「想山著聞奇集 卷の貮」 「山𤢖(やまをとこ)が事」
山𤢖(やまをとこ)が事
[やぶちゃん注:「やまをとこ」のルビは目録のそれを用いた。底本本文原文では編者によって丸括弧で附されてあるが、ということは原典では本文のここの標題にはルビはないということが判明する。「山𤢖」は私は「やまわろ」という読みの方が親しい。ウィキの「山わろ」によれば、元、『山𤢖(さんそう)とは本来中国に伝わる伝説上の生物あるいは妖怪』で、「山蕭」「山臊」とも『書かれる。中国の古書『神異経』には、西方の深い山の中に住んでおり、身長は約1丈余り、エビやカニを捕らえて焼いて食べ、爆竹などの大きな音を嫌うとある。また、これを害した者は病気にかかるという。食習慣や、殺めた人間が病気になるといった特徴は、同じく中国の山精(さんせい)にも見られる』とし、寺島良安の「和漢三才図会」などにおいては、『この山𤢖(さんそう)に対して「やまわろ」の訓が当てられている。「やまわろ」という日本語は「山の子供」という意味で「山童」(やまわろ)と同じ意味であり、同一の存在であると見られていた』とある。私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「山※4(やまわろ)」(山𤢖。古い電子化で当時はユニコードが使用出来なかった。悪しからず)条を是非、参照されたい。]
目白く、大さ通例の茶碗の𢌞り程も有たる樣に見受(みうけ)、面體(めんてい)は薄赤く見え、其身、惣體(さうたい)は黑く見たるよし。
是は篠竹と云(いひ)て矢竹(やだけ)にする竹なり。一面に生ひたり。別(べつし)て此山は奧深き山にて、先年より斧いらずと申(まうす)所もこれ有(あり)、竹の丈(たけ)は八九尺程づつより、一丈位のも有となり。
[やぶちゃん注:以上は本文に挿入された上図のキャプション。
「斧いらず」とは、斧が不要の謂いではなく、細い竹がみっちりと密生しているために、斧を入れる、揮っても、それらは切れず、前へ進めぬ難所という謂いと私は採る。
「八九尺」二メートル四十三センチから二メートル七十三センチ弱。
「一丈」三メートル三センチ。]
深山に山男と云もの有て見たりと云(いふ)咄(はなし)は、所々にて云傳(いひつた)ふる事にて、其事の記したる書も、彼是(かれこれ)有(あり)て、其種類もいくらもある事にや。又は僅(わづか)一兩人有て、山々を巡り步行(ありく)事か量り難し。山魅木客(さんびもくかく)[やぶちゃん注:山やそこにある木の霊(すだま)や妖魅。読みは「さんみぼくかく」でもよかろう。「山精木魅」の方が一般的のようだ。]など云(いふ)も同種にや。何にもせよ、深山には、大いなる人躰(じんてい)をなしたるものあるには相違なく、我國君(わがこくくん)[やぶちゃん注:底本の編者注の読み。同注に『この場合は、尾張藩主徳川氏。十世斎朝から十二世斉荘(なりたか)の間であろう』とあるから、これは寛政十一(一七九九)年から弘化二(一八四五)年に相当する。]の御領、木曾の山奧へ入込居(いりこみゐ)たる木曾奉行[やぶちゃん注:木曾材木奉行のこと。木曽山林の管理を行った尾張藩の職名。]の下役などは、その足跡は折々見る事と追々聞たり。是(これ)謂ゆる巨人の足跡と云ものにや。【巨と云(いふ)字は、大足跡共(とも)訓(くんずる)字と聞置(ききおき)し。漢土にも、大なる足跡斗(ばかり)有て其人はいかなる人にやしれず、是を巨人の跡と云來(いひきた)れり。大足跡の事は廿三のまきに云置(いひおき)たり。[やぶちゃん注:この割注叙述から本文の「巨人」は「きよじん」と読んでいるように私は思う。なお、「廿三の」巻は刊行されず、散逸したものと思われる。残念至極。]】予が竹馬の友石川何某、先年、木曾方にて在勤をなし、年々深山へ入(いり)たる時、山男の草鞋(わらぢ)と云ひ傳(つたふ)る物の捨(すて)あるを二度見たり。藁にてはなく、藤の皮にて造(つくり)たる物にて、珍敷(めづらしき)品なり。今ならば、拾ひ來り、人にも見せ申べきに、若き節ゆゑ、心なく見捨來りしは殘念との事也。其大さ、佛足【長さ三尺斗】にはき給ふて宜しかるべき程に見請(みうけ)しといへり。元來、いか樣(さま)の所に住むものにや。年來(としごろ)、山入(やまいり)のみ致し居(をり)たる者の申傳へもなく、其形さへ容易(たやすく)は見せぬ者のよし。其頃【文化の末より文政のはじめの事なり。[やぶちゃん注:文化は十五年でグレゴリオ暦一八一八年。】木曾山の内玉瀧山[やぶちゃん注:底本では「玉」の右に『(王)』と訂正注する(後の「玉瀧村」も同じ)。「王滝山」は御嶽山の南東直近のピーク。]【御嶽山の南のかた、福島よりは七八里乾(いぬゐ)のかたなり。[やぶちゃん注:「福島」は現在の長野県木曽郡木曽町福島。