南方熊楠 履歴書(その3) アナーバー・フロリダ・キューバ
ここには日本人学生二十人ばかりありし。後には三、四十人もありし(粕谷義三、岡崎邦輔、川田鷹、杉山三郊、その他知名の士多し)。ここにて小生は大学校に入らず、例のごとく自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、広く曠野林中に遊びて自然を観察す(その時の採集品は今もあり)。飯島善太郎氏(埼玉県入不止(いりやまず)とかいう処の人、米国に十五年留学。ただし、小生同様学校に入らず実地練習し、山県侯の子分中山寛太郎氏に識られ、伴われ帰りて南品川に電気変圧機の工場を持てり。当地へ小生を尋ね来たり、旧を叙せしことあり、大正二年のこと)のみ、毎度小生と同行して植物を採れり。かくて二、三年おるうち、フロリダで地衣類を集むるカルキンス大佐と文通上の知人となり、フロリダには当時米国学者の知らざる植物多きをたしかめたる上、明治二十三年[やぶちゃん注:底本にはここに『二十四年の誤り』(西暦一八九一年)と編者注がある。]フロリダにゆき、ジャクソンヴィル市で支那人の牛肉店に寄食し、昼は少しく商売を手伝い、夜は顕微鏡を使って生物を研究す。その支那人おとなしき人にて、小生の学事を妨げざらんため毎夜不在となり、外泊し暁に帰り果たる。二十四年にキュバに渡り、近傍諸地を観察す。所集の植物は今もあり。大正四年に、米国植物興産局主任スウィングル氏田辺に来たり一覧せり。この人も、ちょうどそのころフロリダにありしなり。小生の所集には、今も米人の手に入らぬもの多く、いまだに学界に知れざるものもあるなり。キュバにて小生発見せし地衣に、仏国のニイランデーがギアレクタ・クバナと命名せしものあり。これ東洋人が白人領地内において最初の植物発見なり。当時集めし虫類標本は欧州をもちまわりて日本へもち帰りしが、家弟方にて注意足らぬゆえ一虫の外はことごとく虫に食われ粉となりおわる。捨て去らんと思いしが、田中長三郎あまりに止めるゆえ、今も粉になったまま保存しある。これら小生西半球にて集めたるもの、ことに菌類標本中には、日本人が白人領土内にて発見せるものとして誇るに足るべきもの多くのこりあり。しかるに一生不遇、貧乏にして、今に自分の名をもって発表し得ざるは古今の遺憾事なり。
[やぶちゃん注:「粕谷義三」(かすやぎぞう 慶応二(一八六六)年~昭和五(一九三〇)年)は政治家。ウィキの「粕谷義三」によれば、『武蔵国入間郡』『上藤沢村(現在の埼玉県入間市)の地主・橋本家に生まれ』、明治一二(一八七九)年に『上京して漢学と洋学を修め、一時川越にあった郡役所の書記となるが』、明治一九(一八八六)年に『アメリカに留学、サンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学』、明治二三(一八九〇)年に『法学士を得て』、帰国、『自由新聞の主筆とな』った。『翌年、同じ入間郡豊岡町の粕谷家の養子とな』。明治二五(一八九二)年に『埼玉県会議員に当選して県会副議長を務め』、明治三一(一八九六)年の第五回『衆議院議員総選挙に埼玉県第』二『区から自由党候補として出馬して初当選、以後憲政会・立憲政友会に移りながら』通算十回の『当選を果たした』。『入閣こそなかったものの、党の要職を歴任』、大正九(一九二〇)年に衆議院副議長、次いで、大正十二年には『衆議院議長に就任した。名議長として定評があった』が、昭和二(一九二七)年の『金融恐慌の影響で第』五十二『回議会が混乱状態となり、引責辞任した。また、蓬莱生命保険や武蔵野鉄道の役員を務めるなど、実業界でも名を残した』とある。南方熊楠より一つ年上。
