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2017/04/06

南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡) 電子化注始動 / (その1)  宗像三女神について・父母について・幼年期から渡米まで


南方熊楠 履歴書
(矢吹義夫宛書簡)

[やぶちゃん注:暫く無沙汰していた(実に四年)熊楠先生の電子化注を行う。まずはかの奇作書簡「履歴書」のそれを行う。

 本作は書簡乍ら、南方熊楠の著作物の一つとして扱われ、自身の履歴と対象への自身の学問的態度を語ったものとして特に重視されるもので、大正一四(一九二五)年一月三十一日(熊楠五十九歳)から翌月初めまで、南方植物研究所の募金を目的として、当時の日本郵船株式会社大阪支店副長であった矢吹義夫(一八八五年~昭和一四(一九三九)年)に宛てて書かれたものである。驚くべき長尺なもので、現在、巻子表装された現物は約八メートルにも及ぶものである。

底本は一九八五年平凡社刊「南方熊楠選集6」を用いる。これは本来なら私のポリシーとして正字で電子化したいところであるが、正字版を所持せず、ネット上の画像でもその全文を今のところ見出し得ないので、新字新仮名の底本のままとする。当初、読み(ルビ)は総て廃除することも考えたが、冒頭の神名など、総て読みを注で附すことを考えると、煩瑣過ぎるので、読みもそのまま( )で附した。底本の〔 〕で挿入された編者注は原則、除去し、必要と思われる場合は、私の注として当該内容を挿入した。私の注は私の躓いた箇所に限って行い、形式段落末に添えた。そこでは一部、一九九一年河出書房新社刊(河出文庫)中沢新一編「南方熊楠コレクション第四巻 動と不動のコスモロジー」(注では「南方熊楠コレクション」と略す)の注及び、優れた南方熊楠現代語訳を公開する個人サイト「南方熊楠のキャラメル箱」の記載を一部で参考にする。因みに後者には本「履歴書」の現代語訳全文も載る。] 

 

履歴書

 大正十四年一月三十一日早朝朝五時前

矢吹義夫様 御侍史

            南方熊楠

                 再拝

 拝復。二十八日付御状三十日朝拝受、近来何故か郵便毎々延着仕り候。先日差し上げし拙考案、会社において御採用相成り侯由、寸志相届き、まことにありがたく存じ奉り侯。

[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション」の注によれば、大正一三(一九二四)年『十一月二十九日付矢吹宛書簡で答えた』「『棉(わた)の神』について」『を指す』とある。これは、矢吹が勤める日本郵船が、大日本紡績連合会の関係者に贈る記念品について意見を求めたのに対するものであったが、例によって熊楠先生はフリーキーに脱線して、矢吹の問うた「棉(綿)の神」なるものは存在しないこと。「棉の神」に代わり得る本邦の神を「大三輪神」と「宗像の三女神」であると結論づける叙述になっている。それに対して返書した矢吹の叙述内容の誤りを以下で指摘しているのである。]

 尊書には第二の考案すなわち三輪の三神と有之(これあり)侯えども、それは匆卒の際の御記憶違いにて、これは宗像(むなかた)の三神に御座候(すなわち安芸の宮島の三神と同体に御座候)。念のためくわしく申し上ぐると、この三神の名は、

  『日本紀』の本文に、㈠田心姫(たこりひめ)、㈡湍津(たきつ)姫、㈢市杵島(いちきしま)姫(宮島を厳島(いつくしま)というはこの第三の女神の名に基づくか。)

  『日本紀』の一書には、㈠瀛津島(おきつしま)姫、㈡湍津姫、㈢田心姫

  また一書には、㈠市杵島姫命(のみこと)、㈡田心姫命、㈢湍津姫命

  また一書には、㈠瀛津島姫命、またの名市杵島姫命、㈡湍津姫命、㈢田霧(たぎり)姫命

とあって、姉妹三神の順序一定せず。ただし三神の名はかわりなし。

『古事記』には、㈠多紀理毘売命、またの御名奥津島比売(おきつしまひめ)命、㈡市寸島(いちきしま)比売命、またの御名狭依(さより)昆売命、㈢多岐都比売命、とあり。

 錯列法でいろいろと三神の順序をおきかえたごとく、種々さまざまにちがいおり候。その上二神名を同一とするあるなど、定まった伝が早く失せ混じたと判り申し候が、とにかく宗像の女工の神はこの三神に御座候。大三輪の神は前状に申し上げ候通り、男神大己貴命と女神玉梓姫命の二神に御座候。これは御採用なかりしと承れば今説くを要せず。

