甲子夜話卷之三 24 權五郎景正眼を射させたること、杉田玄伯が説幷景正が旧蹟
3-24 權五郎景正眼を射させたること、杉田玄伯が説幷景正が旧蹟
又同處にて、桑山修理と云る兩番衆と話りたる中、桑山曰ふ。嘗て千本吉之允と【居隆。今亡】〕武事を談じたるとき、鎌倉の權五郞景正が敵に眼を射させて、其矢の兜の鉢付けの板に射つけしを、其まま當(タウ)の矢を返し、敵を射落したることを申出でたるとき、其坐に小濱の外科醫杉田玄伯居しが云ふよう。眼を射られしならば、矢は頭中に入たるなるべし。鉢付の板に射付しならば、矢は腦を貫きたるならん。總て人體の中、腦と胸膈とに創つきては、人命はなき者なり。況やこれを貫ては、いかに大剛の者迚も當の矢を射ることはあらん。これ無き理なり。然れば眼を射たると云も目尻なる頭骨の脇を射通して、鉢付板の末の方にや射つけしなるべし。さらば腦は貫かざるゆへ、療治にかゝる創なりと云たりと。予聞て、流石外科醫なりと歎じ思へり。古記は傳承のまゝを錄するなれば、其處と其物は違はざれども、目擊せば玄伯が説の如くならん【因みに、後三年合戰繪詞の文をしるす。曰、相摸國住人鎌倉の權五郞景正といふ者有。先祖より開高き兵なり。年わづか十六歳にして、おほいくさの前にありて、命を捨てたゝかふ間に、征矢打て右の目をいさせつ。首を射つらぬきて、甲のはちつけの板に射つけられぬ。矢をおりかけて當の矢を射て、敵を射とりつ。扨後しりぞきて、かへりて甲をぬぎて、景正手負たりとてのけざまにふしぬ。同國の兵三浦の平太郞爲次といふもの有。これも聞へ高きものなり。つらぬきをはきながら、景正が顏をふまへて矢をぬかんとす。景正臥ながら、刀を拔て爲次が草摺をとらへて、あとさまにつかんとす。爲次おどろきて、こはいかに。などかくはするぞといふ。景正いふやう、弓箭にあたりて死は兵の望所なり。いかで生ながら足にてつらを踏るゝことはあらん。しかじ汝をかたきとして我爰にて死なんといふ。爲次舌をまきて云事なし。膝をかゞめ、顏をおさへて矢を拔つ。おほくの人これを見聞、景正が高名いよくならびなし】。
其時、又坐客に一僧あり。勢州の人なり【河曲(クミ)郡神戸驛の邊り、本願寺末普願寺。名大業】〕。云よう、某の在所に鎌倉權五郞景正の塚とてあり。土をもりて其上に標を竪つ。其側に池あり。其中に棲もの片目なりと話る。予何か然るやと問へば、蛙など皆然りと。此僧目擊のことなり。景正の舊跡勢州にあること未考しらず。亦片目の物の其處にあるも偶然なるべし。又『觀蹟聞老志』に所ㇾ載は、羽州由理郡鳥海山山下有鳥海神社。郷人曰。往昔祭鳥海彌三郞之靈焉。下有川。彌三郞射鎌倉權五郞右目。權五郞乃放答矢而殖之。後拔鏃于河畔洗其血去。此川生黃顙魚共隻眼也。〔羽州由理郡鳥海山ハ山下ニ鳥海神社、有リ。郷人、曰ク、往昔、鳥海彌三郞ノ靈ヲ祭ル。下ニ、川、有リ。彌三郞、鎌倉權五郞ノ右目ヲ射ル。權五郞、乃チ答ノ矢ヲ放チテ之ヲ殪ス。後、鏃ヲ河ノ畔ニ拔キ、其ノ血ヲ洗ヒ去ル。此ノ川、黃顙魚ヲ生ズルニ、共ニ隻眼ナリ。〕これも亦片目の魚なり。處々其舊跡と云所に如ㇾ斯も、景正の武名高き故なり。
■やぶちゃんの呟き
※「觀蹟聞老志」の漢文は訓点があるが、今回は読み易さを考え、後に〔 〕でそれに従った書き下し(但し、原文の香りを残すために例外的に漢字カタカナ混じりとし、句読点は従わず、一部の送り仮名のない箇所で読みにくい部分には私の判断で勝手に送ってあるので、引用の際にはこの頭注を必ず添えて頂きたい)を私が附した。
※平安後期の猛勇無双の武将「鎌倉」「權五郎景正」(延久元(一〇六九)年~?:「景政」の表記の方が私には親しい)については私のサイトやブログには多数の記載がある。取り敢えず、全く御存じない方のために、「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」をリンクさせておくので、そちら私の注を参照されたい。また、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注』の中の「目一つ五郎考」も参考になるはずである。ここでは私に判り切った部分には注をしない(すると、エンドレスになるぐらい景政フリークだからでも)ある。悪しからず。
「杉田玄伯」「伯」はママ。無論、「解体新書」の若狭国小浜藩医で蘭学医の杉田玄白(享保一八(一七三三)年~文化一四(一八一七)年)である。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年から書き始められているが、玄白は藩医として江戸上屋敷に勤める一方で、宝暦七(一七五七)年)には江戸日本橋に開業し、町医者ともなり、明和二(一七六五)年に藩奥医師となり、明和六(一七六九)年に藩侍医であった父玄甫が死去すると、家督と侍医職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰めた。以下、ウィキの「杉田玄白」によれば、明和八(一七七一)年、自身の回想録である「蘭学事始」によれば、同じ藩医で蘭方医であった後輩の『中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書』「ターヘル・アナトミア」(ドイツ人医師ヨーハン・アーダム・クルムス(Johann Adam Kulmus 一六八九年~一七四五年)の著書“Anatomische Tabellen”(アナトーミッシェ・タベレン:「解剖図表」の意。一七二二年ダンツィヒにて初版刊行)が原本で、彼らが読んだオランダ語訳版“Ontleedkundige Tafelen”(オントレートクンディヘ・ターフェレン)はオランダ人医師ヘラルト・ディクテン(Gerard Dicten 一六九六年?~一七七〇年)の翻訳により一七三四年にアムステルダムで出版されたものである。我々が親しんでいる「ターヘル・アナトミア」は全くの俗称であることはあまり知られていない)を持って『玄白のもとを訪れる。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。玄白、良沢、淳庵らは』「ターヘル・アナトミア」を和訳し、安永三(一七七四)年に解体新書『として刊行するに至』り、『友人桂川甫三』によって『将軍家に献上され』ている、とある(下線やぶちゃん)。即ち、静山がこれを書いている時には、既に玄白は故人であったということである。
「桑山修理」不詳。
「兩番衆」この当時は書院番と小姓組番の称。徳川将軍直属の親衛隊で、最も良い家格を誇る旗本の出世コースである。
「話り」「かたり」。
「千本吉之允」「居隆」「せんぼんきちのじよう」「をりたか」と読んでおく。
「今亡」「今は亡(な)し」。
「鉢付の板」「はちつけのいた」は兜 の鉢に取り付ける錏(しころ)の最初の一枚目に相当する鉢の周囲に張られた板、ここは前面の額に近い部分であろう。そうでないと「眼」を射られたという謂いと矛盾するからである。
「當(タウ)の矢」敵に射返す矢。表記は「答(たふ)の矢」が普通だが、後で見るように「後三年合戰繪詞」の本文がこうなっている。
「居しが」「をりしが」。
「頭中」「ずちう」。頭の中。
「胸膈」「きようかく」。胸と腹との間或いは胸部。
「貫ては」「つらぬきては」。
「大剛」「だいがう」。剛勇。
「理」「ことわり」。
「然れば」「されば」。
「眼を射たると云も目尻なる頭骨の脇を射通して、鉢付板の末の方にや射つけしなるべし。さらば腦は貫かざるゆへ、療治にかゝる創なり」私も小学校の時にこの話を読んで、おかしいと思い、きっと、矢は眼の脇から頭の横の皮の下をくぐって、後頭部に突き出ただけだろ、そうでなきゃ、死んじゃうよ、と思ったことを思い出す。小学生の時は私は医者になりたかったが(卒業文集には「変な名前だけど医者になりたい」と書いている。私の姓は「藪野」でその頃の私の綽名は事実「ヤブ医者」であった)、その時は、玄白先生並だったということか?
「其處と其物」ロケーションと話の本筋の部分。
「後三年合戰繪詞」平安後期の永保三(一〇八三)年から寛治二(一〇八八)年にかけて陸奥・出羽両国にまたがって発生した「後三年の役」を主題とした軍記物語のはしりとなる「後三年記」(原本は院政初期に平泉藤原氏の初代藤原清衡の下で成立したとされる)が最初にあって、承安元(一一七一)年に後白河上皇のもとで承安本「後三年繪」が制作されたが、その後の貞和三(一三四七)年に作られた貞和本「後三年合戦絵詞」(画工・飛騨守惟久)を指す。この貞和本は元来は六巻存在したとされ(現存は三巻)、それが近世初期になって「奥州後三年記」という別書名を持つようになったらしい(以上はウィキの「奥州後三年記」に拠る)。以下にサイト「義経伝説」の「奥州後三年記」の当該箇所の、出陣の少し前から、恣意的に正字化して示す。静山の引用が正確なことも判る。一部に私が読みを振った。
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將軍の舍弟兵衞尉義光。おもはざるに陣に來れり。將軍にむかひていはく。ほのかに戰のよしをうけたまはりて。義家夷(ゑびす)にせめられて。あぶなく侍るよしうけたまはる。身のいとまをたまはらんと。院にいとまを申侍(まうしはべり)て。まかり下りてなん侍るといふ。義家これをききて。よろこびの淚ををさへていはく。今日の足下(そつか)の來りたまへるは。故入道の生(いき)かへりて。おはしたるとこそおぼえ侍れ。君すでに副將軍となり給はば。武ひら家ひらがくびをえん事たなごゝろにありといふ。
