柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その2) / 「妖魅の會合」~了
唐の貞元中、大理評事韓生なる者も駿馬を飼つてゐたが、或朝馬丁が厩舍に行つて見ると、馬は首を垂れ、汗びつしよりになつて喘いでゐる。非常な遠距離を疾驅したものの如くであつた。韓生は馬丁の報告を聞いて非常に怒り、夜ひそかに我が馬を盜み出して、そんなに疲弊させたのは何者だと云ひ、馬丁は苔で打たれたが、翌日も馬の疲勞してゐることに變りはない。馬丁は怪訝(けげん)に堪へず、その夕方は厩舍の戸を悉く閉ぢ、自分は中に入つて樣子を窺ふことにした。韓生の家には黑犬が一疋飼はれてゐたが、それが厩舍の戸に近付いて、且つ吠え且つ躍るやうにしてゐたかと思ふと、忽ち化して黑衣の一壯漢となつた。衣冠の類もすべて眞黑である。鞍を置き馬に跨がつて門のところに至り、世間並より遙かに高い門の垣を、一鞭くれて躍り越えた。黑衣の人はそのまゝいづくともなく駈り去つたが、何時聞かたつて戾つて來ると、先づ馬から下りて鞍を解く。黑衣の人はまた犬に逆戾りするのである。馬丁は仰天したけれど、誰にも話さず、依然注意を怠らなかつた。一夕黑犬が人に化し馬に乘つて去り、明け方近く歸つて來たのを見て、馬丁はその足跡を尋ねることにした。丁度雨あがりだつたので、蹄の跡は歷々と地に印されてゐる。南方十餘里の地點にある古墓の前で足跡は盡きた。馬丁は犯人を突き止めた探偵のやうに、この墓の側に小さな小屋を作り、先づこゝに來て張り番してゐると、果して夜になつて黑衣の人は馬に乘つてやつて來た。馬を下りて樹に繫ぎ、墓の中に入つて行く。墓の中には大勢居る樣子で、賑かに談笑してゐる。馬丁は小屋の中に俯伏しになつて、ぢつとその話を聞いてゐたが、暫くして黑衣の人は暇を告げて去らうとする。何人かぞろぞろ送つて出て墓の中は空になつた。褐色の衣を著た人が黑衣の人を顧みて、韓氏の名籍は今どこに在るか、と云ふ。あれは擣練石(きぬたいし)の下に隱して置きました、御心配御無用です、と答へてゐる。褐衣の方はまだ氣になる樣子で、用心して人に知られるなよ、知られると吾々の破滅だからな、と盜賊團めいたことを云つてゐたが、話を轉じて、時に韓氏の赤ン坊はまだ名が付かぬか、と聞き出した。あれはまだです、付いたら早速名籍に書き入れます、決して忘れあしません、などと云ふ。愈々以て探偵小説氣分が濃厚である。それでは明日の晩また來い、ゆつくり話さう、と褐衣の人が云ふのを最後に、黑衣の人は歸つて行つた。馬丁も明け方に家に還り、逐一韓生に密告に及んだ。韓生はじめて事の次第を知り、先づ肉を以て黑犬を誘ひ、出て來たところを縛つてしまつた。次に擣練石の下を調べて見たら、果して一軸の書があつて、韓氏の兄弟妻子から雇人に至るまで、洩れなく名前が記されてゐる。これが韓氏の名籍なるもので、一月ほど前に生れた子供だけが記されてゐない。犬は庭前に於て撲殺され、その肉は烹て雇人達に食はしめた。更に近郷の人を驅り催して、手に手に武器を携へ、郡南の古墓をあばいて數疋の犬を退治した。彼等はそれぞれ異つた毛色をしてゐたと「宜室志」にある。黑犬が突如として黑衣の人に化するあたりは、「西班牙犬の家」(佐藤春夫)の趣があるが、あゝいふ超然たる存在ではない。彼等はどうしても惡黨の集團で、韓氏の名籍などを拵へ、何か惡事をたくらみつゝあつたとしか考へられぬ。
[やぶちゃん注:「貞元」七八五年~八〇五年。
「大理評事」大理寺(中央政府で裁判を扱うのはここと審刑院と刑部で、この三機関を「三法司」と呼んだ)の属官で、地方に派遣されて裁判の審理を掌り、断獄の際の連署を任とした。
以上は「太平廣記」の「畜獸五」に「韓生」として「宣室志」から引いてある。