前日小畔(こあぜ)氏より来状あり、貴下小生の履歴を知らんことを求められ候由、これを世に公けにして同情者に訴えらるる由承り候。しかるに、かようのことはすでにたびたび友人ども(杉村楚人冠、河東碧梧桐、故福本日南、田中天鐘道人等)がなし下されたることにて、それぞれその人々の文集に出でおり候が、さしたる効果も無之(これなく)、ただこの人々の名文で書きたる小生の伝記ごときものを読んで畸人など申し伝えられ候のみに止まり、まずは浮(うか)れ節(ぶし)同様の聞き流しに有之(これあり)候。大庭柯公が六年ばかり前、『日本及日本人』に書きたるものには、宮武外骨と故小川定明と小生を大正の三奇才兼三畸人と有之しと覚え候。また二年ばかり前、田中天鐘(逸平、この人は故塩谷宕陰の孫の由)が、『日本及日本人』に小生訪問の記を出だされ候。それには老子を訪ねた想いを懐く由を記され申し候。これらはいずれも小生を通り一遍に観察せし人々の出たらめにて、小生は決して左様不思議な人間に無之侯。左に小生の履歴を申し上げ候。

[やぶちゃん注:「小畔(こあぜ)氏」小畔四郎(明治八(一八七五)年~昭和二六(一九五一)年)は南方熊楠の門弟。元陸軍中尉で退役後に近海郵船神戸支店長・内国通運専務・石原汽船顧問などを歴任したことから矢吹と関係があった。熊楠とは明治三五(一九〇二)年に趣味としていた蘭の採集観察のために那智に赴いた際、那智の滝の下で偶然出逢った熊楠に声をかけられたことによる。熊楠第一の高弟として熊楠の粘菌研究を助け、生活上の援助も行ない、熊楠は彼に「粘菌大王」の称号を贈っている。なお、小畔が大正一五(一九二六)年に摂政宮(後の昭和天皇)に粘菌標本を献上し、それが後の昭和四(一九二九)年の田辺湾での熊楠の昭和天皇への御進講へと繫がった(以上は「南方熊楠コレクション」の注及び「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載に拠った)。

「杉村楚人冠」(そじんかん 明治五(一八七二)年~昭和二〇(一九四五)年)は南方熊楠と同じ和歌山県生まれで親しかった。朝日新聞社記者・随筆家・俳人。本名は杉村廣太郎。朝日新聞社調査部長・取締役・副社長・相談役等を歴任した。ここは参照したウィキの「杉村楚人冠」に載る、明治四二(一九〇九)年五月、『旧知の間柄であった南方熊楠のことを書いた「三年前の反吐」を『大阪朝日新聞』に掲載。「熊楠の借家が異臭に満ちているのは、』三『年前に酔って吐いた反吐をそのままにしてあるからだった」という逸話や、中学時代、しばしば喧嘩相手に反吐を吐きかけて攻撃したという「武勇伝」を紹介。「好きな時に反吐を出せる」という熊楠の奇妙な特技は、この一文によって広く知られることとなった』というエピソードやその流布を指すようである。

「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は福岡に生まれの新聞記者・政治家。ウィキの「福本日南」によれば、明治三一(一八九八)年から『翌年にかけてパリ・ロンドンに滞在しており、ロンドンにおいて南方熊楠と出会う。この時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を』明治四三(一九一〇)年七月二十一日から二十六日の『大阪毎日新聞』に連載、これによって『熊楠を日本に初めて紹介したとされる』とある。

「田中天鐘道人」「逸平、この人は故塩谷宕陰の孫の由」田中逸平(いっぺい 明治一五(一八八二)年~昭和九(一九三四)年)は東京生まれで、陸軍通訳(日露戦争時)で日本人のイスラム学の先駆者。自身もイスラム教徒となった(イスラム教への帰依は大正一三(一九二四)。「天鐘道人」は彼の号。中国人教徒とともにメッカに巡礼、翌年、大東文化学院教授となった。「塩谷宕陰」(文化六(一八〇九)年~慶応三(一八六七)年)は「しおのやとういん」と読み、江戸末期の儒学者。江戸愛宕山下に生まれ、名は世弘。文政七(一八二四)年に昌平黌に入門、遠江掛川藩主太田氏に仕え、嘉永六(一八五三)年のペリー来航の際には献策を行い、海防論を著した。文久二(一八六二)年には昌平黌教授に抜擢され、修史に携わった(ここはウィキの「塩谷宕陰」に拠った)