ここ(グーグル・マップ・データ)。]】所にて見候は、是こそ山男に疑ひなしと申(まうす)事のよし。夫(それ)は玉瀧村杣人(そまびと)金兵衞と云者、全鉢、元氣も勇氣も我慢も強く、大膽者にて、常々他の杣人よりは朝も早く出る事にて、其日も明六時(あけむつどき)[やぶちゃん注:不定時法。夏なら四時過ぎ、冬なら六時半過ぎ。]比(ごろ)に杣道具を脊負(せおひ)て、本(もと)伐り[やぶちゃん注:予め、藩に決められた公的伐採区域を指すか?]に行(ゆく)とて、只一人元小屋より出、【元小屋とは木を伐(きる)節、深山に小屋を懸け役人を初(はじめ)、杣等(ら)出張居(でばりを)るところなり。】深山へ廿町[やぶちゃん注:二キロメートル強。]計り登りしに、後の方にて、大竹にてもわる樣成(なる)音響きたる故、振返りみれば、繪圖のごとき姿のもの故、夫成(それなり)に覺(おぼえ)なく[やぶちゃん注:そのまま判断する暇(いとま)もなく。]逃出(にげいだ)し、道迄も取違へ、一谷ひとたに)向ひの谷へ下りて、漸(やつと)氣も慥(たしか)に成(なり)たれども、愈(いよいよ)恐ろ敷(しく)、振ひ氣(げ)など出(いで)て、中々再び本伐(もとぎり)の場所へ行(ゆく)べくもあらず。早々元小屋へ歸りても、顏いろ猶(なほ)靑ざめ、兩三日も小屋に休居(やすみをり)ければ、居合(ゐあひ)たる者、一同不審して、其語(そのこと)を段々尋(たづね)たる所、前に記したる趣を具(つぶさ)に語り、兎角氣分勝れ兼(かぬ)る迚(とて)、下山の儀を願ふゆゑ、宿元へ歸らせし。形計りながら、其節の圖也とて、彼(かの)石川の見せし故、其儘寫し置(おき)ぬ。不敵なる男ながら、驚きたるもことはり[やぶちゃん注:ママ。]也。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
山男の事は諸書にしるし有(あり)。近くは北越奇談・周遊奇談・北越雪譜等にも記し有(あれ)ども、みな一樣ならず。其内、周遊奇談に有(ある)豐前(ぶぜん)の中津領の奧山に住む山男と、北越雪譜に有る魚沼郡の山中にて出たる山男とは、其趣、能(よく)似たり。同じ種類かと思はれぬ[やぶちゃん注:「思はるる」の誤りであろう。]。され共、爰に記したる山男は又別種と見えたり。深山の奇怪、はかるべきに非ず。
[やぶちゃん注:「北越奇談」文化九(一八一二)年に刊行された随筆集で全六巻。越後国の文人橘崑崙(たちばなこんろん)の筆になり、校合・監修・序文は稀代の戯作者柳亭種彦、挿絵はその大部分を、かの葛飾北斎が描いている。想山の言っているのは、「四之卷 怪談」の「其十」であろう。【2017年8月26日削除及び追記】今月始めた「北越奇談」の電子化注がここに達した。本文は原典を底本にブラッシュ・アップ、挿絵も合成加工して見易くし、注も新たにオリジナルに附したものを本日公開したので、ここに挙げていたものは画像を含め、削除した。リンク先を参照されたい。
「周遊奇談」昌東舎著。文化三(一八〇六)年刊。私は所持しないので当該部を示せない。
「北越雪譜」既出既注。想山の述べているのは同「第二編卷之四」巻頭の「異獸」である。やや長いが、私の好きな「北越雪譜」なれば、以下に引いておく。底本は岩波文庫版だが、恣意的に正字化した。踊り字「〱」は正字化した。【 】は原典の割注。図も附した。
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魚沼郡堀内(ほりのうち)より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道(かんだう)なり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮(ちゞみ)なにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の晝(ひる)すぐる頃竹助といふ剛夫(がうふ)をえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途(みち)も稍々(やゝ)半にいたるころ、日ざしは七ツ[やぶちゃん注:午後四時頃。]にちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰(こし)かけ燒飯(やきめし)をくひゐたるに、谷間(たにあひ)の根笹(ねさゝ)をおしわけて來(きた)る者あり、ちかくよりたるを見れば猿(さる)に似(に)て猿にもあらず。頭(かしら)の毛長く脊(せ)にたれたるが半(なかば)はしろし、丈(たけ)は常並(つねなみ)の人よりたかく、顏(かほ)は猿に似て赤からず、眼(まなこ)大にして光りあり。