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2017/04/24

柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その1)

 

 妖魅の會合

 

 泉鏡花が「魅室」といふ題で書いた支那の話は「廣異記」に出てゐる。唐の開元中の話で、戸部令史の妻が姿色あり、不思議な病ひにかゝつたが、その病源を知ることが出來ない。令の家には一頭の駿馬が居つて、いくら飼葉(かひば)をやつても次第に瘦せて行く。令が鄰りに住む胡人の術士にこの話をすると、彼は事もなげに笑つて、馬は百里を行けば疲れる、況んや千里を行つて瘦せなかつたら寧ろ不思議だ、と云つた。令の家には他に馬に乘るやうな人が居らぬ。そんな筈はないと云つて承知しなかつたところ、胡人は更に驚くべき事實を語つた。君が當直で家に居らぬ夜、細君が乘つて出る、君はそれを知らぬのだ、もし僕の云ふ事が信ぜられなかつたら、當直の晩にそつと還つて樣子を見るがいゝ、といふのである。令は半信半疑ながら、その言に從ふと、果して夜になつて病妻は起き出し、粧ひを凝らして馬に鞍を置かせ、どこかへ出かける模樣である。婢は箒に跨がつてこれに隨ふ。忽ち空に舞ひ上つて見えなくなつた。令史大いに騷いて翌日胡人の許に行き、成程お説の通りだが、どうしたらよからうかと相談した。もう一晩樣子を見ろと云はれたので、その夜もひそかに歸り、幕の中に隱れて居つた。妻は昨夜の如く出かけようとして、そこらに誰か居りはせぬか、と問ふ。婢は箒に火をつけて四邊を照らす。令は狼狽の餘り大甕の中にもぐり込んだ。妻が乘る馬には事缺かぬが、婢の跨がるべき箒は燃してしまつて無い。何でもあるものにお乘り、箒に限つたことはないよ、と云はれて婢は大甕に乘り、馬のあとから空中に舞ひ上る。令史は恐ろしさに身じろぎもせずにゐると、やがて到著したのは山頂の林間であつた。このあたり正に支那のブロツケン山の概がある。群飮するもの七八輩、大いに歡を盡して散ずるに當り、婢は甕の中の令史を見付け出した。妻も婢も一杯機嫌で主人を引き出し、馬と甕とに乘つて去る。取り殘された令史が夜明けになつて見𢌞すと、もう誰も居らず、昨日の焚火がくすぶつてゐるに過ぎぬ。とぼとぼ步いて一月がかりで歸つたが、令の顏を見ると妻は驚いて、こんなに長いことどこへ行つていらしつたのですと云ふ。そこはいい加減に答へて置いて、また胡人のところへ相談に行つた。胡人はうなづいて、よろしい、今度出かけた後で施すべき手段があると云ひ、次の機會を待つて盛に火を焚きはじめた。やがて空中に憐れみを乞ふ聲が聞えたが、ぱたりと落ちて來たのは一羽の蒼鶴であつた。鶴は火の中に落ちて焚死し、妻の病ひはそれつきりよくなつた。令の妻を魅した者の正體は不明であるが、天狗が屎鴟(くそとび)となつて死ぬやうに、遂に蒼鶴となつて最期を遂げたものであらう。

[やぶちゃん注:先に本文の語注をしておく。

「唐の開元」七一三年から七四一年。これは玄宗の治世の前半で、彼が積極的に良政を行い、特に「開元の治」と呼ばれた唐の絶頂期であった。

「戸部」(こぶ)は尚書省に属した六部(他に吏部・礼部・兵部・刑部・工部)の一つで、戸籍・土地管理・租税や官人俸給などの財務関連の行政を司掌した官庁。

「令史」(れいし)は中央官庁の事務官の称。

「百里」唐代の一里は五五九・八メートルであるから、五十六キロメートル弱。

「千里」五百六十キロメートル弱。

「ブロツケン山」ドイツ中部のハルツ山地の最高峰ブロッケン山(Brocken)。標高千百四十一メートル。古代ケルト時代からの伝承がキリスト教の侵入によって変形された、年に一度、魔女たちが集まって饗宴(「ヴァルプルギスの夜」(Walpurgisnacht)と呼ぶ)山とされる。ゲーテの戯曲「ファウスト」で人口に膾炙する。、太陽光が背後から射し、影の側にある雲や霧の粒子によってその光が散乱されて、見る人の映じた影の周囲に虹と似た光の輪となって現れる「ブロッケンの妖怪」(ブロッケン現象)が起こりやすいことでも知られる。ここは夜に妻と下女が空中を飛び去って山頂でオーギーを開くこと、下女のまたがるのが箒であることなど、明らかにそうした西洋の魔女伝説の影響が見てとれる唐代伝奇と言える。

