柴田宵曲 續妖異博物館 「經帷子」
經帷子
元文初年の正月元日の事である。六番町に住む中根權六といふ新御番のところへ、高井兵部少輔の屋敷から用人が來て、御屋敷の塀の内にある樅(もみ)の木に妙なものがかゝつて居ります、とひそかに告げた。急いでおろさせて見ると、それは經帷子(きやうかたびら)で、然も權六の菩提寺の前の住持の書いたものであつた。その樅の木は非常な大木であつたから、その梢に掛けることは容易の業(わざ)ではない。普通の場合なら天狗の惡戲(いたづら)といふことになりさうなところであるが、ものが經帷子だけに首を傾けざるを得ぬ。元日匆匆の事であり、落語のかつぎ屋ならずとも、駁魄に催すべきところ、「その年何事もなかりし由」と「奇異珍事錄」に書いてある。
[やぶちゃん注:「元文初年」は恐らく改元された享保二十一年の元旦であろう。同年は四月二十八日に桜町天皇即位のために改元している。
「六番町」現在の東京都千代田区六番町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。武家屋敷が多かった。
「新御番」新番。当初は近習番とも称し、将軍の警護役として寛永二〇(一六四三)年に設置された。
「高井兵部少輔」「中根權六」の屋敷の隣家か、ごく近所で、しかも親しい関係なのであろう。でなくてはわざわざ知らせには来ぬし、逆に疑われると私は思う。
「落語のかつぎ屋」「かつぎ屋」は古典落語の演目の一つ。詳しい梗概はウィキの「かつぎや」を参照されたいが、ゲンをかつぐ癖の極端に強い呉服屋主人五兵衛に、とある年の元日、下男や小僧が死穢に触れるような言葉を連発してしまうという設定である。
「駁魄」見かけぬ熟語であるが、「がいはく」で肝っ玉、魂・魂魄が心底、懼れ駭(おど)ろくことではあろう。
以上は「奇異珍事錄」の「三の卷」の「經帷」(きやうかたびら)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで読める。]
昇進して諸大夫(しよだいぶ)席を勤めた人といふだけで、名前はわからぬが、その人がまだ布衣(ほい)であつた時分、上野へ行つた歸りに下谷廣小路で葬禮に行き逢つた。あいにく風の強い日で、先方の棺の上に掛けてあつた白無垢が、空中に舞ひ上つたかと思ふと、此方の駕籠の上に落ちて來た。咄嗟の出來事でどうにもならなかつたのではあるが、葬禮の輩は仰天したらしく、一言の挨拶にも及ばずに、早足で逃げてしまつた。駕籠脇の家來が憤慨して追駈けようとするのを、主人はしづかに制し、白無垢は途中で捨てるわけに往かぬので、屋敷まで持ち歸つた。家の人々は更に氣持を惡くして、忌々しいと罵る時、主人は愈々落ち著き拂つて、我等事今年は諸大夫の御役に進むであらう、と何等意に介せなかつた。風に飛んだ白無垢は振袖火事のやうな凶事にならなかつたばかりでなく、その人が白無垢を著けて諸大夫の位に進む吉瑞になつたと「耳囊」は侍へてゐる。
[やぶちゃん注:「布衣(ほい)」元来は江戸時代の武士の大紋に次ぐ四番目の礼服の名であるが、実際にはそれを着る御目見(おめみえ)以上の身分の者を指すことの方が圧倒的に多い。
以上は「耳囊 卷之三」の掉尾「吉兆前證の事」である。私の電子化訳注でどうぞ。]
「古今著聞集」に淸長卿が藏人頭(くらうどのとう)であつた時、殿上人(てんじやうびと)が連れ立つて船岡へ蟲捕りに行つたことがある。風が強く吹き出して、淸長の冠を吹き落したかと思ふと、遠くの方まで吹かれて行き、そこにあつた死人の頭に、まるで人がわざとかぶせたやうにかゝつた。思ひ設けぬ出來事であるし、相手は死人でどうにもならぬので、不愉快ながらその冠を取つてかぶるより仕方がなかつたが、その後四五年たつて淸長は亡くなつた。「かやうの事は怪しむぺべことなり」と書いてある。これは「耳囊」の白無垢とは關係が逆になつてゐるが、船岡山あたりに死人がころがつてゐた時代だから、その頃の人は後のかつぎ屋のやうに氣にしなかつたものであらうか。四五年の間隔を置いたとすれば、覿面ではなかつたにしろ、凶兆であつたことは間違ひない。
