを。是れ、奇異の事なり。「涅槃經(ねはんぎやう)」に云ふがごとく、『多婬の人、畫(か)ける女(ぢよ)に欲を生ず』といふは其れ、斯(か)く、之れを謂ふなり。
*
「吉祥天女」吉祥天(きっしょうてん)は梵語の「シュリー・マハーデーヴィー」の漢語音写で、仏教の守護神である天部の一人。ヒンドゥー教の女神ラクシュミーが仏教に取り入れられたもので、「功徳天」「宝蔵天女」とも称する。ウィキの「吉祥天」によれば、『ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする』。『早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。北方・毘沙門天の居所を住所とする。不空訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には成仏して吉祥摩尼宝生如来(きちじょうまにほうしょうにょらい)になると説かれる』。『吉祥とは繁栄・幸運を意味し』、『幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている』。『天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇は天河の上空での天女=吉祥天の舞いを吉祥のしるしととらえ、役行者とともに、伊勢神宮内宮に祀られる女神([天照坐皇大御神荒御魂瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている』とある。仏教の像形では弁財天と並んで極めて女性性を具現したものとして造形されるもので、私は弁財天よりも遙かに好きで、特に浄瑠璃寺の吉祥天立像は私のお気に入りの仏像の一つである。
「和泉の國泉の郡血淳(ちぬ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)有り」参考にした角川文庫版の板橋氏の注によれば、「和泉の國泉の郡」は大阪府泉北(せんぼく)郡であるが、この「血淳(ちぬ)」は不詳であるが、「泉州志」に槇尾山(ここ(グーグル・マップ・データ))に吉祥院の跡があると見え、それであろう、とする。「𡓳像(せふざう)」は土で作った像のこと。想山は「摸像」としているが、これは誤読したものかも知れぬ。
「優婆塞(うばそく)」三帰(仏・法・僧の三宝に帰依すること)・五戒(在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」)を受けて正式の仏教信者となった男子。在家でもよい。因みに女性の場合は「優婆夷(うばい)」と称した。
「睇(めかりう)ちて」流し目で見て。淫猥のさまがよく伝わるいい語彙である。想山はここを「瞻睇」とし二字で「めかりうちて」と訓じているようである。おかしくはないし、そういう版本があるのかも知れない。或いは、彼が「睇」の字が一般的でなく読み難いと感じて、彼が省略した部分に出る「瞻(みる)」(注視して見る)をここに入れて判りやすくしたものかも知れない。
「六時每(ごと)」板橋氏の注に、『晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜をといひ、その時每に佛前に勤行する』こととある。「後夜」は「ごや」で、既に翌日で、現在の凡そ午前二時から午前六時頃を指す。その間に行う勤行をも「後夜」と呼ぶ。
「婚(くがな)ふ」性交する。
「裙(も)の腰」女性が下に穿く現在のスカートに当たる着衣。但し、この場合は彫られたそれであって、実際の衣服のそれではない。
「不淨に染(し)み汙(けが)れたり」精液が飛び散って滲みになっているのである。
「慚愧(ざんき)」自己に対して恥じること。
