甲子夜話卷之三 29 日高川の舊蹟
3-29 日高川の舊蹟
申樂喜多十太夫の實父は紀州の人なり。十太夫一とせ故鄕に行き、歸て紀州のこと話しとき、吾業のことなれば、日高川道成寺を往見たりしに、道成寺は今もあれど日高川は名のみにてなくなりぬと言き。其後高木奚雄【御數寄屋坊主。畫を善す】の物語に、渠もまた紀へ行しと言まゝ道成寺のことを問へば、寺は少し高き處にありて、門前を日高川と申なり。然ども今は名のみ殘り皆田となる。昔川にてありしと云。田の中に蛇塚(ジヤヅカ)とて一里塚のごときものあり。又今日高川といふは、寺より程隔たりて、小松原村と云境に添ひ流るゝ川にて、幅は十間もあるベく、底は小石にて、水淺けれど舟もて渡る。徒涉もすべけれど、水勢はやくして自由ならずと話き。日高川道成寺は謠曲に名高く聞へたれば、古今の替りたるを知るべし。又謠曲に、此國の白拍子が、道成寺の鐘の供養に參るとて、月は程なく入しほの、煙淸くる小松原、急ぐ心かまだ暮ぬ、日高の寺にぞ着にける、と言たるを以見れば、今の日高川の處、この文句には協へり。然ば謠曲は、地勢變革の後に作れるものか。
■やぶちゃんの呟き
「舊蹟」の「蹟」は底本のママ。
「申樂喜多十太夫」、能シテ方である喜多流を調べると、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能がいる。後者か。識者の御教授を乞う。
「歸て」「かへりて」。
「話しとき」「はなせしとき」。
「吾業」「わがわざ」。
「往見たりしに」「ゆきみたりしに」。
「道成寺」現在の和歌山県日高郡日高川町鐘巻にある天台宗天音(てんのん)山道成寺。ウィキの「道成寺」によれば、一説に大宝元(七〇一)年、『文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする)。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から』八『世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている』。一九八五『年に着手した、本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である』とある。
「日高川は名のみにてなくなりぬ」日高川は現在の和歌山県中部を流れるが、急流で「蛇」行が多く、また夏季の雨量も多いことから、古くから流域に水害を齎してきた。ここで述べているのも、後の高木の言を見るに、「門前を日高川と申(まうす)なり。然(しかれ)ども今は名のみ殘り」、「皆」、「田となる。「昔」、「川にてありしと云」ふとあるので、そうした氾濫原の中の、最も道成寺寄りの旧流域(或いは分流)を「古えの日高川」と認識しての謂いであろう。
「高木奚雄」不詳。
「渠」「かれ」。彼。
「行し」「ゆきし」。
「言まゝ」「いふまま」。
「蛇塚(ジヤヅカ)」こちらのページにある「清姫蛇塚」であろう。リンク先は解説や写真・地図が完備している。
「日高川といふは、寺より程隔たりて、小松原村と云境に添ひ流るゝ川にて」今現在は最も近い位置でも川岸(右岸)まで九百メートルを越える。
「十間」約十八メートル。現在は最も狭い部分でも六十メートルを越え、氾濫原を含めた広い箇所では二百メートルを越える。
「徒涉」「かちわたり」と訓じておく。
「話き」「はなしき」。
「日高川道成寺は謠曲に名高く聞へたれば」私はかの道成寺伝説のフリークでサイトにも「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chronicl」というのを設けているほどである。未見の方は是非どうぞ!
「謠曲に、此國の白拍子が、道成寺の鐘の供養に參るとて、月は程なく入しほの、煙淸くる小松原、急ぐ心かまだ暮ぬ、日高の寺にぞ着にけると言たる」謡曲「道成寺」も私の「道成寺鐘中 Doujyou-ji Chronicl」のこちらで台本形式に書き改めたものを公開している。ここは前シテが登場した直後の以下の前シテ白拍子の謠部分。
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〽月は程なくいりしほの
月は程なく入り汐の
煙滿ち來る小松原
いそぐ心かまだ暮れぬ
ひたかのてらに着きにけり
日高の寺に着きにけり
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「協へり」「かなへり」。「叶っている」の意。この道行は明らかに後シテの鬼女である以上、伝承の清姫の体験行動をトレースして日高川から道成寺に向かったと読まねばならぬ。それが、道成寺の真ん前の直近に日高川がセットされてとしたら、それでは短過ぎて、とても道行にはならぬ。それを静山は、当時の、流域が有意に寺から離れた位置にある日高川であると解釈、認識しているのである。非常に共感出来る見解と私は思う。