「蒼鶴」「サウカク(ソウカク)」と読んでおく。因みに、東洋文庫版の前野直彬氏の訳では『黒い鶴』とある。

「天狗が屎鴟(くそとび)となつて死ぬ」飛翔する妖怪であった天狗は、古くは、下級の烏天狗などを見ても判る通り、鳥類の変化(へんげ)として理解され、鷲・鷹や鳶(とび)の類の延長上に措定された想像上の生物とされた。「屎鴟」(くそとび:糞鳶)は現在ではタカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus の別称ともされる。

『泉鏡花が「魅室」といふ題で書いた支那の話』は鏡花四十歳の、明治四五(一九一二)年に書いた中国伝奇小説集「唐模様」の中の一章「魅室(みしつ)」である。一九四二年刊の岩波半版全集第二十七巻「小品」に載るそれを以下に電子化する。底本は総ルビであるが、読みは振れると判断した一部に限った。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 

      魅室

 

 唐の開元年中の事とぞ。戸部(こぶ)郡の令史(れいし)が妻室(さいしつ)、美にして才あり。たまたま鬼魅(きみ)の憑(よ)る處となりて、疾病(やまひ)狂(きやう)せるが如く、醫療手を盡すといへども此(これ)を如何ともすべからず。尤も其の病源(びやうげん)を知るものなき也。

 令史の家に駿馬(しゆんめ)あり。無類の逸物(いちもつ)なり。恆に愛矜(あいきん)して芻秣(まぐさ)を倍(ま)し、頻(しきり)に豆を食(は)ましむれども、日に日に瘦せ疲れて骨立(こつりつ)甚だし。擧家(きよか)これを怪(あやし)みぬ。

 鄰家(りんか)に道術の士あり。童顏白髮にして年久しく住む。或時談(だん)此の事ことに及べば、道士笑うて曰く、それ馬は、日に行くこと百里にして猶(なほ)羸(つか)るゝを性(せい)とす。況や乃(いま)、夜(よる)行くこと千里に餘る。寧ろ死しせざるを怪(あやし)むのみと。令史驚いて言ふやう、我が此の馬はじめより厩(うまや)を出(いだ)さず祕藏せり。又家(いへ)に騎るべきものなし。何ぞ千里を行くと云ふや。道人の曰く、君(きみ)常に官に宿直(とのゐ)の夜(よ)に當りては、奧方必ず斯(こ)の馬に乘つて出でらるゝなり。君更に知りたまふまじ。もしいつはりと思はれなば、例の宿直(とのゐ)にとて家を出でて、試みにかへり來て、密かに伺うて見らるべし、と云ふ。

 令史、大(おほい)に怪(あやし)み、卽ち其の詞(ことば)の如く、宿直の夜(よ)潛(ひそか)に歸りて、他所(たしよ)にかくれて妻つまを伺ふ。初更に至るや、病める妻なよやかに起きて、粉黛盛粧(ふんたいせいしやう)都雅(とが)を極め、女婢(こしもと)をして件(くだん)の駿馬を引出(ひきいだ)させ、鞍を置きて階前(かいぜん)より飜然(ひらり)と乘る。女婢(こしもと)其の後(しりへ)に續いて、こはいかに、掃帚(はうき)に跨(またが)り、ハツオウと云つて前後して冉々(ぜんぜん)として雲に昇り去つて姿を隱す。