「忝(かたじけな)くも」もったいなくも。
「禮(いや)無し」無礼な振舞いがあった。但し、これは別にそのことを漏れ聴いたから軽蔑して無礼になったというのではないようだ。この弟子自体が天性、そうした無礼な輩であったのであろう。
なお、本話は「今昔物語集」にも、その「卷十七」で「吉祥天女𡓳像奉犯蒙罸語第四十五」として引かれてある。以下小学館の日本古典全集を参考にして示す。□は破損部。
*
今は昔、聖武天皇の御代に、和泉の國、和泉國の郡の血渟(ちぬ)の上(かみ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)在(まし)ます。其の時に、信濃の國より、事の緣有りて、其の國に來れる一人の俗[やぶちゃん注:この場合は在家であった道心者の謂い。後で弟子が出る以上、謂わば、相応の修行をした半僧半俗の者であったと考えぬと、おかしい。]有りけり。其の山寺に行きて、吉祥天女の𡓳像を見て、忽ちに愛欲の心を發(おこ)して、彼(か)の像に心を懸け奉りて、明け暮れ此れを、戀ひ悲しむで[やぶちゃん注:恋い慕って。]、常に願ひて云く、
「此の天女の如くに、形(かた)ち美麗ならむ女(をむな)を、我れに得しめ給へ。」
と。
其の後(の)ち、此の俗、夢に彼の山寺に行きて、其の天女の𡓳像を婚(とつ)ぎ奉ると見て、夢、覺めぬ。
「奇異也(なり)。」
と思ひて、明くる日、彼の寺に行きて、天女の像を見奉れば、天女の像の裳の腰に、不淨(ふじやう)の婬(いむ)付きて染みたり。俗、此れを見て、過(あやまち)を悔ひ、泣き悲しむで申さく、
「我れ、天女の像を見奉るに、愛欲の心を發すに依りて、『天女に似たらむ女を令得給(えしめたま)へ』と願ひつるに、忝なく□□□身を自らに交(まじ)へ奉る事を怖れ歎(なげ)く。」
と。然れば、此れを恥ぢて、此の事を努々(ゆめゆめ)、他(ほか)の人に語らず。
而るに、親しき弟子、自然(おのづか)ら竊(ひそ)かに此の事を聞きけり。
其の後、其の弟子、師の爲めに無禮(むらい)を成す故に、弟子、追ひ被去(さけられ)て、其の里を出でぬ。他の里に至りて、師の事を謗(そし)りて、此の事を語る。其の里の人、此の事を聞きて、師の許(もと)に行きて、其の虛實(こじち)を問ひ、幷びに、彼の天女の像に婬穢(いむゑ)の付きける事を尋ぬるに、師、隱し得る事不能(あたはず)して、具さに陳(の)ぶ。人皆(ひとみな)、此の事を聞きて、
「希有(けう)也(なり)。」
と思ひけり。
誠(まこと)に懃(ねむごろ)に心を至せるに依りて、天女の權(かり)に示し給ひけるにや。此れ、奇異の事也。
此れを思ふに、譬(たと)ひ多婬(たいむ)なる人有りて、好(よ)き女(をむな)を見て、愛欲の心を發(おこ)すと云ふとも、强(あなが)ちに念(おもひ)を繫(かく)る事を可止(やむべ)し。此れ極めて無益(むやく)の事也となむ語り傳へたるとや。
*]
又、三河國渥美郡豐川村に三明院(さんみやうゐん)と云ふ有(あり)て、大なる堂に辨財天を安置す。靈驗新たなりとて、近隣は申(まうす)迄もなく。遠方よりも步みを運ぶ所とぞ。この三明院より一里程東に賀茂村と云有。此村の馬士(まご)何とやらん云ひしもの、生得(しやうとく)、天然自然の妙音[やぶちゃん注:声がいいこと。]にて、其上、間拍子(まびやうし)もよく、仍(よつて)、馬士歌(まごうた)は至(いたつ)ての上手にて、每(いつ)も能(よく)諷(うた)ひ步行(ありき)たるよし。此者、或夜、右三明院の邊りを通りけるに、此邊には絕て見馴ぬ類ひまれなる美人彳(たたず)み居(をり)て、此馬士にいひけるは、われは人間にあらず、三明院の辨天也。