譚海 卷之二 河州交野郡王仁墳の事
河州交野郡王仁墳の事
○河内國交野郡藤坊と云(いふ)處に大なる磐石(ばんじやく)あり。上古王仁(わに)の墓なるよし、水戸光圀卿御糺しありて、王仁博士墓と云(いふ)文字を碑に刻し、石の前に建られたり。此石深更には聲を發しけるとて、里人恐(おそれ)て夜は此あたりへかよひ侍らず、泣石(なきいし)といひならはせり。石の大さ四尺ばかりにして駁蘚を生(しやうじ)たり、千歳(せんざい)の石いと珍しき事也。
[やぶちゃん注:
「交野郡」(かたのこほり)は旧河内国及び大阪府にかつてあった郡。現在の大阪府の東北端に当たる。
「藤坊」現在の大阪府枚方(ひらかた)市藤阪。以下の王仁の墓は同所に現存する。
「王仁」(わに 生没年不詳)は百済から日本に渡来して「千字文」と「論語」を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物。「日本書紀」では「王仁」、「古事記」では「和邇吉師(わにきし)」と表記されてある。伝承では百済に渡来した中国人であるとされ、この場合は姓である「王」から楽浪郡の「王氏」とする見解があるが、王仁が伝えたとされる「千字文」が、王仁の時代には成立していないことなどから、史料解釈上、実在を疑問視する説も多い。詳しくは参照したウィキの「王仁」をどうぞ。
「此石深更には聲を發しける」これは頗る面白いではないか。そもそもが神道好きで、仏像を破壊するのが大好きだった変態ナショナリストのコウモン野郎が、渡来人とされる王仁を、更には本当に彼の墓なのかも判らずに、安易に石碑なんか建てるから、こんな怪異が出来(しゅったい)したんじゃないのかい?! 或いは「俺は王仁じゃない!」と主張するためにその墓の中の誰かは叫んでいるのかも知れぬ。そう考えた方が合理的だ! ウィキの「王仁」を御覧な。そもそもが王仁の墓なんて呼ばれるずっと以前からの伝承では、この藤坂村の『の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる』二『個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の』二人(アテルイとモレ)を『京都へ連行したが』、『帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある』とあるじゃないか! アイヌの怨念が叫ばせてるんだ! きっと!
「駁蘚」「ばくせん」と音読みしておく。「駁」(ハク)の原義は「いろいろな毛色の交じった斑(まだ)ら馬」のことで、ここは「入り交じること」であり、「蘚」はこの場合、苔や羊歯(しだ)及び地衣類、さらに種子植物のごく小型の雑草などの総称で、それらが入り混じってぎちゃごちゃと生え苔蒸し、八重葎となっていることを指すのであろう。]
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