[やぶちゃん注:「淸長卿」藤原清長(承安(じょうあん)元(一一七一)年~建保二(一二一五)年)は鎌倉時代の公卿。藤原定長の子。蔵人頭・左京大夫などを勤め、承元四(一二一〇)年に従三位。この間、後鳥羽院の院庁の院司となり、院庁下文(くだしぶみ)に名を連ねている。享年四十四歳。新潮古典集成の頭注によると、彼は三十九歳で蔵人頭に承元三(一二〇九)年正月に補任され、翌年四月に再任されているとあり、この一件の「四五年たつて淸長は亡くなつた」という叙述とはよく符合している(死亡時は左京大夫)。
以上は「古今著聞集」の「卷第十七」の「淸長貫主の時、船岡にて冠の怪異の事」などと標題される一条である。以下に示す。
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淸長卿貫首(くわんじゆ)のとき、殿上人ども、相伴(あひともな)ひて、船岡にむかひて蟲をとりけるに、風あらくふきて、淸長朝臣の冠をふき落してけり。件(くだん)の冠、遠くふかれ行きて、死人のかうべのありけるに、人のわざときせたるやうにかかりにけり。人々あさみあへりけり。さてしもあるべき事ならねば、いぶせながら、その冠をとりて着てけり。そののち四、、五年ばかりありて失せられにけり。かやうの事は、あやしむべき事なり。
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「貫首」は「藏人頭」と同じい。]
「經帷子の祕密」(岡本綺堂)といふ話は、以上のやうな單純なものではない。萬延元年九月二十四日、新たに開港場になつた横濱見物の母娘が、駕籠で鈴ガ森まで歸つて來ると、その駕籠におくれまいとするやうに歩いて來る老婆がある。駕籠について步いてゐた若者が言葉をかけた結果、老婆は大事な物を抱へて居り、日が暮れては物騷な道を急ぐために、駕籠におくれまいとするのだとわかつた。そのうちに老婆がつまづいて倒れたので、駕籠に乘つてゐた娘が下りて、代りに乘せてやることにした。こゝまではよかつたが、鮫洲(さめず)の宿(しゆく)に著いて別れ去つた後、娘がまた駕籠に乘つたら、老婆は自分で大事な物と云つた風呂敷包みを置き忘れてゐる。駕籠屋の提燈を借りてその包みをあけて見た時、一行は異樣な叫び聲をあげた。中から出たのは白い新しい經帷子だつたからである。
[やぶちゃん注:「萬延元年九月二十四日」グレゴリオ暦一八六〇年十一月六日。
「鮫洲」東京都品川区東大井。
「鈴ガ森」刑場で知られた現在の東京都品川区南大井地区内。鮫洲の一・五キロメートル南南西。]
經帷子は最初に老婆と話した若者の手によつて高輪の海に捨てられた。この事があつて十日もたゝぬうちに、十九の娘に緣談がとゝのび、老婆の忘れ物は必ずしも凶兆でないことになつた。然るにまだ輿入れが濟まぬうちに、先方の家には或る祟りがあつて、子供は決して育たぬといふことが告げられた。親達は思案に暮れたけれど、この緣談には種々の事情がからまつて居り、結局娘が行くと云へば決行するといふことになつた。娘がこれを斷らなかつたのは、經帷子以來の因緣の免るべからざることを覺悟した爲である。婚禮は無事に濟み、翌年男の子が生れた。産んだ子が男であると聞いた後、若い妻は自ら命を斷つて子供の將來を恃み、その家が實子によつて存續されるやうにした。
[やぶちゃん注:以上の岡本綺堂の「經帷子の祕密」は昭和九(一九三四)年九月一日発行の『富士』初出。「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名版)。]