われ、故有(ゆゑあり)て汝をおもふ事久し、仍(よつて)、今宵、竊(ひそか)に現(あらは)れ出(で)て故にまみゆ、人しれずして契りを結ぶべし、其變りに、汝の生涯を護り、豐かに暮させ申べし、去(さり)ながら、此事、必(かならず)、人に語るべからず、もし聊(いささか)にてももらす時は、卽座に一命を斷(たつ)べし、呉々(くれぐれ)も謹むべしとて、打解(うちとけ)てそひ臥(ふし)給ふ。天女、又、の給ふ樣(やう)、汝、每夜、歸りには馬に乘(のり)、每(いつ)も曲(きよく)節(ふし)面白く歌ひ行(ゆく)。音聲(おんじやう)誠(まことに)に妙にして、久敷(ひさしく)我(わが)心を動(うごか)したり、などゝかたりつゞけ給ひしとなり。然るに輕きものゝはかなさは、わづか二三度逢(あひ)奉りて後、竊に友達に此事を語ると、速(すみやか)に卽死したりとの事。此(この)加茂村にて慥(たしか)に聞來(きききた)りたるものありしが、この聞(きき)たるものゝ意(い)[やぶちゃん注:話の内容。]に、餘り虛(うそ)ら敷(しき)事なりと思ひて、再應(さいわう)、問返(とひかへ)もせずして、心なく聞流(ききなが)しおき、しかも一向(いつかう)古き事にてもなき由なるに、年歷も聞(きか)ず、馬士の名迄も忘れ、今思へば殘念なりと語りしもの有。此時、出(いで)給ひし天女は、頭には寶冠も頂き給はず、身に錦繡も纏ひ給はず、麁服(そふく)[やぶちゃん注:粗末な服。]にはなけれ共(ども)、尋常の女の衣服を着給へりしと也。もしは妖魅狐狸の類(たぐひ)にてはなきか。去(さり)ながら、神佛にも和光同塵(わかうどうぢん)[やぶちゃん注:仏教用語では仏菩薩が本来の威光を和らげて塵に穢れたこの世に敢えて仮りの身を現わし衆生を救うことを言う。]と云(いふ)事あれば、何ともいひがたし。扨(さて)、此この)三明院の辨才天は立像にて、十八九歲の女程(ほど)に見させ給ふと。定(さだめ)て作佛[やぶちゃん注:名人の手になる優れた仏像。]にや有らん、聞(きき)まほし[やぶちゃん注:見に行ってみたいものだ]。例年正月七日やらんに開扉(かいひ)なし、御衣(おんぞ)をとりかへ奉り置(おき)て、翌年、見奉れば、御すそことごとくきれて居るは、常々步行(ほぎやう)なし給ふ故也との事も、衆人口ずさむ事なりと。左も有る事にや。此話、猶、篤(とく)と聞訂度(ききただしたき)ものなり。右邊にては誰(たれ)しらぬものもなきとの事也。全く同日[やぶちゃん注:(先に示した事例と)同様。]の談也。
[やぶちゃん注:「三河國渥美郡豐川村」現在の渥美湾湾奧の愛知県豊川市付近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「三明院」これは現在の愛知県豊川市豊川町波通(ここ(グーグル・マップ・データ))にある、曹洞宗龍雲山妙音閣三明禅寺三明寺(さんみょうじ)である。「豊川弁財天」の通称で知られる(本尊は千手観音)。ウィキの「三明寺」によれば、寺伝に由ると大宝二(七〇二)年、『文武天皇が三河国に行幸の折、この地で病にかかったが、弁財天の霊験で全快したことから、大和の僧・覚淵に命じて堂宇を建立したのが始まりという』。『以後、真言宗の寺院として続いていたが、平安時代後期、源範頼の兵火により焼失し』、荒廃したが、応永年間(一三九四年~一四二八年)に『禅僧・無文元遷(後醍醐天皇の皇子)が諸堂を復興し、この際に禅宗に改宗し、千手観音を本尊とした。また、三重塔を建立し、大日如来像を安置したといわれる』。享禄四(一五三一)年に『三重塔が再建され』、天文二三(一五五四)年)には『本願光悦により弁財天宮殿が再建される。現存する本堂は』、正徳二(一七一二)年に『岡田善三郎成房により再建されたもの』とある(本書の板行は嘉永三(一八五〇)年であるから、想山はこの記載時には実地検証に出向いてはいないものの、作品内時制の当時のままということになる)。『豊川弁財天、または馬方弁財天と称される弁財天像は、平安時代の三河国司・大江定基が、愛人の力壽姫の死を悼み、力壽姫の等身大の弁財天を自ら刻して奉納したものと伝えられている。弁財天は裸身であり、十二単を着ており』、十二年に一度、『巳年に御衣装替えを行う慣わしがある』。『現在では、三河七福神の霊場の』一『つとして紹介され、安産・芸道・福徳・海運の守護神となっている。毎年』、一月と八月に『開帳される』とある(下線やぶちゃん)。なんだか、行って拝顔したくなってきた。