「浮(うか)れ節(ぶし)」巷間の俗謡。流行歌。

「大庭柯公」(おおばかこう 明治五(一八七二)年~?)は山口生れの新聞記者。本名は景秋。明治三九(一九〇六)年に『大阪毎日新聞』へ入社、以後、『東京朝日新聞』や『読売新聞』に移り、ロシア通の記者として活躍、次第に社会主義に接近し、革命後のロシア視察のために大正一〇(一九二一)年に訪露したが、同年七月十五日のチタ発の通信を最後に消息を絶った。

「日本及日本人」思想家三宅雪嶺が主宰した国粋主義色の強い言論雑誌。明治四〇(一九〇七)年から昭和二〇(一九四五)年まで政教社から出版された。南方熊楠も執筆陣の一人として投稿しており、ウィキの「日本及日本人」によれば、同誌の一般募集による俳句欄「日本俳句」は河東碧梧桐が選者で俳論や随筆も載せている。

「小川定明」(ていめい 安政二(一八五五)年~大正八(一九一九)年)は新聞記者。江戸詰の尾張藩士の子として江戸麴町の藩邸で生まれた。名古屋藩学校仏語科に学び、明治一二(一八七九)年、甲府で『かなめ新聞』を主宰。『峡中新報』『静岡新聞』の記者を経て、政治運動に参加、明治十九年には旧自由党員らの政府転覆計画(静岡事件)で逮捕されている。『中外電報』記者を経て明治二十五年に『大阪朝日新聞』に入社、新鮮な文章と観察で読者に人気があり、名物記者として知られた。特に戦地報道に優れ、台湾出兵・日清戦争・義和団事変・日露戦争などに従軍したが、明治三十五年に『大阪朝日新聞』を退社、その後は千葉県成東町の鉱泉旅館の下男や北海道の孤児院の爺やとなり、漂白の人生を送った。ここに書かれている通り、その奇行ぶりから南方熊楠・宮武外骨(慶応三(一八六七)年~昭和三〇(一九五五)年:作家・明治文化史家。大阪で『滑稽新聞』を発行し、風俗史・政治裏面史に造詣が深く、古川柳・浮世絵の研究者としても知られ、晩年は日本新聞史の研究に尽力した)と「三奇才三奇人」として並び称される。著書に「新聞記者腕競べ」(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」等に拠った)。]

 小生は慶応三年四月十五日和歌山市に生まれ候。父は日高郡に今も三十家ばかりしかなき、きわめて寒村の庄屋の二男なり。十三歳の時こんな村の庄屋になったところが詮方(せんかた)なしと思い立ち、御坊町と申すところの豪家へ丁稚(でっち)奉公に出る。沢庵漬を出し来たれと命ぜられしに、力足らず、夜中ふんどしを解き梁に掛けて重しの石を上下し、沢庵漬を出し置きし由。その後、和歌山市に出で、清水という家に久しく番頭をつとめ(今の神田錯蔵氏妻君の祖父に仕えしなり)、主人死してのちその幼子を守り立て、成人ののち致任して南方(みなかた)という家へ入聟(いりむこ)となり候。この南方は雑賀(さいが)屋と申し、今も雑賀屋町と申し、近ごろまで和歌山監獄署ありしその辺がむかし雑雑賀の宅なりしなり。

[やぶちゃん注:「慶応三年四月十五日」グレゴリオ暦一八六七年五月十八日。

「父は日高郡に今も三十家ばかりしかなき、きわめて寒村の庄屋の二男」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『和歌山県日高郡矢田村(現川辺町)字入野』(安珍・清姫伝説で知られる道成寺があり、蜜柑でも知られるこの川辺町(ちょう)は二〇〇五年五月に中津村・美山村と合併して日高川町となっており、この入野は現在は和歌山県日高郡日高川町入野である。ここ(グーグル・マップ・データ))『向畑庄兵衛の二男』とある。

「御坊町」(ごぼうちょう)は現在の和歌山県御坊(ごぼう)市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「清水」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『清水平右衛門。和歌山市の豪商』とする。

「雑賀屋町」(さいかやまち)は「南方熊楠コレクション」の注によれば、『和歌山城下の町人町。板問屋、廻船問屋などを手広く営んだ豪商の雑賀屋(安田)長兵衛の雑賀屋新田に由来する町名(『角川日本地名大辞典30和歌山県』)とある。ここは熊楠の思い違いか』と注する。最後の部分は南方家と雑賀長兵衛の関係の錯誤を言っているものか。

「神田鐳蔵」(かんだらいぞう 明治五(一八七二)年~昭和九(一九三四)年)は実業家。愛知県出身。名古屋商業卒。名古屋で株式仲買人となり、明治三二(一八九九)年に上京して「紅葉(もみじ)屋」を創設。証券業を営み、公債の海外売出などで巨利を得た。大正七(一九一八)年には神田銀行を創立したが、昭和二(一九二七)年の金融恐慌によって閉鎖に追い込まれた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

