譚海 卷之二 和州春日神官葬禮の事
和州春日神官葬禮の事
○和州春日の社の神主等卒去の時は、先(まづ)仲間にて神道の祭儀をもちて葬送の禮をなして、其後其人所持の扇子を興福寺へおくれば、興福寺にて此扇子をうづめ、葬禮を修し戒名を書(かき)て來(く)る。因て春日の神主の墓碑には、神道の位記と佛家の戒名を合せ誌(し)するゆゑ、名字甚(はなはだ)長く書(かか)るゝ事也。
[やぶちゃん注:「和州春日の社」現在の奈良県奈良市春日野町(かすがのちょう)にある春日大社。ウィキの「春日大社」によれば、社伝では神護景雲二(七六八)年に『藤原永手が鹿島の武甕槌命』(たけみかずちのみこと)及び、現在の千葉県香取市香取の香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)と、現在の大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡(ひらおか)神社に『祀られていた天児屋根命』(あめのこやねのみこと)と比売神(みめがみ)を併せて、御蓋山(みかさやま)の麓に『四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている』とあり、また、『藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺』(藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願って鎌足発願(ほつがん)の釈迦三尊像を本尊として天智天皇八(六六九)年に山背国山階(現在の京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)を起源とする、現在の奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗寺院)『との関係が深く』、弘仁四(八一三)年、『藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった』。十一世紀末からは『興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった』とある(下線やぶちゃん)。]