「賀茂村」現在の愛知県豊橋市賀茂町(かもちょう)。豊川市の東に豊川(河川名)を挟んで存在する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「天然自然の妙音」弁財天はしばしば(江ノ島や鶴岡八幡宮のそれ)琵琶を弾く姿で造形されるように、音楽・技芸神として知られ、「大日経」では「妙音天」とか「美音天」と呼ばれている。まさにこの美声の馬子の若者に音楽の神さまであるはずの弁財天の方が惹かれて〈感応〉してしまったわけである。ミューズの霊感に触れた(それはコイツスすることに外ならない)者は実は或いは若死するしかないということをも暗に示しているのであろうか。私は無能無才であったことに感謝しなくてはなるまいよ。]
又、武州入間郡富村【江戶より十里餘西なる】の地藏尊も靈驗新たにして、遠近(をちこち)、步みを步(はこ)ぶ所也。此地藏尊の事を、土俗、富の夜ばひ地藏と云(いひ)て、其(その)名高し。予、此事を其村の長(をさ)たるものに聞試(ききこころみ)るに、夜ばひをなさるゝ故と申(まうす)事に御座候と答ふ。夜ばひとは如何(いかに)なし給ふにやと問ふに、若き女、よき娘など有(ある)所へ御出(おいで)なされ、徒(いたづら)をなさるゝと申ことに御座候と云(いへ)り。然(しか)らば、現在慥成(たしかなる)事の有(あり)たるをしれりやと尋(たづぬ)るに、夫(それ)は存(ぞんじ)申さず、去(さり)ながら、昔より所々にて口々に申(まうし)侍る事故、噓にも有(ある)まじきにやと答(こたへ)て、さだかならざれども、古來、衆口に申侍る事故、何とも申がたし。能(よく)糺し度(たく)おもふのみ。是又、同樣の談なり。
[やぶちゃん注:「武州入間郡富村」埼玉県の旧入間郡内には「上富村」「下奥富村」「水富村」などがあったが、単独の「富村」は捜し得なかった。ところが、川越原人氏のサイト「川越雑記帳」の「川越の仏像・石仏・板碑」の「30 西福寺の石彫り三尊と道標」(この寺は川越市南大塚にある)の記載の中に、この西福寺というのは『天台宗に属し、木ノ宮山地蔵院と号し、川越市南大塚、西武鉄道南大塚駅に近く所在し、西面してたつ。草創の寺歴については不詳』であるが、この寺、現在の埼玉県入間郡三芳町(みよしまち)上富で旧『三芳野富に所在する多福寺とのあいだに木ノ宮地蔵尊の所有権に関して長いあいだの』係争『があって、いつ結審するのか、全く知りえなくなった。かくては寺の信用にもかかり、信徒の参拝もおぼつかないというので、十余年前にようやく和解して多福寺が保存することになったという。木ノ宮山という山号は、多福寺に安置してある地蔵尊はわが所有であるというので木ノ宮の名をつけたという』。『参道の入り口に丸彫り、円頂、立高一・五メートル『の石彫り地蔵尊を安置する。天明七年の造立』とあり、更に『木ノ宮地蔵のお前立が西福寺にあったころは、八月二十三日に祭礼が行なわれ、お祭が終ると、今度は多福寺に移して夜祭りを行なう。お祭りに使用するための大提灯は、今も西福寺につるしてある。多福寺に安置してある木ノ宮地蔵のことを、土地の人は夜這い地蔵と呼んでいるが、その晩に唄う歌詞は色気がすぎて聞くにたえない句ばかりであって、ここに記載することをはばかる』とあるのを見出した(下線やぶちゃん)。