竹助は心剛(がう)なる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提(ひつさげ)、よらば斬(きら)んと身がまへけるに、此ものはさる氣色(けしき)もなく、竹助が石の上におきたる燒飯(やきめし)に指(ゆびさ)しくれよと乞(こ)ふさまなり。竹助こゝろえて投與(なげあた)へければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかるがるとかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの禮にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨(けんそ)の道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村(いけだにむら)ちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語(かた)りしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをりをりは此異獸を見たるものもありしとぞ。
○前にいふ池谷村の者の話に、我れ十四五の時村うちの娘に機(はた)の上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる囱(まど)のもとに機(はた)を織(おり)てゐたるに、囱(まど)の外(そと)に立(たち)たるをみれば猿のやうにて顏(かほ)赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ獨りなればことさらに惧(おそ)れおどろき、逃(にげ)んとすれど機(はた)にかゝりたれば腰にまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃(めしびつ)に指(ゆびさ)して欲(ほし)きさまなり、娘此異獸(いじう)の事をかねて聞(きゝ)たるゆゑ、飯を握(にぎ)りて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをりをり來りて飯を乞(こ)ふゆゑ、後には馴(なれ)ておそろしともおもはずくはせけり。
○さて此娘、尊用[やぶちゃん注:貴人の要請。]なりとて急(いそぎ)のちゞみをおりかけしに、折ふし月水[やぶちゃん注:生理。]になりて御機屋(はたや)に入る事ならず。【御機屋の事初編に委しく記せり】手を停(とゞ)め居れば日限に後(おく)る、娘はさらなり、雙親(ふたおや)も此事を患(うれ)ひ歎きけり。月やく[やぶちゃん注:「厄」。生理が始まりの謂い。]より三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農(のう)業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議とおもひながら身をきよめて御機(はた)を織果(おりはて)、その父問屋へ持去(もちさ)り、往着(ゆきつき)しとおもふ頃娘時ならず俄(にはか)に紅潮(ゆきやく)になりしゆゑ、さては我が歎(なげき)しを聞(きゝ)てかのもの我を助(たすけ)しならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語(かたれ)り。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連(つれ)ある時は形(かたち)を見せずとぞ。又高田の藩士(はんし)材用にて樵夫(きこり)をしたがへ、黑姫山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似(に)て猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて燒火(たきび)にあたれり。たけは六尺ばかり、赤髮(あかきかみ)、裸身(はだかみ)、通身(みうち)灰色(はいいろ)にて、毛の脱(ぬけ)たるに似たり、腰より下に枯(かれ)草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴(なれ)しと高田の人のかたりき。按(あんず)るに和漢(わかん)三才圖會(づゑ)寓類(ぐうるゐ)の部(ぶ)に、飛驒(ひだ)美濃(みの)あるひは西國の深山(しんざん)にも如件(くだんのごとき)異獸(いじう)ある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。
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