鴻ノ池の主人、雑賀屋へ金の屏風を十二枚とか借りに来たりしに、雑賀屋主人二枚しか蔵せずとことわりし。鴻ノ地主人怒りて、雑費屋は予に辱(はじ)かかせんとて佯(いつは)りをいい、あるものをかくしてなしという、という。使い帰りて告げしに、雑賀屋主人、鴻ノ地主人のいわゆる金屏風とはどんなものか、予の方にある金屏風はこれなり、とて見せしは、純金の板にて屏風を作りしなり。鴻ノ池より来たりし使い、これを見て大いに驚き、わが家主人の求むるところは金箔金泥で装うたる屏風なりということを聞いて、そんなものならいくらもあり、幾十枚でも持ち去れとて貸し与えしという。

[やぶちゃん注:「鴻ノ池」現在の鴻池財閥の前身、江戸時代の代表的豪商の一つとして代々受け継がれてきた大坂両替商鴻池家(今橋鴻池。当主名は鴻池善右衛門)のことか。]

 その雑賀屋の末衰えて老母と娘一人のこり(男子ありしも蚤世(そうせい[やぶちゃん注:「蚤」には「早い」の意がある。])す、この男子は士族に伍して藩学に学びしなり。小生は分からぬなりにこの男子の遺書を読んで学問を始めたり)、家朽ち屋根傾きて何ともならず。この娘に聟ありしが、それも死す。しかるに、小生の亡父弥右衛門の外にこの家の整理をなすものなしとて、後夫に望まる。そのころは農家の子がむやみに商人になること能わざりし制度ゆえ、亡父は商売を始め独立せんにはこの家に入聟にゆくより外に手段なかりしゆえ、入聟となり、家政を整理すとて何もかも売り払いしに、十三両ばかり手中にのこる。仏檀をも売らんとせしに、その妻手を合わせてなきしゆえこれのみ売らず。この仏檀に安置せる大日如来像は非常の名作にて、拙弟宅に今のこりし旧物とてはこれのみなり。さて、亡父家政の整理して商売にかかりしも、思わしく行かず。妻は前夫とのあいだに女子一人、亡父とのあいだに男子二人ばかりありしと聞くが、小生は知らず。かくて思わしからぬ営業中に妻もその母も死に、女子はいずれへか逐電(ちくでん)し、男子二人をのこされて亡父の迷惑一方ならず。そのころ亡父が毎度通る町に茶碗屋ありて、美わしき女時々その店に見える。この家の主人の妻の姪なり。その行いきわめて正しかりしゆえ、亡父請うて後妻とせり。これ小生の亡母なり。この亡母きわめて家政のうまき人にて、亡父に嫁し来たりてより身代追い追いよくなり、明治十年[やぶちゃん注:一八七七年]、西南の役ごろ非常にもうけ、和歌山のみならず、関西にての富家となれり。もとは金物屋なりしが、明治十一年ごろより米屋をも兼ね、後には無営業にて、金貸しのみを事とせり。父の前妻子はいずれも小生生まれぬ前に死に失せ、後妻に子多かりしが、成長せしものは男子四人と女子一人なり。

 小生は次男にて幼少より学問を好み、賓籍を求めて八、九歳のころより二十町、三十町[やぶちゃん注:二キロ強から三キロメートル強。]も走りありき借覧し、ことごとく記臆[やぶちゃん注:「臆」はママ。]し帰り、反古(ほご)紙に写し出し、くりかえし読みたり。『和漢三才図会』百五巻を三年かかりて写す。『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』等の書を十二歳のときまでに写し取れり。また、漢学の先生について素読を学ぶに『文選(もんぜん)』中の難読たる魚へんや木へんのむつかしき文字で充ちたる「江の賦」、「海の賦」を、一度師匠の読むを聞いて二度めよりは師匠よりも速やかに読む。明治十二年[やぶちゃん注:一八七九年。熊楠満十二歳。以降、年齢は満で注する。]に和歌山中学校できてそれに入りしが、学校にての成蹟[やぶちゃん注:「蹟」はママ。後出も同じ。]はよろしからず。これは生来事物を実地に観察することを好み、師匠のいうことなどは毎々間違い多きものと知りたるゆえ、一向傾聴せざりしゆえなり。明治十六年に中学を卒業せしが学校卒業の最後にて、それより東京に出で、明治十七年に大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成蹟よろしからず。十九年に病気になり、和歌山へ帰り、予備門を退校して、十九年の十二月[やぶちゃん注:熊楠十九歳。]にサンフランシスコヘ渡りし。商業学校に入りしが、一向商業を好まず。二十年にミシガン州の州立農学に入りしが、耶蘇(やそ)教をきらいて耶蘇教義の雑りたる倫理学等の諸学課の教場へ出でず、欠席すること多く、ただただ林野を歩んで、実物を採りまた観察し、学校の図書館にのみつめきって図書を写し抄す。