「岡崎邦輔」(嘉永七(一八五四)年~昭和十一(一九三六)年)は政治家・実業家。ウィキの「岡崎邦輔」によれば、『自由党を経て、立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた』とある。慶應四(一八六八)年数え十六で鳥羽・伏見の戦いで初陣、明治六(一八七三)年、従兄弟の陸奥宗光を頼って上京、明治二一(一八八八)年に『駐米特命全権公使となった陸奥に従い』、『渡米する。アメリカで岡崎はミシガン大学で学び、この時期に南方熊楠と出会っている』。明治二三(一九〇〇)年に帰朝すると、翌年には『陸奥の議員辞職にともなう第』一『回衆議院議員総選挙補欠選挙で衆議院議員に当選する。このとき、当時の制限選挙で被選挙権を得るため、当時の紀州の素封家、岡崎家へ名目の上だけで養子となって姓を改めた』。以後、当選回数十回、明治三〇(一八九七)年には『自由党に入党する。陸奥宗光の没後は、自身と同じく陸奥の引き立てを受けた星亨に接近し、星の懐刀として隈板内閣倒閣、立憲政友会結成などに活躍』、明治三三(一九〇〇)年に第四次『伊藤内閣の逓信大臣となった星亨のもとで逓信大臣官房長を務めたが』、翌年に『星は刺殺されてしまう』。大正元(一九一二)年には『立憲国民党の犬養毅、政友会の尾崎行雄らとともに第』三『次桂内閣の倒閣に動き、憲政擁護運動を展開』、大正四年に『政友会総務委員に就任する。西園寺公望の政友会総裁辞任後は、自身と同じく陸奥宗光の引き立てを受けた原敬を支え』た(大正七年に原内閣誕生)。大正十年十一月四日に原が東京駅丸の内南口コンコースで右翼少年に刺殺された後は、『政友会刷新派を支持し』、第二次『護憲運動で活躍』、『清浦内閣倒閣と、憲政会総裁・加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立に動』き、大正一四(一九二五)年に『加藤高明内閣の農林大臣として入閣』、昭和三(一九二八)年には『貴族院議員に勅選され』た。『実業家としては、渋沢栄一らとともに京阪電気鉄道の創立に加わり、発足後は役員を務め』、大正六年、第三代社長となっている。『岡崎は自らの政界の人脈を利用する形で京阪の事業拡大を図り、社長在任中に新京阪鉄道の免許獲得と設立、自らの故郷である和歌山県への進出などを手がけている。農林大臣への就任に伴い』、社長は『辞任した。また京阪電気鉄道が設立に参加した電力会社の大同電力(初代社長福澤桃介)にも』関わっており、同社取締役をも務めた。
「川田鷹」「たかし」と読むか。幕末から明治期の漢学者川田甕江(おうこう:本名・剛(たけし))の長男で熱帯産業社長であった川田鷹か。因みに剛の三男には歌人で住友財閥の要職を務めた川田順がいる。次の「杉山三郊」も参照されたい。
「杉山三郊」外務省官僚で書家・漢詩人であった杉山令(安政二(一八五五)年~昭和二〇(一九四五)年)の号。サイト「歴史が眠る多磨霊園」(私の母がおり、そして私も入ることになる慶応大学医学部解剖学教室合葬墓がここにはある。いわば私の将来の墓地である)のこちらによれば、『岐阜県安八郡神戸町(輪之内町)出身。父は漢学者の杉山千和の三男』。『幼い頃から父に漢字と書の英才教育を受け』十八歳で『神戸村に玉成義校(神戸小学校の前身)が創設されると、漢字、筆学の教師』となり、『その後、大垣師範研修学校に学び、岐阜の学校に勤務したが、向学の志』堅く、友人『河野春庵と中山道を徒歩で上京し、川田甕江塾に入門』、『師で儒者の川田甕江の娘と結婚した』。『その後、警視庁に勤めたが』、三十二『歳の時に辞し、米国ミシガン州のアンナボーア大学に留学。帰国後、外務省に入省し』、三十九『歳の時に陸奥宗光の秘書官となる。以降、陸奥宗光の懐刀として三国干渉に活躍し、日清戦争の講話条約の話し合いに参加、外交上の文書や条約文の草案作製に』当たっている。『日露戦争で旗艦三笠に掲げられたZ旗の』「皇國の興廢此の一戰に在り。各員一層奮励努力せよ」という『言葉は、杉山の発案であったのを』、『小笠原長生が自分の発案だと東郷司令長官に上申したとの逸話が』残る。『東京商科大学(一橋大学)、早稲田大学の教授となり』、五十『年以上に』亙って『漢学や詩文を担当した。特に手紙文の指導は最も得意とした授業であったとされる』とある。
