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2017/04/22

南方熊楠 履歴書(その14) ロンドンにて(10) 母の死・放蕩の兄南方弥兵衛のこと

 

 こんなことをいいおると果てしがないから、以下なるべく締めて申す。けだし、若いときの苦労は苦中にも楽しみ多く、年老(と)るに及んでは、いかな楽しきことにあうても、あとさきを考えるから楽しからぬものなり。小生ロンドンで面白おかしくやっておるうちにも、苦の種がすでに十分伏在しおったので、ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」。仏国のリットレーは若きときその妹に死に別れたが、老年に及んでもその妹の顔が現に眼前にあるようだと嘆きし由。東西人情は古今を通じて兄弟なり。小生最初渡米のおり、亡父は五十六歳で、母は四十七歳ばかりと記臆す。父が淚出るをこらえる体(てい)、母が覚えず声を放ちしさま、今はみな死に失せし。兄姉妹と弟が瘖然(いんぜん)黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致し、天下不死的の父母なし、人間得がたきものは兄弟、この千万劫(ごう)にして初めて会う値遇(ちぐう)の縁厚き兄弟の間も、女性が一人でも立ち雑(まじ)ると、ようやく修羅(しゅら)と化して闘争するに及ぶ次第は近々述べん。

[やぶちゃん注:「ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。」南方熊楠がロンドンについたのは明治二五(一八九二)年九月二十六日で、母すみは明治二九(一八九六)年二月二十七日に五十八歳で亡くなっている当時、熊楠満二十八であった。

「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方すみ」によれば、これは藤原伊周の一首とし(但し、私の所持する歌集類では見出せなかった。収録歌集等、識者の御教授を乞うものである)、熊楠は母逝去の報を知って、この和歌を以って『その死を悼(いた)み、弟から送られてきた、母の枕辺に兄弟が並んだ写真を見て自らを慰めた、という』とある。

「リットレー」フランスの医学史家・哲学者・文献学者・辞書編纂者にしてアカデミー会員であったエミール・マクシミリアン・ポール・リトレー(Émile Maximilien Paul Littré 一八〇一年~一八八一年)のことであろう。数ヶ国語を操り、ヒポクラテスのギリシア語校訂版と仏訳を完成(一八三九年~一八六一年)、コントの実証主義思想に共感して、コントが神秘主義的になった後も、理性を最重視する合理主義を説いた。彼を特に有名にしたのは、俗に「リトレ辞典」と呼ばれる四巻からなるDictionnaire de la langue franaise(「フランス語大辞典」一八六三年~一八七三年刊/補遺一八七七年刊)の編纂で、この辞書は語義と例文の他に、語源・語史・文法事項をも記述した画期的な辞典で、十九世紀から二十世紀の文人に大きな影響を与えたことで知られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「瘖然(いんぜん)」激しい失意によって言葉を発することも出来ないさま。

「悽然」(せいぜん)は深い悲しみに沈むさま。この「黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致」すはずである、という箇所は、単に熊楠の父母を失った深い悲しみが今も続いていることの過剰なデフォルマシオンなのではないことに注意されたい。これはかなり知られたことであるが、南方熊楠は博覧強記だっただけでなく、ある種の「博乱狂気」的側面もあり、高野山山中の採集中にも幽霊を実際に見たと主張し、幽冥界を視認するような霊的な能力を持っていたと自認していた節がある。ここもそうした霊界を、今ここに現出させおるし、それを貴君(書簡の相手である日本郵船株式会社大阪支店副長矢吹義夫)がここに居られたならば実感させることさえも可能であるととんでもないことを言っているのである(と私は採る)。

「値遇(ちぐう)」「ちぐ」とも読み、縁あってめぐりあうこと、特に、仏縁あるものにめぐりあうことを指す。]

 

