南方熊楠 履歴書(その15) ロンドンにて(11) 大英博物館出入り禁止から帰国へ
こんなことにて兄の破産のつくろいに弟常楠は非常に苦辛したが、亡父存日すでに亡父の一分と常楠の一分を含め身代となし、造酒業を開きおりしゆえ、兄の始末も大抵かたづけし。しかるに兄破産の余波が及んだので、常楠が小生に送るべき為換(かわせ)、学資を追い追い送り来たらず。小生大いに困りて正金銀行ロンドン支店にて逆為替を組み、常楠に払わせしもそれもしばらくして断わり来たれり。よって止むをえず翻訳などしてわずかに糊口し、時々博物館に之(ゆ)きて勤学するうち、小生また怒って博物館で人を撃つ。すでに二度までかかることある以上は棄ておきがたしとあって、小生はいよいよ大英博物館を謝絶さる。しかるにアーサー・モリソン氏(『大英百科全書』に伝あり、八百屋か何かの書記より奮発して小説家となり、著名な人なり。今も存命なるべし)熊楠の学才を惜しむことはなはだしく、英皇太子(前皇エドワード七世)、カンターベリーの大僧正、今一人はロンドン市長たりしか、三方へ歎訴状を出し(この三方が大英博物館の評議員の親方たりしゆえ)、サー・ロバート・ダグラスまた百方尽力して、小生はまた博物館へ復帰せり。この時加藤高明氏公使たりし。この人が署名して一言しくれたら事容易なりしはず、よって小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)を経由して頼み入りしも、南方を予よりもダグラスが深く知りおれりとて加勢しくれざりし。しかるに、今度という今度は慎んでもらわにゃならぬとて、小生の座位をダグラス男の官房内に設け、他の読書者と同列せしめず。これは小生また怒って人を打つを慮(おもんぱか)ってなり。小生このことを快からず思い、書をダグラス男に贈って大英博物館を永久離れたり。小生は大英博物館へはずいぶん多く宗教部や図書室に献納した物あり。今も公衆に見せおるならん。高野管長たりし土宜(どき)法竜師来たとき小生の着せる袈裟法衣等も寄付せり。ダグラス男に贈った書の大意は、日本にて徳川氏の世に、賤民を刑するにも忠義の士(倒せば大石良雄)を刑するにも、等しく検使また役人が宣告文を読まず刑罰を口宣(こうせん)せり。賤民は士分のものが尊き文字を汚して読みきかすに足らぬもの、また忠義の士はこれを重んずるのあまり、将軍の代理としてその言を書き留むるまでもなく、口より耳へ聞かせしなり。さて西洋にはなにか手を動かすと、これを発作狂として処分するが常なり(乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う)。日本人が人を撃つにはよくよく思慮して後に声をかけて撃つので決して狂を発してのことにあらず。今予を他の人々と別席に囲いてダグラス男監視の下に読書せしむるは、これ予を発狂のおそれあるものと見てのことと思う人は多かるべく、予を尊んでのことと思う人は少なかるべければ、厚志は千万ありがたいが、これまで尽力しくれた上はこの上の厚志を無にせぬよう当館に出入せざるべしと言いて立ち退き申し候。大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候。
[やぶちゃん注:「逆為替」金の受取側が「振出人」で、支払側が「名宛人」となる「為替手形」。現行では専ら、輸出代金の回収で用いられている。
「正金銀行」既出既注。
「小生また怒って博物館で人を撃つ」前回の殴打事件が一八九七年十一月八日、今回のそれはそのほぼ一年後の一八九八年十二月六日で、しかも前回と同じ閲覧室であった。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの牧田健史氏の「英国博物館 The British Museum」によれば、この時のトラブルは『女性閲覧者の私語が原因となって館員との間で紛争となったもの』とある。
「大英博物館を謝絶さる」南方熊楠は閲覧室への出入禁止だけでなく、同博物館図書室自体の許されていた利用許可が停止されてしまったのである。
「アーサー・モリソン」イギリスのジャーナリストで作家、また東洋美術蒐集家でもあったアーサー・ジョージ・モリスン(Arthur George Morrison 一八六三年~一九四五年)。ウィキの「アーサー・モリソン」によれば、『ロンドンのイースト・エンドで生まれる。少年時代や教育については詳しいことは分かっていない』。一八八六年から一八九〇年まで『事務員として働いた後、新聞界に身を転じ、『ナショナル・オブザーヴァー』に籍を置いた。彼はここで様々な寄稿をするとともにロンドンのスラム街を描いた作品を発表、本として出版して評判を得た。以後スラムの生活を描いた小説などを多く発表』(“Tales of Mean Streets”(「貧民街の物語」 一八九四年)等)、『作家として名声を得た。東洋美術の第一人者としても著名で、蒐集した美術品は現在大英博物館に収蔵されている』。一八九四年に『シャーロック・ホームズが『最後の事件』によって連載終了になると、その穴を埋めるべく『ストランド・マガジン』はモリスンに新しい推理小説の連載を依頼した。こうして』一八九四年から一九〇三年まで、『探偵マーチン・ヒューイットの登場する推理小説が連載されることになる。