複雜な筋を煎じ詰めれば、大體こんな事である。この話は幕末の江戸に起つた事柄として、何の無理もなく出來上つてゐるが、支那の話の中に一應擧げて置きたい材料がある。唐の憲宗の遷葬が景陵に行はれた時、都城の人士が多く拜觀に出たが、崇賢里に居つた前集州の司馬斐通遠の妻女等も、また卓輿に乘つて通化門まで出かけた。その歸り道に日が暮れて、平康北街のあたりまで來ると、白髮頭の老婆が徒步で走るやうにやつて來る。車のあとから來る樣子が、殆ど氣力の盡きたものの如く見えるのに、天門街から先は車の足が愈々早くなるので、老婆も命がけで走らなければならぬ。車中に四人の少女を連れて乘つてゐた靑衣の老夫人が、息を切らしながらついて來る老婆に同情して、あなたはどこまで歸るのかと尋ねたら、崇賢里でございます、と答へる。それなら私どもと同じところです、これから歸るわけだから、何ならこの車に乘つてはどうか、あなた一人ぐらゐならまだ乘る餘地はある、と云はれて老婆は深くその好意を謝し、小さくなつて車の一隅に席を占め、崇賢里に着いたら丁寧に挨拶して去つた。然るに車の中に小さな紅い錦の囊が置き忘れてある。少女達は皆笑つて囊をあけたところ、中から白い薄絹で作つたものが出て來た。これは死者の顏を覆ふもので、その數が四つある。少女達は驚いて道路に放棄したが、それより旬日ならずして、四人の少女は次ぎ次ぎに亡くなつた。
[やぶちゃん注:「死者の顏を覆ふもの」これは、ほれ、授業でやった「臥薪嘗胆」のあれだよ。名臣伍子胥(しょ)が越王勾践の賂(まひな)いを受けた太宰伯嚭(たいさいはくひ)によって夫差から自死の剣を賜い、「必樹吾墓檟。檟可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」(「必ず吾が墓に檟(か:ヒサギ。棺桶の材料とした木本類。)を樹ゑよ。檟は(夫差の棺(ひつぎ)の)材とすべきなり。吾が目を抉り、東門に懸けよ。以つて越兵の呉を滅ぼすを観ん。」)と言って死に、その通りなった結果、夫差は「吾無以見子胥。」(「吾、以つて子胥を見る無し。」)と言って「爲幎冒乃死」(幎冒(べきぼう)を爲(つく)りて乃(すなはち死す)の、あの死者の蔽うための顔隠しの「幎冒(べきぼう)」だよ。]
「經帷子の祕密」には複發な周圍の事情が描いてあるので、老婆の正體もほゞ見當が付けられるが、「集異記」の傳へるところは後も先もない、これだけの話である。強ひて素姓を尋ねれば冥官の使といふやうなことにでもなるのであらう。景陵の遷葬と横濱見物、駕籠と車輿、四人の少女と一人娘、紅い小錦囊と淺葱の風呂敷包み、白羅製の覆面と經帷子、一々對比すれば由つて來るところは自ら明かであるが、前後に幾つもの話を加へ、照應した一つの話に作り上げた迹を見る時、何人も脱化の妙を感ぜずには居られまい。
[やぶちゃん注:以上の「集異記」に載るとするそれは、「太平廣記」の「鬼三十」に「裴通遠」(ひつうえん)として以下のように引かれてある。
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唐憲宗葬景陵、都城人士畢至。前集州司馬裴通遠家在崇賢里、妻女輩亦以車輿縱觀於通化門。及歸日晚。馳馬驟。至平康北街、有白頭嫗步走、隨車而來、氣力殆盡。至天門街、夜鼓時動、車馬轉速、嫗亦忙遽。車中有老靑衣從四小女、其中有哀其奔迫者、問其所居、對曰。崇賢。卽謂曰。與嫗同里、可同載至里門耶。嫗荷媿、及至、則申重辭謝。將下車、遺一小錦囊。諸女共開之、中有白羅、製爲逝者面衣四焉。諸女驚駭、棄於路。不旬日、四女相次而卒。
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