[やぶちゃん注:「和漢三才図会」江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって、明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた百科事典。全百五巻八十一冊、約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)完成、大坂杏林堂から出版された。因みに、私はずっと昔、同書の水族の部八巻分をこちらで電子化注している。私のその仕儀は南方熊楠を意識したものでも、あやかったものでもないが、ともかくも南方熊楠には異様な近親感を持っていることは事実である。

「本草綱目」中国本草学史上、最大分量と最高の質(記述内容)持った本草書で、明の医師で本草学者の李時珍(一五一八年~一五九三年)が一五七八年に完成させ、一五九六年に南京で上梓された。本邦にはその初版が数年以内に輸入され、本草学の基本書として非常に大きな影響を及ぼし、慶長一二(一六〇七)年に林羅山が長崎で本書を入手、駿府に滞在していた徳川家康に献上、これが機縁となって家康は本格的な本草研究を進めたことでも知られる名著である。先の「和漢三才図会」の本草関係部分は概ね本書に(かなり無批判に)基づいている。

「諸国名所図会」という書がある訳ではなく、概ね、江戸末期に刊行された江戸・畿内を始めとして、各藩や在野の武士や学者が諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴・各地の交通事情を記し、時に写実的な風景画を多数添えて出版した通俗地誌群を総称する謂い方である。一般に嚆矢は安永九(一七八〇)年刊の「京名所図会」(秋里籬島(あきさとりとう)著・竹原春朝斎(たけはらしゅんちょうさい)画・全六巻十一冊)とされ、「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」「二十四輩名所図会」などの外、「日本山海名産図会」の物産系のそれも出版され、その中でも「江戸名所図会」(全七巻二十冊/一~三巻・天保五(一八三四)年刊/後半四~七巻・天保七(一八三六)年刊・江戸日本橋から始まって江戸各町についての由来や名所案内を記し、近郊の武蔵野・川崎・大宮・船橋などにも及ぶ。神田の町名主で考証家であった斎藤長秋(ちょうしゅう:本名・幸雄)から子の莞斎(かんさい:本名・幸孝)、その子の月岑(げっしん:本名・幸成)と三代に亙って書き継がれたもので、長谷川雪旦の挿図も有名)はこの手の総合地誌としては白眉である。

「大和本草」儒学者で本草学者でもあった貝原益軒(かいばらえきけん 寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が。宝永七(一七〇九)年に刊行された本草書であるが、明治になって生物学や農学の教本が西洋から輸入されるまでは、日本博物学史上最高峰の生物学書・農学書とも言える。遅々として進まぬが、私は貝原益軒「大和本草」より水族の部の電子化注も行っている。

「文選(もんぜん)」六朝時代の梁の昭明太子の編で五百三十年頃に成立した詩文選集。全六十巻。周から梁に至約千年間に亙る期間んも詩文を選んだもので、収録された作者は百三十人、作品は七百六十編。後の唐の李善注を始めとして多くの注釈が出、本邦にも早くに伝わって王朝文学に大きな影響を与えた。

「江の賦」「海の賦」奇怪な博物地誌「山海経(せんがいきょう)」で知られる、西晋・東晋の文学者郭璞(かくはく 二七六年~三二四年)の書いた二つでセットとなる博物学的賦(漢代に形成された韻文文体の一つで、抒情詩的要素が少なく、事物を羅列的に描写する)。「江賦」は「長江」を主題としたもので、その流域に棲息する多彩な水生生物を、実在種を比定出来るから全くの想像上の生物としか思えぬものまで、多数挙げる。「海賦」はその海洋版であるが、「江賦」の方がよく知られ、郭璞の代表作とされている。

「十九年に病気になり、和歌山へ帰り」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『「疾を脳漿に感ずるをもって」とも表現するように激しい頭痛』を主訴とするものので、日記によれば、明治一九(一八八六)年の『二月二十四日、父に伴われ』てようよう『帰郷の途に』就いたが、『この日も「朝二番汽車に乗り出立すべき処、頭痛劇きにより延引す」とある』とする。

「ミシガン州の州立農学」現在のミシガン州立大学(Michigan State University)の農学部の前身であろう。]

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