マーチン・ヒューイットは決して超人的ではない平凡な探偵だが、ロンドンの風俗描写やシドニー・パジェットの挿絵などでなかなかの人気を博した。後年ヴァン・ダインやその他の評論家からも高く評価されている』とある。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「モリソン Morrison, Arthur 1863-1945」によれば、『熊楠とは一八九八年頃から頻繁に付き合っていたようである』とあるから、この二度目の殴打事件の年の事件前に出逢いがあったものであろう。松居氏は続けて、『モリソンには、のちに日本美術に関する著作があり、あるいはそうした関心がもとで熊楠と知り合ったかと想像される。熊楠の方も、他の年配の学者連とは違って、そう歳の変わらないモリソンとは気楽に付き合っていたのだろう。英国国王も会員となっているサヴィジ・クラブで遇されたことを「モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし」といぶかしがっていたくらいである』。『ところが、それから十数年経った一九一二年に、熊楠は最新版の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の中にモリソンの略伝を見出す。生存中の人物のために一項を設けることはたしかに破格の扱いであり、やっと熊楠もモリソンの名声の高さに気が付いたのであった。それにしても、次のように描きだされたモリソンの飾らぬ横顔は、読むものに好感を抱かせずにはいないであろう』として、大正三(一九一四)年六月二日附柳田国男宛書簡から以下を引いておられる。『この人一語も自分のことをいわず、ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし、外国語は一つ知らず、詩も作り得ず、算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが、ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ、一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て、始めてその人非凡と知れり。』。
「大英百科全書」前注に出、以前にも注した“Encyclopædia Britannica”(エンサイクロペディア・ブリタニカ:「ブリタニカ百科事典」)。
「英皇太子(前皇エドワード七世)」(Edward VII/Albert Edward 一八四一年~一九一〇年)は当時は母ヴィクトリア女王が在位しており、「プリンス・オブ・ウェールズ」(皇太子)の立場にあった。彼の王としての在位は一九〇一年から一九一〇年までの九年に過ぎず、崩御とともに次男ジョージ五世(George V/George Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)が王位を継いだ。
「カンターベリーの大僧正」当時のカンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury:イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教)はフレデリック・テンプル(Frederick Temple 一八二一年~一九〇二年)。
「ロンドン市長」事件は一八九八年末であるから難しい。ネット上のデータでは一八九八年はSir John Moore なる人物で、翌一八九九年ならば、Alfred Newton なる人物である。後者か。
「サー・ロバート・ダグラス」既出既注。
「加藤高明」既出既注。
「小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)」小池張造(ちょうぞう 明治六(一八七三)年~大正一〇(一九二一)年)は外交官。松川藩士の子として福島県に生まれた。明治二九(一八九六)年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官補となって朝鮮に勤務、翌年、英国在勤となり、加藤高明公使に能力をかわれた。明治三十三年に加藤が第四次伊藤博文内閣の外相に就任すると、秘書官兼書記官として本省に戻されたが、翌年には清国、翌々年には英国の公使館書記官となった。その後、ニューヨーク・サンフランシスコ・奉天の各総領事を勤め、明治四五(一九一二)年に英国大使館参事官となった。第一次山本権兵衛内閣では外務省政務局長、続く第二次大隈重信内閣の外相は再び加藤となり、その下で対華二十一カ条要求や中国第三革命をめぐって精力的に活動したが、外務官僚としては異例の志士的心情を持っていたことから何かと物議を醸した。寺内正毅内閣下で英国大使館参事官に任命されたが、辞職、阪神財閥の一つである久原本店の理事となって実業界入りした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「書をダグラス男に贈って」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『同日付の「陳状書」には、前回の事件を含めて日本人への度重なる侮辱があったと述べている』とある。