多福寺はここで(グーグル・マップ・データ)、その南西(リンク先を航空写真に切り替えて見る限り、境内地内と思われる)に「木ノ宮地蔵堂」があることが判る。私が着目したのはこの多福寺のある場所の、川越原人氏の記載の旧称『三芳野富』である。これは明らかに「三芳野」の「富」であろう。これから推して、この「富村」とはこの多福寺のある、現在の埼玉県入間郡三芳町上富周辺(まさに「中富」も見出せる)と比定してよく、しかも『夜這い地蔵』とくれば、比定は確実である。「三芳町」公式サイトに「木ノ宮地蔵堂」があり、地蔵の写真も出ている(さすがにお役所なれば夜這いのことは一切書かれていないが)。これが夜這い地蔵だッツ! と快哉を叫びかけたところが、株式会社クレインエイトの運営するサイト「妖怪伝説の旅」のこちらに「夜這い地蔵 三芳町」として短文ながら、「想山著聞奇集」を挙げて、この『夜這い地蔵は上富多福寺の地蔵尊のことで、昔、夜な夜な出ては、強盗や追いはぎ、果ては婦女を犯したとまで伝えられています。その結果、村人達の手によって、土中深くに埋められたと言うことです』とある(下線やぶちゃん)。さて? 真相は如何?]
或人、此書を見て評論して云(いはく)。天女の御容貌、餘り美麗にして、しかも其擧動、甚だ婀娜(あだ)たる風情に過(すぎ)給ふは、筆にまかせ、事に過て著述(しるしのべ)たる樣に思はれ、よつて如何成(いかなる)老翁野夫(らうをうやぶ)も此談を讀(よめ)ば、心を動かさゞるはなきやうに思はれて、面白過(すぎ)て却(かへつ)て都(すべ)ての實事を失ふ姿にはなきやといへり。予答て云(いはく)。初(はじめ)、凡例(はんれい)に云置(いひおき)たる如く[やぶちゃん注:本書冒頭の「凡例」のこと。]、惣躰(さうたい)、聞(きく)まゝを違(たが)へざる樣に記すが、予が存念なり。然(しかれ)ども、其咄す人の辯舌に種々有(あり)て、虛實の量りがたき多きまゝ、虛(うそ)と思ひたるは記さず、實(まこと)と思ひたるのみを記す樣にはすれども、別(べつし)て神佛の靈驗には、奇怪に過(すぎ)たりと思ふ程の事もまゝあれども、夫(それ)は猶更、取捨(としすて)なし難きまゝ、兎角、慥成(やしかなる)咄を撰びて其儘に記せるのみ。予も此天女の事は餘り婀娜に過たりと思へども、左にはあらざるか。[やぶちゃん注:本当にそうのように全否定されるものであろうか?」。]山門の發足院の覺深阿闍梨(あじやり)、日光山瀧尾權現の靈託記を具(つぶさ)に記されし後記中に、權現を觀拜(くわんはい)なし奉らるゝ事有。其文に云(いはく)、忽然更見二一大杉橫伏一、其上直立其容顏極高貴尊嚴、年齡十有七八計、垂二綠髮於背後一、着二白杉赤袴一、身向二北面一向ㇾ予、云々。是を以、見る時は、權現の高貴にしてしかも美麗なりし事は、前の天女と全く同樣の御事と思はる。か樣の神々の、凡夫(ぼんぷ)の執欲(しふよく)を濟(すく)はんとて、打解(うちとけ)給ふ程ならば、其有樣、人間にはまさりたまふて、何程(いかほど)書解(かきとく)とて、文筆の及ぶ事にはあらざるか。尤(もつとも)、强(しひ)て實とするにはあらず。理非虛實は見る人の心にまかするのみ。去(さり)ながら、此條は、淫奔(いんぽん)の壯男(そうだん)に理念を興(おこ)さしむるとて書顯(かきあら)はせしにはあらで、誡めんとて記せしもの也。見誤り給ふべからず。
[やぶちゃん注:「山門の發足院の覺深阿闍梨」江戸前期の皇族で真言宗僧であった覚深入道親王(かくしん/かくじん 天正一六(一五八八)年~慶安元(一六四八)年)。後陽成天皇第一皇子。仁和寺第二十一世門跡。「山門の發足院」はよく判らぬが、或いは彼は応仁の乱で焼失していた仁和寺の再建に尽力しているから、「山門」は仁和寺で「發足院」は焼け残っていた「院」家(いんげ:塔頭)の真光院を彼が足場として再興を「発」足(ほっそく)したという意味ではなかろうかなどと妄想した。大方の御叱正を俟つ。