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唐貞元中、有大理評事韓生者、僑居西河郡南。有一馬甚豪駿。常一日淸晨、忽委首于櫪、汗而且喘、若涉遠而殆者。圉人怪之、具白于韓生。韓生怒。若盜馬夜出、使吾馬力殆、誰之罪。乃令朴焉。圉人無以辭。遂受朴。至明日、其馬又汗而喘。圉人竊異之、莫可測。是夕。圉人臥於廐舍。闔扉、乃於隙中窺之。忽見韓生所畜黑犬至廐中。且嘷且躍。俄化爲一丈夫、衣冠盡黑、既挾鞍致馬上、駕而去。行至門、門垣甚高、其黑衣人以鞭擊馬、躍而過。黑衣者乘馬而去、過來既。下馬解鞍。其黑衣人又嘷躍。還化爲犬。圉人驚異、不敢洩于人。後一夕、黑犬又駕馬而去、逮曉方歸。圉人因尋馬蹤、以天雨新霽、歷歷可辨。直至南十餘里。一古墓前、馬跡方絶。圉人乃結茅齋於墓側。來夕、先止於齋中。以伺之。夜將分、黑衣人果駕馬而來、下馬、繫于野樹。其人入墓、與數輩笑言極歡。圉人在茅齋中、俯而聽之、不敢動。近數食數頃、黑衣人告去。數輩送出墓外至於野、有一褐衣者。顧謂黑衣人曰、「韓氏名籍今安在。」。黑衣人曰、「吾已收在擣練石下。吾子無以爲憂。」。褐衣者曰、「慎毋泄、泄則吾屬不全矣。黑衣人曰、「謹受教。」。褐衣者曰、「韓氏稚兒有字乎。」。曰、「未也、吾伺有字、即編于名籍、不敢忘。」。褐衣者曰、「明夕再來、當得以笑語。」。黑衣唯而衣唯而去。及曉、圉者歸、遂以其事密告於韓生。生即命肉誘其犬。犬既至、因以繩系、乃次所聞。遂窮擣練石下。果得一軸書、具載韓氏兄弟妻子家僮名氏。紀莫不具、蓋所謂韓氏名籍也。有子生一月矣、獨此子不書、所謂稚兒未字也。韓生大異、命致犬于庭、鞭而殺之。熟其肉、以食家僮。已而率隣居士子千餘輩。執弧矢兵仗、至郡南古墓前。發其墓、墓中有數犬、毛狀皆異、盡殺之以歸。
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この話、本邦文人間ではかなり好まれている(?)ようで、南方熊楠は、かの名著「十二支考」の「犬に関する伝説」(大正一一(一九二二)年『太陽』初出)で、
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唐の貞元中大理評事韓生の駿馬が、毎日櫪中(れきちゅう)で汗かき喘(あえ)ぐ事遠方へ行きて疲れ極まるごとき故、圉卒(ぎょそつ)が怪しんで廐舎に臥し窺うと、韓生が飼った黒犬が来って吼(ほ)え躍り、俄に衣冠甚だ黒い大男に化け、その馬に乗って高い垣を躍り越えて去った。次いで還り来って廐に入り、鞍(くら)を解いてまた吼え躍るとたちまち犬になった。圉人驚異したが敢えて洩(も)らさず、その後また事あったので、雨後のこと故圉人が馬の足跡をつけ行くと、南方十余里の一古墓の前まで足跡あり。因って茅(かや)の小屋を結び帰り、夕方にその内に入りて伺うと黒衣の人果して来り、馬を樹に繋(つな)ぎ墓内に入り、数輩と面白く笑談した。暫くして黒衣の人を褐衣(かつい)の人が送り出で、汝の主家の名簿はと問うと、絹を擣(つ)く石の下に置いたから安心せよという。褐衣の人軽々しく洩らすなかれ、洩れたらわれら全からじといい、また韓氏の穉童(ちどう)は名ありやと問うと、いまだ名付かぬ、付いたら名簿へ編入しようという、褐衣の人、汝、明晩また来り笑語すべしといって去った。圉人帰って韓生に告ぐると、韓生肉を以てその犬を誘い寄せ縄で括り、絹を擣(う)つ石の下を捜るに果してその家妻子以下の名簿一軸あり、生まれて一月にしかならぬ子の名はなし、韓生驚いて犬を鞭(むちう)ち殺し、その肉を煮て家僮(かどう)に食わせ、近所の者千余人に弓矢を帯びしめ古墓を発(あば)くと、毛色皆異なる犬数疋出たので殺し尽して帰ったとある。ハンガリー人も黒犬に斑犬を魔形とし、白犬は吉祥で発狂せぬと信ずる(グベルナチスの『動物譚原』二の三三頁注)。
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と引用し(引用は「青空文庫」版のそれを用いた)、岡本綺堂はその「支那怪奇小説集」(昭和一〇(一九三五)年サイレン社刊:この本は現在、「支那」を「中国」と改変して呼称されている。私はこの見当違いの自主自粛コードは書誌学的に極めて馬鹿馬鹿しいことだと考えている)に「黒犬」という題で訳されてある。「青空文庫」のこちらから引く。
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黒犬
唐の貞元年中、大理評事(だいりひょうじ)を勤めている韓(かん)という人があって、西河(せいか)郡の南に寓居していたが、家に一頭の馬を飼っていた。馬は甚だ強い駿足(しゅんそく)であった。