「高野管長たりし土宜(どき)法竜師」簡単に既注している。明治二(一八六九)年より高野山の伝法入壇に入った高僧。当時、真言宗法務所課長(明治一四(一八八一)年に二十七歳で就任)であった彼は、明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本の真言宗の代表として、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)・芦津実全(天台宗)・八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の仏教学者四名で渡米、ニュヨークを経て、ロンドンからパリへ向かい、仏教関係の資料の調査・研究を行ったが、この時、ロンドンで横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家に於いて南方熊楠と面会、以来、没するまでの三十年間に渡って膨大な往復書簡を交わしている。南方熊楠より十三年上。なお、彼が高野山(派)管長となるのは後の大正九(一九二〇)年であるので注意されたい。但し、ここは南方熊楠の誤りではなく、この書簡執筆時には「高野管長」であったのだから、問題ない。しかし、彼が「来たとき」に「小生」南方熊楠が「着」していた「袈裟法衣等も寄付せり」というのは私にはよく意味が判らない。土宜は自身の着替えの予備として持って来ていた袈裟や法衣を熊楠に贈ったものででもあったか。
「乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う」乃木希典(嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年)年九月十三日)の自刃は熊楠の帰国から十二年後のことである。この熊楠の断定的謂いは、その頃に手紙のやりとりをしていた外国人からの情報の基づくものと思われる。
「大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候」これはかなり意外な自己分析と言える。彼はその暴力事件の最初にして最大の原因は弟の送金不通に対する鬱憤の山積に基づくと言っているからである。これは熊楠が自己の精神状態を平静に保てずに、他虐的行為によって代償的に暴行を揮ったという心的複合{コンプレクス)を認めている内容であり、はなはだ興味深いからである。]
しかるに、このことを気の毒がるバサー博士(只今英国学士会員)が保証して、小生を大英博物館の分支たるナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)に入れ、またスキンナーやストレンジ(『大英百科全書』の日本美術の条を書きし人)などが世話して、小生をヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)に入れ、時々美術調べを頼まれ少々ずつ金をくれたり。かくて乞食にならぬばかりの貧乏しながら二年ばかり留まりしは、前述のロンドン大学総長ジキンスが世話で、ケンブリジ大学に日本学の講座を設け、アストン(『日本紀』を英訳した人)ぐらいを教授とし、小生を助教授として永く英国に留めんとしたるなり。しかるに不幸にも南阿戦争起こり、英人はえらいもので、かようのことが起こると船賃が安くても日本船に乗らず高い英国船に乗るという風で、当時小生はジキンスより金を出しもらい、フランスの美術商ビング氏(前年本願寺の売払い品を見に渡来した人)より浮世絵を貸しもらい、高橋入道謹一(もと大井憲太郎氏の子分、この高橋をエドウィン・アーノルド方へ食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり。アーノルドも持て余せしなり)という何ともならぬ喧嘩好きの男を使い売りあるき、買ってくれさえすれば面白くその画の趣向や画題の解説をつけて渡すこととせしが、これも銭が懐中に留まらず、高橋が女に、小生はビールに飲んでしまい、南阿戦争は永くつづき、ケンブリジに日本学講座の話しも立消えになったから、決然蚊帳(かや)のごとき洋服一枚まとうて帰国致し候。外国にまる十五年ありしなり。
[やぶちゃん注:「バサー博士」イギリスの古生物学者で特に棘皮動物門ウミユリ綱関節亜綱 Articulata に属するウミユリ類を専門に研究していたフランシス・アーサー・バサー(Francis Arthur Bather 一八六三年~一九三四年)。当時は大英博物館地質学部助手。因みに、彼は明治二六(一八九三)年夏に日本を訪れ、東京帝国大学理科大学を見学、動物学教授箕作嘉吉や飯島魁らと逢い、三浦の臨海実験所も訪問していることから、日本への近親感があったことも、南方熊楠との関係をよいものとしたものと言える。熊楠とは一九九三年講談社現代新書刊の「南方熊楠を知る事典」によれば、『交際は一八九四年からはじまったようだが、一八九七年六月十三日には、熊楠バサー夫妻に軍艦富士を見学させ、翌年十一月一日には、英国で建造された軍艦敷島の進水式に招いている。バザー夫人はスウェーデン人で』、『熊楠はこの夫人とも親しくなったようで、浮世絵を贈ったりしている』。『また、熊楠を大英博物館の植物学部長ジョージ・マレーに紹介したのも』彼で、後年の名著、冠輪(かんりん)動物上門腕足(わんそく)動物門 Brachiopoda の腕足類の化石をテーマとした考証論文「燕石考(えんせきこう)」の『執筆においても、熊楠はバザーから多大の恩恵を受け』た。熊楠より四歳年上。
「ナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)」ロンドン・サウスケンジントンにある「ロンドン自然史博物館」(Natural History Museum)のこと。この当時は大英博物館の一部門で、永らくその扱いであったが、一九六三年には独自の評議委員会を持つ独立博物館となって大英博物館分館扱いではなくなっている。
「スキンナー」不詳。綴りは“Skinner”か。
「ストレンジ」不詳。綴りは“Strange”か。
「ヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)」現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる四百万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館でロンドンのケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)。ヴィクトリア女王(一八一九年~一九〇一年)と夫のアルバート公(一八一九年~一八六一年)が基礎を築いた。前身は一八五一年のロンドン万国博覧会の収益や展示品をもとに、一八五二年に開館した産業博物館であった。現在、先の自然史博物館・人類学博物館・科学博物館・インペリアル・カレッジ・ロンドンなどと隣接している(以上はウィキの「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」に拠る)。
「ロンドン大学総長ジキンス」既出既注。
「ケンブリジ大学」ケンブリッジ大学(University of Cambridge)。ウィキの「ケンブリッジ大学」によれば、『イングランド国王の保護なども受けて発展をはじめ、現存する最古のカレッジ、Peterhouse(ピーターハウス)は』一二八四年の創立で、『アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、ジョン・メイナード・ケインズ等、近世以降の人類史において、社会の変革に大きく貢献した数々の著名人を輩出してきた』大学である。
「アストン」既出既注。
「南阿戦争」「なんあせんそう」は「ボーア戦争」(Boer War/Anglo Boer War)のこと。イギリスとオランダ系アフリカーナ(ボーア人或いはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの植民地化を争った二回に亙る戦争全体を指す呼称であるが、ここは時制上、第二次ボーア戦争(独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と、大英帝国の間の戦争(一八九九年十月十一日~一九〇二年五月三十一日)の開戦を指す。
「フランスの美術商ビング氏」サミュエル・ビング(Samuel Bing 本名:Siegfried Bing 一八三八年~一九〇五年)のことであろう。ウィキの「サミュエル・ビング」によれば、パリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人で、一八七一年にフランスに帰化している。『日本の美術・芸術を欧米諸国に広く紹介し、アール・ヌーヴォーの発展に寄与したことで有名』。『ハンブルクで生まれる。実家は祖父の代からフランスの陶器やガラス器の輸入業をしていた』。一八五〇『年代に父親がパリに店を開き』、一八五四『年にフランス中央部に小さな磁器製作所を買い取ったのをきっかけに、ハンプルグで学業を終えたのち渡仏』、『普仏戦争後に日本美術を扱う貿易商となり』、一八七〇『年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功する。初来日は』明治八(一八七五)年で、日本を訪問後は、『古いものから近代のものまで幅広く扱うようにな』った。『ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店と言われており』、『また、ベルギー王立美術歴史博物館が所蔵する』四千『点の浮世絵もビングから購入したコレクターのものである』。『そのほか、パリの装飾美術博物館はもとより、オランダのライデン国立考古学博物館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館など、ヨーロッパ各地の美術館に日本美術を納品した』。一八八八年より一八九一年まで、『日本美術を広く伝えるために複製図版と挿絵が掲載された』“Le Japon artistique”(「芸術の日本」)『という大判の美術月刊誌を』四十『冊発行し、展覧会も企画した。毎号数多くの美しい浮世絵で彩られた『芸術の日本』は、フランス語、英語、ドイツ語の』三『か国語で書かれ、美術情報だけでなく、詩歌、演劇、産業美術といった各分野の識者による寄稿によって日本文化そのものへの理解に貢献した』。一八九五年には『「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l' Art Nouveau)の名で画商店を開いた。日本美術だけでなく、ルネ・ラリックやティファニーなど、同時代の作家の工芸品も多数扱い、店はアール・ヌーヴォーの発源地として繁盛した』とある。
