改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅴ」パート
Ⅴ
[やぶちゃん注:「キリストに與へる詩」は異同なし。]
或る淫賣婦におくる詩
女よ
おんみは此の世のはてに立つてゐる
おんみの道はつきてゐる
おんみはそれをしつてゐる
いまこそおんみはその美しかつた肉體を大地にかへす時だ
靜かにその目をとぢて一切を忘れねばならぬ
おんみはいま何を考えてゐるか
おんみの無智の尊とさよ
おんみのくるしみ
それが世界(よ)の苦みであると知れ
ああそのくるしみによつて人間は赦される
おんみは人間を救つた
おんみもそれですくはれた
どんなことでもおんみをおもへばなんでもなくなる
おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時
それをみて石を投げつけたものは誰か
あの野獸のやうな人達をなぐさむるために
年頃のその芳醇な肉體を
ああ何の憎しみもなく人人のするがままにまかせた
齒を喰ひしばつた刹那の淫樂
此の忍耐は立派である
何といふきよらかな靈魂(たましひ)をおんみはもつのか
おんみは彼等の罪によつて汚れない
彼等を憐め
その罪によつておんみを苦め
その罪によつておんみを滅ぼす
彼等はそれとも知らないのだ
彼等はおのが手を洗ふことすら知らないのだ
泥濘(どろ)の中にて彼等のためにやさしくひらいた花のおんみ
どんなことでもつぶさに見たおんみ
うつくしいことみにくいこと
おんみはすべてをしりつくした
おんみの仕事はもう何一つ殘つてゐない
晴晴とした心をおもち
自由であれ
寛大であれ
ひとしれずながしながしたなみだによつて
みよ神神(かうかう)しいまで澄んだその瞳
聖母摩利亞のやうな崇高(けだか)さ
おんみは光りかがやいてゐるやうだ
おんみの前では自分の頭はおのづから垂れる
ああ地獄の月よ
おんみの行爲は此の世をきよめた
おんみは人間の重荷をひとりで脊負ひ
人人のかはりをつとめた
それだのに捨てられたのだ
ああ正しい
蒼ざめた地獄の月
病める猫よ
おんみはこれから何處へ行かうとするのか
おんみの道はつきてゐる
おんみの肉體(からだ)は腐りはじめた
大地よ
自分はなんにも言はない
此の接吻(くちつけ)を眞實のためにうけてくれ
ああ何でもしつてゐる大地
そして女よ
曾て彼等の讃美のまつただ中に立ちながら
ひとときのやすらかさもなかつた
おんみを蛆蟲はいま待つてゐるのだ
あらゆるものに永遠の生をあたへ
あらゆるものをきよむる大地
此の大地を信ぜよ
人間の罪の犧牲としておんみは死んでくださるか
自分はおんみを拜んでゐる
彼等はなんにもしらないのだ
わかりましたか
そして吾等の骨肉よ
いま一どこちらを向いて
おんみのあとにのこる世界をよくみておくれ
[やぶちゃん注:「或る淫賣婦におくる詩」には驚くべき異同があるので、長い詩篇であるが、改訂版を以上に掲げた。初版の後半部の初めの方に出る、
ああ地獄のゆりよ
(太字は底本では傍点「ヽ」)が、この改版では、
ああ地獄の月よ
と変えられている。これによって、六行後の、
いたましい地獄の白百合
も、
蒼ざめた地獄の月
と大きく改変されてある。これはシンボライズの大きな改変である。軽々には私にはどちらがよいとも言えぬ。しかし「ゆり」を「月」と変えた暮鳥には、明らかに死の影の囁きがあったのだと私には直観的に思われる。
また、初版の「いたましい地獄の白百合」の次行の「猫よ」も、改版では「病める猫よ」に変えられてある。
なお、初版で特異的に訂した最後から二行目の「いま一どこちらを向いて」(初版は「いま一どこららを向いて」)は正しく「こちら」となっている。]
[やぶちゃん注:「溺死者の妻におくる詩」は四行目が初版は、
おんみの生(ライフ)は新しく今日からはじまる
だったものが、「ライフ」のルビがなくなり、
おんみの「生」は新しく今日からはじまる
に変更されている。私は萩原朔太郎なんかが好んでやらかした「生(らいふ)」というルビが生理的に大嫌いなので、この改変は好ましく感ずる。]
[やぶちゃん注:「大きな腕の詩」は初版十一行目の「見やうとすれば忽ちに力は消へてなくなるのだ」の「消へて」が正しい仮名遣に訂されている。これ以外は歴史的仮名遣の誤り(二箇所の「見やう」という誤り)も含めて異同はない。]
[やぶちゃん注:「先驅者の詩」は異同なし。
初版はこれで「Ⅴ」が終わっているが、改版では初版の次の「Ⅵ」にある「故郷にかへつた時」が、この「Ⅴ」の掉尾に配されてある。詩篇内容の異同はない。]
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