「日光山瀧尾權現」現在の日光二荒山(にっこうふたらさん)神社の別宮滝尾神社。「日光山内」の北の奥の「白糸の滝」付近にある瀧尾神社。ここは弘仁一一(八二〇)年に空海によって宗像三女神の一人である田心姫(たきりびめ/たぎりひめ)を祭神として創建されたという伝説を残す。
「靈託記」不詳。識者の御教授を乞う。
「忽然更見二一大杉橫伏一、其上直立其容肅極高貴尊嚴、年齡十有七八計、垂二綠髮於背後一、着二白杉赤袴一、身向二北面一向ㇾ予」我流で訓読しておく。
忽然として更に一つの大杉の橫伏(よこぶせ)なるを見るに、其の上、直立せる其の容顏、極めて高貴にして尊嚴たり。年齡(よはひ)十有七、八計(ばか)り、綠髮を背の後ろに垂らし、白き杉(さん)と赤き袴(はかま)を着(ちやく)し、身、北面に向きて予に向ふ。
誤りがあれば御教授願いたい。]
予思ふに、此(この)條に三明院の辨財天と云ふは、恐くは辨財天に非ずして樂音天なるべし。樂音天は妙音天とも云(いひ)て、一切の音聲の事を好み給ふ天女也。仍(よつ)て申酉(さるとり)に配す【西は秋にして聲を司る。[やぶちゃん注:厳密に言えば、「申酉」は西南西」。]】所謂、吉祥天女の事也。故に琵琶を持(もち)給ふ。如何となれは、馬士(まご)の音聲に惚(ほれ)給ひて出現なし給ひたる故也。又、辨財天は障碍(しやうがい)を排ひ給ふ天女ゆゑ、弓矢を持給ひて財寶をも司り給ふゆゑ、辰巳(たつみ)に配當して別女(べつぢよ)なり。然共(しかれども)、繹氏(しやくし)[やぶちゃん注:仏家。]にて所謂辨財天と云は、金光明經(こんくわうみやうきやう)の説にして、則(すなはち)、吉祥天同一躰と云(いへ)り。是は、淨嚴律師の辨天祕訣に議論細密にして、我等如き淺智にて、再び論する事能はざる姿なれども、實は二神とも世に云七福神にして、則、北斗七星の眞形(しんぎやう)也。天の四七の神、地の四九の神、同一物にして、論群多々なれども、此所に辯論する事にあらざれば、略して委敷(くはしく)は論ぜず。何にもせよ、音聲(おんじやう)を慕ひて出現して契り給ふも、甚(はなはだ)の奇事なり。
[やぶちゃん注:ここで想山がいろいろ言っていることは、後代になって、煩雑な仏典解釈の分化の中で生じた同体異称を逆にやったものに過ぎない。しかし、弁財天は多様な分化を示しながらも、また反対に吉祥天や宇賀神その他の様々な神の属性やその存在を吸収しダブらせていったりもした。ここで彼が述べている「七福神」との集合も、ウィキの「弁財天」によれば、たかだか江戸期の新しい考え方で、『近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。室町時代の文献に、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を、天台宗の開祖・最澄が祀ったという伝承があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られている』。『また、元来インドの河神であることから、平安初期から末期にかけて仏僧が日本各地で活躍した水に関する事蹟(井戸、溜池、河川の治水など)に、また日本各地の水神や、記紀神話の代表的な海上神の市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂『として数多く祀られた。弁天島や弁天池など地名として残っていることもある。いずれも海や湖や川などの水に関係している』。『弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることも多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある』とあるのも、ハイブリッド化し、しかも自由自在にメタモルフォーゼしてゆく弁財天の戦略が見えてくる。