前陣の軍すでにせめよりてたゝかふ。城中よばい振(ふるひ)て矢の下る事雨のごとし。將軍のつはもの。疵をかうむるものはなはだし。相模の國の住人。鎌倉權五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして。大軍の前にありて。命をすゝてたゝかふ間に。征矢(そや)にて右の目を射させつ。首を射つらぬきて。かぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて當の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき歸りて。かぶとをぬぎて。景正手負(ておひ)たりとてのけさまにふしぬ。同國のつはもの。三浦の平太郎爲次(ためつぐ)といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら。景正が顏をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて。爲次がくさずりを。とらへてあげさまにつかんとす。爲次おどろきてこはいかに。などかくはするぞといふ。景正がいふよう。弓箭(きうぜん)にあたりて死するは。つはものゝのぞむところなり。いかでか生(いき)ながら足にて。つらをふまるゝ事はあらん。しかじ汝(なんぢ)をかたきとしてわれ爰(ここ)にて死なんといふ。爲次舌をまきていふ事なし。膝をかゝめ頭(かしら)ををさへて矢をぬきつ。をおほくの人是を見聞(みきき)。景正がかうみやういよゝならびなし。
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「勢州」伊勢国。
「河曲(クミ)郡神戸驛」「クミ」は「曲」にのみ附されたルビであるが、不審。河曲郡は旧郡として確かにあるが、これは「かわは(かわわ)」と読むはずだからである。「神戸驛」は「かんべえき」と読み、これは現在の鈴鹿市神戸(かんべ)地区(三ヶ所の「神部」を頭とする町(ちょう)がある)である。この(グーグル・マップ・データ)中央付近である。これは下種の勘繰りかも知れぬが、静山は、後注に出す飽海(あくみ)郡の読みと混同したのではあるまいか?
「普願寺」現存するが、ここ(グーグル・マップ・データ)は現在、三重県鈴鹿市林崎である(但し、地図を見て頂くと判るが、神部からは東北位置に二キロほどで近いことは近い)。
「大業」「たいげふ(たいぎょう)」と読んでおく。
「某」「それがし」。
「鎌倉權五郞景正の塚」「其側に池あり。其中に棲もの片目なり」この池の方は、私の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十三)』に出る、『河藝(かはげ)郡矢橋(やばせ)村の御池』」である。「河藝郡」は「河曲郡」が後に変更された郡名であり、何より、後の『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(二十)』では柳田はここのことを指して、『伊勢の神戸町の南方矢橋の御地』と言っているのだから間違いない。しかも! 嬉しいことにこの塚は鈴鹿市矢橋町に現存するのだ! 個人サイト内のこちらをご覧あれ!
「何か然るや」「何が然(しか)るや」であろう。「どんな生き物が片眼であるのか?」
「未考しらず」「いまだかんがへ知らず」。未だに確かな考察や調査はしていない。
「觀蹟聞老志」正しくは「奥羽觀蹟聞老志」。享保四(一七一九)年に完成した仙台藩地誌。全二十巻。第四代藩主伊達綱村公の命を受けて藩の儒学者で絵師でもあった佐久間洞巌(承応二(一六五三)年~享保二一・元文元(一七三六)年:本名・佐久間義和)が編纂した。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読めるが、インデックスがないので流石に今は捜す気にならぬ。悪しからず。
「所ㇾ載は」「のするところは」。
「由理郡」秋田県にあった由利郡(現在の由利本荘市・にかほ市の全域と秋田市の一部に相当)。
「鳥海山」山形県と秋田県に跨がる標高二二三六メートルの山。
「鳥海神社」ここの書かれているのは、山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)山形県遊佐町吹浦 遊佐町直世荒川にある鳥海山大物忌神社の境外末社である「丸池神社」及びそこある「丸池」という池の伝承ではあるまいか? ここ(グーグル・マップ・データ)。けぴお氏のブログ「イキルメディア」の『神秘の泉「丸池」の伝説と歴史を調べてみた。山形県遊佐町のとある観光地』が非常に詳しい。必見!
「黃顙魚」日本固有種である淡水ナマズの一種である条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギバチ(義蜂)Pseudobagrus
tokiensis のことであろう。ウィキの「ギバチ」によれば、『神奈川県、富山県以北の本州』に分布し、全長は約二十五センチメートルで『体は細長く、体色は茶褐色から黒褐色で鱗はない。上顎、下顎それぞれ』二対ずつ、計八本の『口ひげ、胸びれと背びれに』一本ずつ、計三本の『棘を持つ。棘には毒があるとされる。尾鰭の後縁がわずかにくぼむ。幼魚には、黄色味を帯びた明らかな斑紋がある』(下線やぶちゃん。私は危険性の推定される生物種を記載する場合には必ずその危険性を記載することにしている)。『流れがあり比較的水質も良い河川の中流域から上流域下部に生息する。石や岩の下や石垣の隙間、ヨシの間や倒木の下に潜む。主に夜間活動し、水生昆虫や小魚などを捕食する』。『幼魚は農業用水の水路を利用することもある。産卵期は六~八月』とある。
「如ㇾ斯も」「かくのごときも」