「高橋入道謹一」(生没年不詳)はここに見るように、イギリス時代の熊楠の破天荒な相棒。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「高橋謹一 たかはし きんいち 生没年不詳」によれば、『広島県出身。熊楠の「新庄村合併について(十二)」によると、高橋ははじめ、シンガポールで事業を興すという大井憲太郎』(天保一四(一八四三)年~大正一一(一九二二)年:豊前宇佐生まれの政治家・社会運動家。二十で長崎で蘭学を学び、後に江戸に出て、幕府の開成所舎密局世話心得となった。明治維新後は自由民権運動の急先鋒として活躍、フランス革命思想に感じて「仏国政典」「仏国民選議院選挙法」を邦訳、明治七(一八七四)年の「民撰議院設立建白書」では尚早論を唱えた加藤弘之と論戦した。「愛国社」設立に参加、明治一五(一八八二)年立憲自由党に入党、明治十七年の秩父事件などの過激自由民権運動を指導、明治十八年十一月に朝鮮独立党への援助が露見して大阪で逮捕された。明治二五(一八九二)年には「東洋自由党」を創設、さらに日本労働協会・小作条例調査会を組織して機関誌『新東洋』発刊した)『について渡ったが』、『こと成らず、日本領事館、藤田敏郎らが醵金(きょきん)して、本人の希望するロンドンへ送り出したという。その時、藤田は大倉組龍動(ロンドン)出張所支配人大倉喜三郎に紹介状を書いた。それには、「此高橋謹一なる者、先途何たる見込無御座候へども、達(たつ)て貴地へ赴き度と申に故、其意に任せ候間だ、可然(しかるべく)御厄介奉願上候」とあったという。大倉は高橋を雇い入れたが、暇さえあれば台所を手伝うふりしてビールを飲んで眠ってばかりいるので、大倉夫人から疎まれそこを出たという。その時大倉出張店に、熊楠の中学時代の恩師鳥山啓(ひらく)の息子、嵯峨吉が勤めていて、鳥山が』「熊楠なら世話好きだから面倒を見てくれるだろう」と『話したので』、『高橋は大英博物館へ熊楠を訪ねてやって来た。明治三十(一八九七)年のことである』。『熊楠は高橋をエドウィン・アーノルド男爵』(後注参照)『宅へ世話したが、ここでも酒を飲んでは大声で歌をうたったりするので追い出されてしまう。しかし、ロンドンへ来て二ヵ月ほど経っていて言葉もどうやら話し、また書くことができるようになっていたので、骨董商の加藤章造』(サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『ロンドンで、日本の美術品・骨董品などの輸入販売の店を開いてい』た人物で、熊楠は『たびたび加藤章造の店を訪ねて』親しくしていたらしい。また、『熊楠のロンドン時代の手記には「武州忍藩の家老職の子」とあ』ると記す)『と組んで古道具の売買をして糊口をふさぐ術は心得ていた』。『そのうち熊楠が、大英博物館で乱暴を働いたとして出入りが止められる。高橋は、報恩はこの時だ、一緒に商売をしようと言って熊楠に浮世絵の解説を書かせた。この商売が当って画家ウルナー女史が二十点を九百円という大金で買い上げて熊楠らを驚かせたことがある』。『こうして一年あまりを過ごし、明治三十三年(一九〇一)九月一日、熊楠は帰国の途につくが、熊楠を見送ったのは、たった一人この高橋謹一だけであった。後日譚ではあるが、熊楠のもとへ大正十五年六月二十四日差出の加藤章造、富田熊作の連名の絵ハガキがロンドンから届いている。文中、ロンドンの近況を述べたあと、「高橋謹一の消息は不明」とあった。異郷で人知れず亡くなったのであろうか』とある。
「エドウィン・アーノルド」サー・エドウィン・アーノルド(Sir Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)のことではなかろうか? イギリスのジャーナリスト・紀行文作家・東洋学者・仏教学者にして詩人。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる』。詳しくはリンク先を見られたい。この彼のところへ「食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり」は私は全集を所持しないので不詳。
「外国にまる十五年ありしなり」南方熊楠が渡米してサンフランシスコに着いたのは、明治二〇(一八八七)年一月七日で、イギリスから日本に帰国したのは明治三三(一九〇〇)年十月十五日(神戸上陸)であるから、実際の滞英期間は十二年と約九ヶ月であった。数えとしても十四年で、年数がおかしい。]
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