南方熊楠 履歴書(その7) ロンドンにて(3) 孫文との出逢い
右のダグラス男の官房で始めて孫逸仙と知人となれり。逸仙方へ毎度遊びにゆき、逸仙また小生の家に遊びに来たれり。逸仙ロンドンを去る前、鎌田栄吉氏下宿へつれゆき、岡本柳之助氏へ添書を書きもらえり。これ逸仙日本に来たりし端緒なり。(その前にも一度来たりしが、横浜ぐらいのみ数日留まりしばかりなり)。マルカーンとかいうアイルランドの陰謀士ありて、小生とこの人と二人、逸仙出立にヴィクトリア停車場まで送り行きたり。逸仙は終始背広服、こんな平凡な帽をかぶり、小生が常にフロックコート、シルクハットなりしと反映せり。明治三十四年二月ごろ、逸仙横浜の黄(ワン)某をつれ、和歌山に小生を尋ね来たりしことあり。前日神戸かどこかで王道を説きし時、支部帝国の徳望が今もインド辺に仰がれおる由を演(の)べたるが、これは小生がかつて孫に話せしことを敷演(ふえん)せるにて、つまり前述山内一豊が堀尾忠氏の言を採りしと同じやり方なり。
[やぶちゃん注:「孫逸仙」かの革命家孫文(一八六六年~一九二五年)。「逸仙」は彼の字(あざな)。ウィキの「孫文」によれば、この前後の彼は、『清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き』、一八九四年一月、ハワイで清朝打倒を目指す革命団体「興中会」を組織し、『翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した』。一八九七年(明治三十年)、『宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の』二『千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋し』ている。一八九九年には義和団の乱が発生・拡大し、『翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが』、『失敗に終わった』(後のことであるが、一九〇二年には『中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた』とある)。この後、『アメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の』一九〇四年、『清朝打倒活動の必要上』から《一八七〇年十一月ハワイ・マウイ島生まれ》という『扱いでアメリカ国籍を取得』、『以後、革命資金を集める為、世界中を巡った』とある。但し、以上のウィキの記載には重大な叙述不全があり、実は孫文が亡命して日本(短期滞在。後注参照)・ハワイ・アメリカを経て、最初にイギリス・ロンドンに至ったのは一八九六年のことであった(中文サイト年譜及び「南方熊楠コレクション」の注にもそうある)。南方熊楠の日記によると、一八九六年十一月十日の日記によれば、『博物館にてダグラス氏に遇ふ。昨日支那人スンワンにあひし由、是は前日支那公使館に捕縛されしものなり。加藤公使へ一書出す。[追記]〈スンワンは孫逸仙也。〉』とある(私は日記を所持しないが、ここはブログ「今日も日暮里富士見坂 / NIPPORI FUJIMIZAKA DAY BY
DAY」の「魯迅と日暮里(32)南波登発の「亞細亞」への視線(7)南方熊楠と孫文ならびに「青年自由黨」の先駆者たち Sun
Yat-sen in Wakayama」に拠った。この記事は詳細で画像もあり、必見必読! 特に熊楠の日記が多量に引用されており、孫文との交流を日付単位で確認出来る!。必見!)。その後、「南方熊楠コレクション」の注によれば、
翌一八九七年三月十六日の日記には「ダグ氏オフイスにて孫文氏と面會す」とある
とするから、これが南方熊楠と孫文の初対面と考えられる。以降は実に頻繁に孫文と逢い、親交を深めてゆく様子が上記のリンク先の日記引用から見てとれる。時に孫文三十二歳、熊楠三十一歳であった。