 令史少からず顚動(てんどう)して、夜明(よあ)けて道士の許に到り嗟歎(さたん)して云ふ、寔(まこと)に魅(み)のなす業(わざ)なり。某(それがし)將(はた)是(これ)を奈何せむ。道士の曰く、君乞ふ潛(ひそか)にうかゞふこと更に一夕(ひとばん)なれ。其の夜(よ)令史、堂前の幕の中(なか)に潛伏して待つ。二更に至りて、妻例の如く出でむとして、フト婢(こしもと)に問うて曰く、何を以つて此のあたりに生(いき)たる人の氣(き)あるや。これを我が國にては人臭(ひとくさ)いぞと云ふ議(こと)なり。婢(こしもと)をして帚(はうき)に燭(ひとも)し炬(たいまつ)の如くにして偏(あまね)く見せしむ。令史慌て惑ひて、傍(かたはら)にあり合ふ大(おほい)なる甕(かめ)の中に匐隱(はひかく)れぬ。須臾(しばらく)して妻はや馬に乘りてゆらりと手綱(たづな)を搔繰(かいく)るに、帚は燃(も)したり、婢(こしもと)の乘るべきものなし。遂に件(くだん)の甕に騎(の)りて、もこもこと天上(てんじやう)す。令史敢へて動かず、昇ること漂々(へうへう)として愈々高く、やがて、高山(かうざん)の頂(いたゞき)一(いつ)の蔚然(うつぜん)たる林(はやし)の間(あひだ)に至る。こゝに翠帳(すゐちやう)あり。七八人(しちはちにん)群(むらがり)飮むに、各(おのおの)妻を帶(たい)して並び坐して睦(むつま)じきこと限(かぎり)なし。更闌(かうた)けて皆分れ散る時、令史が妻も馬に乘る。婢(こしもと)は又其の甕に乘りけるが心着(こゝろづ)いて叫んで曰く、甕の中に人あり。と。蓋(ふた)を拂へば、昏惘(こんまう)として令史あり。妻、微醉(ほろゑひ)の面(おもて)、妖艷無比(えうえんむひ)、令史を見て更に驚かず、そんなものはお打棄(うつちや)りよと。令史を突出(つきだ)し、大勢一所に、あはゝ、おほゝ、と更に空中に昇去(のぼりさ)りぬ。令史間(ま)の拔けた事(こと)夥(おびたゞ)し。呆(あき)れて夜(よ)を明(あか)すに、山深うして人を見ず。道を尋ぬれば家を去ること正(まさ)に八百里程(りてい)。三十日を經て辛うじて歸る。武者ぶり着いて、これを詰(なじ)るに、妻、綾羅(りようら)にだも堪へざる狀(さま)して、些(ちつ)とも知らずと云ふ。又實(まこと)に知らざるが如くなりけり。

 

   *

少し語注すると、「初更」は現在の午後七時又は八時からの二時間で戌の刻に同じい。「都雅」とは雅びやかなことで、「冉々」は次第に進んでいくさま、「二更」は午後九時又は午後十時からの二時間で亥の刻、「八百里程」は四百四十八キロメートル弱。「綾羅(りようら)にだも堪へざる狀(さま)して」は高級な軽い綾絹や薄絹を羽織ってでさえその重みを持ちこたえることが出来ない、則ち、そのような批難の言葉に耐えられぬという風に、と言う意味で鏡花が好んだ表現である。

 ご覧の通り、原話(後掲)の後半部を完全にカットしていて、魅入られて妖女となった妻に「そんなものはお打棄(うつちや)りよ」と鏡花らしい一言をコーダとして言わせて実に慄然且つ極美である。

 原話は「廣異記」の「十」の「戸部令史妻」。以下に示す。

   *

唐開元中、部令史妻有色、得魅疾而不能知之。家有駿馬、恒倍芻秣而瘦劣愈甚。以問鄰舍胡人、胡亦術士、笑云、「馬行百里猶勁、今反行千里餘、寧不瘦耶。」。令史言、「初不出入、家又無人、曷由至是。」。胡云、「君每入直、君妻夜出、君自不知。若不信、至入直時、試還察之、當知耳。」。令史依其言、夜還、隱他所。一更、妻做靚妝、令婢鞍馬、臨階御之。婢騎掃帚隨後、冉冉乘空、不復見。令史大駭。明往見胡、瞿然曰、「魅、信之矣。爲之奈何。」。胡令更一夕伺之。

其夜、令史歸堂前幕中。妻頃復還、問婢、「何以有生人氣。」。令婢以掃帚燭火、遍然堂廡。令史狼狽入堂大甕中。須臾、乘馬復往。「適已燒掃帚、無復可騎。」。妻云、「隨有即騎、何必掃帚。」。婢倉卒、遂騎大甕隨行。令史在甕中、懼不敢動。須臾、至一處、是山頂林間、供帳簾幕、筵席甚盛。群飲者七八輩、各有匹偶。座上宴飮、合昵備至、數更後方散。婦人上馬、令婢騎向甕。婢驚云、「甕中有人。」。婦人乘醉、令推著山下。婢亦醉、推令史出、令史不敢言、乃騎甕而去。

令史及明都不見人、但有餘煙燼而已。乃尋徑路、崎嶇可數十里、方至山口。問其所、云是閬州、去京師千餘里。行乞辛勤、月餘、僅得至舍。妻見驚問、「久之何所來。」。令史以他答。復往問胡、求其料理。胡云、「魅已成、伺其復去、可遽縛取、火以焚之。」。聞空中乞命、頃之、有蒼鶴墮火中焚死。妻疾遂愈。

   *]

 

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