「金光明經」「スヴァルナ・プラバーサ・スートラ」の漢訳語。四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つで、本邦では「法華経」・「仁王経」とともに「護国三部経」の一つとされた。参照したウィキの「金光明経」によれば、『原題は、「スヴァルナ」(suvarṇa)が「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)が「輝き」、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「黄金に輝く教え」の意』とあり、『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる』。この経典の漢訳は、現存するものではインド出身の曇無讖(どんむしん 三八五年~四三三年)が四一二年から四二一年頃にかけて漢訳したものが最も古いらしい。本邦には古くからこの曇無讖訳の「金光明経」が伝わっていたようであるが、その後、八世紀頃に義浄訳の「金光明最勝王経」が伝わり、鬨の聖武天皇がこれを写経して全国に配布、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立』、それらを別に『金光明四天王護国之寺と称』しているという。
「淨嚴律師」浄厳(じょうごん 寛永一六(一六三九)年~元禄一五(一七〇二)年)は江戸中期の真言宗僧。ウィキの「浄厳」によれば、『河内国の出身。新安祥寺流の祖』。但し、『宗派に関しては』、『彼が公式に「如法真言律宗」という呼称を採用したことから、彼を真言律宗中興の人物として同宗の僧侶とする見解もある』。慶安元(一六四八)年に『高野山で出家し』、万治元(一六五八)年、『南院良意から安祥寺流の許可を受けた。畿内において盛んに講筵を開き、また幕府の帰依を受け』て、元禄四(一六九一)年には第五代『将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立した』とある。
「辨天祕訣」弁才天女法の修法が記された浄厳の著作で、正しくは「大辯才天祕訣」。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから画像で視認出来る。私しゃ、読む気には毛頭ならぬが、よろしければ、どうぞ。
「七福神にして、則、北斗七星の眞形(しんぎやう)也」七福神が本地でその垂迹(シンボル)が北斗七星だというのであるが、七福神を北斗七星と結びつける解釈は確かにあるものの、安易な同数対応に過ぎない新しいトンデモ説であると私は思う。その証拠に七福神の中の「福禄寿」と「寿老人」(この二人は同一神ともされる)は、同源らしく孰れも道教では北斗星とは対極に配される南極星(現実には相応する星はない)の化身とされる。実際にもとは六福神だったかも知れぬし、地域によってはこれに一人加わる八福神だってある。そんな融通が利くのであれば、厳然たる北斗七星と強いて対応させる必要など、かえって方便の邪魔なだけであろう。
「天の四七の神」底本ではこの右に『(二十八神)』という編者注がある。
「地の四九の神」底本ではこの右に『(三十六神)』という編者注がある。前もこれも命数を挙げてもいいが、私もここの注の最初に述べ、想山も言っているように、これらは所詮、元は「同一物」である。知りたければ、御自分でお調べあれ。]