「飯島善太郎」不詳。識者の御教授を乞う。
「埼玉県入不止(いりやまず)」不詳。現行では埼玉県にこの読みの地名を見出せない(一般には「不入斗」という表記地名として知られ、千葉県市原市・千葉県富津市・神奈川県横須賀市等、関東・東海地方に多くあるので、埼玉にあっておかしくはない。由来は、寺社領などで貢納を免ぜられた不入権を持つ田地のある場所を意味し、旧庄園地名の一種である。
「山県侯」既出既注の山縣有朋。
「中山寛太郎」不詳。
「大正二年」本書簡は大正一四(一九二五)年一月三十一日(熊楠五十九歳)の執筆。
「カルキンス大佐」ウィリアム・ヴィルト・カルキンス(William Wirt Calkins 一八四二年~一九一四年)。アメリカ・イリノイ州出身の軍人・弁護士で、地質学・貝類学・植物学を趣味としたアマチュア自然科学者でもあった(英文サイトのこちらを参照されたい)。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、他に、菌類や『地衣類などを研究し、膨大な数の顕花植物、菌類、地衣類などの標本を残し』、その論文・著書は実に約百五十篇に及ぶとあり、熊楠とは実際には面会した『ことはないようで、交際は文通で行なわれ』たとある。
「ジャクソンヴィル市」“Jacksonville”はフロリダ州北東部に位置する都市で、現在、同州最大人口で全米でも第十一位の大都会である。
「「支那人の牛肉店」ウィキの「南方熊楠」は、この店主の名を『江聖聡』と記し、『新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡がはいる』ともある。
「二十四年」一八九一年であるが、前からの誤認が後を引いており、このキューバ行も翌明治「二十五年」の九月の誤りである。
「大正四年」一九一五年。
「米国植物興産局主任スウィングル氏田辺に来たり」「スウィングル」はアメリカの農学者で米国農務省に勤務していたウォルター・テニスン・スウィングル(Walter Tennyson Swingle 一八七一年~一九五二年)のこと。「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、当時の『柑橘属の分類研究の世界的権威』で、熊楠とは『文通を通じて親しくなり』、一九〇九年(明治四十二年)『には熊楠を渡米を要請。しかし、熊楠は家庭の事情により固辞』した。しかし、『この渡米要請のことが新聞に報じられ、熊楠の国内での評価が高ま』った。大正(一九一五)年五月五日には来日していたスティングル本人が農学者田中長三郎(後注参照)の案内で田辺の南方邸を訪れ、再度、熊楠に渡米を要請したものの、やはり熊楠は固辞し、『代わりに田中長三郎が米国に行くこととな』ったとある。「南方熊楠コレクション」の注によれば、最初の米国招聘以降の文通で親しくなったとし、田辺来訪の翌『六日には神島』(かしま)『に渡るなど歓待した』と記す。
「地衣」地衣類は菌類と藻類とが共生している生物で、普通は“Lichenes”(ライケンス)と称し、特殊な生物群として分類され、現在、約四百属二万種が記載されている。形態には葉状・樹状・鱗状で、瘡蓋状で他の対象に固着するものなどがある。菌類の多くは子嚢菌類又は不完全菌類であるが,少数の種群(Cora・Corella・Dictyonemaなどの属)は担子菌類のイボタケ科 Thelephoraceaeのものとされ、また一科一属一種の藻菌地衣類 (Geosiphon(ゲオシフォン))が知られている。