「鎌田栄吉」(安政四(一八五七)年~昭和九(一九三四)年)は政治家で枢密顧問官・貴族院議員・衆議院議員・文部大臣・第四代慶應義塾塾長・帝国教育会長を歴任したが、イギリス留学でのこの出逢いの外にも、鎌田が紀州藩出身であったことも後々まで親交があった理由であろう。
「岡本柳之助」既出既注。
「これ逸仙日本に来たりし端緒なり。(その前にも一度来たりしが、横浜ぐらいのみ数日留まりしばかりなり)」とあるように、一度目は亡命して明治二八(一八九五)年の十一月十三日に横浜に着いている(神戸経由)。ところが、ここから彼がホノルルに発ったのには諸説あって、十一月二十日以前に直ちに発ったとも、十二月中旬とも、翌年二月中旬ともされ、確かでない。最初の説を採るなら、熊楠の言うように数日のレベルではある。ここでのそれは二度目の来日で中の大正二(一九一三)年二月から同五(一九一六)年まで本邦で亡命生活を送った。
「マルカーン」不詳であるが、南方熊楠の日記によれば、綴りは「Mulkern」で、孫文の友人と記している。また、こちらのメルマガ記事の中の佐藤守氏の「大東亜戦争の真実を求めて」によれば、『アイルランド独立党員で軍事学者』とし、「蒋介石秘録」には、後に孫文が恵州起義(一九〇〇年)を起こした際、香港に渡って革命に協力していると書かれているとある。「アイルランド独立党」とは一九〇五年に結成されたアイルランドのイギリスからの独立を目指したナショナリズム政党「シン・フェイン党」(アイルランド語:Sinn Féin)のことであろう。但し、このシチュエーション(中文サイトの孫文の年譜を調べると、このヴィクトリア駅での別れは一八九七年七月と推定される)ではまだ、同党は結成されていないので注意されたい。
「反映せり」(孫文のラフな装いと自分のしゃっちょこばった服装が)すこぶる対照的であった。
「明治三十四年二月ごろ、逸仙横浜の黄(ワン)某をつれ、和歌山に小生を尋ね来たりし」明治三四(一九〇一)年で、南方熊楠が帰国した翌年である。この時期、孫文は本邦で潜伏生活をしていたらしい。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載に、そうあり、中文サイトの年譜でも前年末に東京に戻ったという記載がある。「黄」は底本では編者により下に『温炳臣』と割注がある。温炳臣(おんぺいしん 一八六六年~一九五五年)は横浜の華僑で、茶館を営んで山下町に住んでいたが、弟恵臣とともに孫文の思想に傾倒、彼を援助し続けた人物である(熊楠は「ワン」とルビを振っている。この「黄」(正しくは「黃」)の字は北京語を標準とした普通話を音写すると「ホアン(ファン)」であるが、広東語では「ウォン」、福建語は「ン(ウン)」のようになり、広東語や呉越語(上海市・浙江省の大部分・江蘇省南部・安徽省南部及び江西省や福建省の一部で話される語)では「黄」と「王」は完全に同音になってしまい区別がつかない、とウィキの「黄(姓)」にはある)。なお、この孫文田辺訪問のエピソードについて、「魯迅と日暮里(32)南波登発の「亞細亞」への視線(7)南方熊楠と孫文ならびに「青年自由黨」の先駆者たち Sun
Yat-sen in Wakayama」には、柳田国男宛書簡(一九一一年十月十四日附)から引いた以下が載る(一部の表記を変更し、途中にあるブログ記載者の方の語注記を解りやすくするために除去・改変した。引用元を必ず確認されたい)。
「黃興兵を起し大亂に及び候由電報にて見る、小生も孫文と兼約有り。もしいよいよ確定に及び候はゞ一度かの軍を見舞はんと存居候、椿蓁一郎といふ人當縣知事たりしとき、文自ら和歌山に小生を訪ひ和歌浦で會談せし事ありしも、汽車中より人につけられ終に熟談を得ざりし。」
椿蓁一郎は「つばきしんいちろう」と読み、彼は一九〇〇年十月に和歌山県知事となり、一九〇三年六月には秋田県知事に転任しているから、この孫文来訪とする時期と合致しており、博覧強記の熊楠が年月日から知事の名前まで誤認することは絶対にあり得ぬからして、この時期の孫文日本潜伏というのは事実と見てよい。
「王道」中国の構造上の政体の大変革の必要性を訴える主張。
「敷演(ふえん)」ママ。敷衍。]