 この母が死せしころ、兄弥兵衛がすでに無茶苦茶に相場などに手を出し、家ががらあきになりおった。この人は酒は飲まねど無類の女好きで、亡父の余光で金銭乏しからざりしゆえ、人に義理を立てるの何のということなく、幇間(ほうかん)ごとき雑輩を親愛するのみゆえ、世人に面白く思われず。そのころ和歌山第一の美女というものあり。紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)の孫にて、この久野家は今まであらば男爵相当だが絶してしまえり。この女が若後家たりしを兄が妾とし、亡父が撰んでくれた本妻を好まず(これは和泉の尾崎という所の第一の豪家の女なり)、久野の孫女の外になお四人の女を囲いおりたり。そんなことにて万事抜り目多くて、亡父の鑑定通り、父の死後五年に(明治三十年)全く破産して身の置き処もなく、舎弟常楠の家に寄食し、その世話で諸方銀行また会社などへ傭われ行きしも、ややもすれば金銭をちょろまかし、小さき相場に手を出し、たまたま勝たば女に入れてしまう。破産閉塞の際、親類どもより本妻を保続するか妾(久野家の孫女)を保続するかと問いしに、三子まで生みたる本妻を離別して、妾と共棲すべしという。そのうち、この妾は借屋住居の物憂さに堪えず、䕃(かげ)り隠れて去りぬ(後に大阪の売薬長者浮田桂造の妻となりしが、先年死におわる)。

[やぶちゃん注:「紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)」現在の三重県度会郡玉城町(たまきちょう)田丸(たまる)字城郭にあった田丸城は、中世より伊勢神宮を抑える戦略的要衝として古くから争奪戦が繰り返された古城砦で、江戸時代には元和五(一六一九)年に徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩所領となり、遠江久野(くの)城城主であった付家老久野(くの)宗成が駿府藩徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州徳川家の成立)の際にもそのまま随員となって、紀州へ移った。頼宣はこの宗成に一万石を与えて田丸城城主として田丸領六万石を領させた。久野氏は紀州藩家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置いて政務を執らせた。久野氏はその後八代続いて明治維新に至っているから(ここまではウィキの「田丸城に拠る)、その最後の紀州藩田丸城代家老久野家八代当主久野丹波守純固(すみかた 文化一二(一八一五)年~明治六(一八七三)年の孫と思われる。純固は家臣を佐久間象山らに入門させて西洋式砲術を学ばせたり、領内に砲術練習場を設立したりしており、また、俳句・和歌・漢詩に巧みな文人でもあったという(ここはウィキの「久野純固に拠る)。ウィキではそれ以降の久野家の記載は追跡出来ないから(ウィキの「久野でも)、熊楠の言うように断絶してしまったものらしい。

「亡父が撰んでくれた本妻」「和泉の尾崎という所の第一の豪家の女」「女」は「むすめ」と訓じていよう。この本妻は「愛」という名で、「尾崎」は現在の大阪府阪南市尾崎町であろう。(グーグル・マップ・データ)。彼女と兄弥兵衛との間に生まれた長女南方くすゑ(明治二一(一八八八)年生まれ)は、後年、熊楠が可愛がった親族の一人であった。

「抜り目」「ぬかりめ」。抜けたところ。判断がいい加減、処理が不適切且つ不全なこと。

「父の死後」既出であるが、再掲しておくと、明治二五(一八九二)年。

「明治三十年」一八九七年。

「浮田桂造」(弘化三(一八四六)年~昭和二(一九二七)年)は実業家・衆議院議員。大坂生まれで、旧姓は梅咲。大阪府議・南区長を経て、明治二三(一八九〇)年の第一回総選挙で衆院議員に当選し、二期を務めた。また大阪舎密工業社長・東洋水材防腐取締役・関西水力電気取締役、及び共同火災海上運送保険・北浜銀行・浪速銀行等の役員を務め、大阪鉄道・天満(てんま)紡績の創立にも関わっている。

 因みに、放蕩息子兄弥兵衛は、晩年、和歌山を去って現在の呉市吉浦西城町(よしうらにしじょうちょう)で大正一三(一九二四)年に六十五歳で亡くなっている。]

 

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