藻類には藍藻の場合と緑藻の場合とがあり、これらの藻類は地衣類から切り離されても独立の生活をすることが可能なことは実験的には成功しているものの、菌類のみを独立に生活させることは極めて困難である(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「ニイランデー」南方熊楠はフランスのと言っているが、正しくはフィンランド人植物学者で特に地衣類の研究で知られ、後期の主な研究をパリで行ったウィリアム・ナイランダー(William Nylander 一八二二年~一八九九年)のことである。ウィキの「ウィリアム・ナイランダー」によれば、『フィンランド中部のオウルに生まれた。ヘルシンキ大学で医学を学んだ。動物学とくに昆虫学に転じ、その後植物学に研究分野を移し』、一八五七年に『ヘルシンキ大学に新たに設けられた植物学の教授職に就任』、六年の間、『教授職を務めた後、パリにでて、時折、パリ自然史博物館の仕事をするほかは組織に属さない研究者として過ごした』。一八七八年に『フィンランドから年金を受け取るが、パリで地衣類の膨大なコレクションを作り、世界的に地衣類の研究の指導者となった』。三千『の種を同定し』、三百『にのぼる論文を執筆』、『地衣類の研究に化学成分の分析などの手法を導入した』。『ナイランダーは市街化した地域から地衣類が消滅していく現象について、最初に報告した生物学者の』一『』人であり、地衣類が大気汚染の指標として用いられる基礎を築いた』。但し、『ナイランダーは地衣類が菌類と藻類の共生体だと最初に提唱したジーモン・シュヴェンデナーの理論には激しく反対した』。五万『点に及んだ、ナイランダーの地衣類の標本は現在はヘルシンキ大学内のフィンランド自然史博物館(フィンランド語版、英語版)に保存されている』とある。
「ギアレクタ・クバナ」石灰岩の中に入り込んで棲息する地衣類で「岩石内生endolithic」類(石灰岩生類)の一種であるGualecta属Gualecta
Cubana Nyl.(音写は「グアレクタ・クバーナ」が近そうである)。種小名は発見地キューバを意味する。
「家弟方」「いえおとうとがた」と読むか。それらを保管していた、主「家」を継いだ南方熊楠の「弟」の実家「方」の謂い。実弟南方常楠(明治三(一八七〇)年~昭和二九(一九五四)年)は東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業後、父弥右衛門とともに酒造業を始め、南方酒造(現在も続く清酒「世界一統」で、こちらの公式サイトの「沿革」を参照されたい)の基礎を作り、和歌山市議会議員なども務めた。次の段落に出る実父弥右衛門の臨終の遺言も参照されたい。
「田中長三郎」(明治一八(一八八五)年~昭和五一(一九七六)年)は台北帝国大学農学部・東京農業大学農学部・大阪府立大学農学部などの教授を歴任した農学者。学位は農学博士(東京帝国大学)・理学博士(九州大学)。ウィキの「田中長三郎」によれば、『ミカン科植物、中でも柑橘属の分類研究の世界的権威として』先に出たウォルター・スウィングルと『並び称される。生涯に渡って研究を重ね、分類した種は柑橘属だけで』一五九種(その他・未分類三種)に『及ぶ。またウンシュウミカンの代表的品種である宮川早生の発表やセミノールの導入など、現在の柑橘産業に多大な貢献を果たした』。「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、先に述べた通り、熊楠の代わりに米国に赴いた『田中長三郎はスウィングルの下で柑橘の研究を行ない』、大正八(一九一九)年の帰国後は『南方熊楠のために南方植物研究所の設立を思い立ち、「南方植物研究所設立趣意書」の草稿をしたため、力を尽くし』たが、『南方植物研究所は資金が十分集まらず』、設立出来なかったと記す。]