ある朝早く起きてみると、その馬は汗をながして、息を切って、よほどの遠路をかけ歩いて来たらしく思われるので、厩(うまや)の者は怪しんで主人に訴えると、韓は怒った。
「そんないい加減のことを言って、実は貴様がどこかを乗り廻したに相違あるまい。主人の大切の馬を疲らせてどうするのだ」
韓はその罰として厩の者を打った。いずれにしても、厩を守る者の責任であるので、彼はおとなしくその折檻(せっかん)を受けたが、明くる朝もその馬は同じように汗をながして喘(あえ)いでいるので、彼はますます不思議に思って、その夜は隠れてうかがっていると、夜がふけてから一匹の犬が忍んで来た。それは韓の家に飼っている黒犬であった。犬は厩にはいって、ひと声叫んで跳(おど)りあがるかと思うと、忽ちに一人の男に変った。衣服も冠もみな黒いのである。かれは馬にまたがって傲然(ごうぜん)と出て行ったが、門は閉じてある、垣は甚だ高い。かれは馬にひと鞭(むち)くれると、駿馬(しゅんめ)は跳(おど)って垣を飛び越えた。
こうしてどこへか出て行って、かれは暁け方になって戻って来た。厩にはいって、かれはふたたび叫んで跳りあがると、男の姿はまた元の犬にかえった。厩の者はいよいよ驚いたが、すぐには人には洩らさないで猶(なお)も様子をうかがっていると、その後のある夜にも黒犬は馬に乗って出て、やはり暁け方になって戻って来たので、厩の者はひそかに馬の足跡をたずねて行くと、あたかも雨あがりの泥がやわらかいので、その足跡ははっきりと判った。韓の家から十里ほどの南に古い墓があって、馬の跡はそこに止まっているので、彼はそこに茅(かや)の小家を急造して、そのなかに忍んでいることにした。
夜なかになると、黒衣の人が果たして馬に乗って来た。かれは馬をそこらの立ち木につないで、墓のなかにはいって行ったが、内には五、六人の相手が待ち受けているらしく、なにか面白そうに笑っている話し声が洩れた。そのうちに夜も明けかかると、黒い人は五、六人に送られて出て来た。褐色の衣服を着ている男がかれに訊いた。
「韓の家(いえ)の名簿はどこにあるのだ」
「家(うち)の砧石(きぬたいし)の下にしまってあるから、大丈夫だ」と、黒い人は答えた。
「いいか。気をつけてくれ。それを見付けられたら大変だぞ。韓の家の子供にはまだ名がないのか」
「まだ名を付けないのだ。名が決まれば、すぐに名簿に記入して置く」
「あしたの晩もまた来いよ」
「むむ」
こんな問答の末に、黒い人は再び馬に乗って立ち去った。それを見とどけて、厩の者は主人に密告したので、韓は肉をあたえるふうをよそおって、すぐにかの黒犬を縛りあげた。それから砧石の下をほり返すと、果たして一軸(いちじく)の書が発見されて、それには韓の家族は勿論、奉公人どもの姓名までが残らず記入されていた。ただ、韓の子は生まれてからひと月に足らないので、まだその字(あざな)を決めていないために、そのなかにも書き漏らされていた。
一体それがなんの目的であるかは判らなかったが、ともかくもこんな妖物をそのままにして置くわけにはゆかないので、韓はその犬を庭さきへ牽ひき出させて撲殺(ぼくさつ)した。奉公人どもはその肉を煮て食ったが、別に異状もなかった。
韓はさらに近隣の者を大勢駆り集めて、弓矢その他の得物(えもの)をたずさえてかの墓を発(あば)かせると、墓の奥から五、六匹の犬があらわれた。かれらは片端からみな撲殺されたが、その毛色も形も普通の犬とは異っていた。
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『「西斑牙犬の家」(佐藤春夫)』ネット上に正規本文の電子テクストが見当たらないので、この注のために先程(二〇一七年四月二十四日)、ブログのこちらに電子化注しておいた。]
この二つの話の共通點は、駿馬の疲勞が怪事發覺の發端をなすところに在る。一は妖異譚に傾き、一は探偵小説じみてしまつた爲、結末の空氣は大分違ふものになつたが、厩に繫がれた馬がいくら飼葉を與へても瘦せて行つたり、夜中人の乘る筈がないのに甚しく疲勞の色を見せてゐたりするのは、僅かに一つの話の核心をなす無氣味な事實である。
日本人は一種の概念に捉はれて、むやみに猫を化けるものとし、犬を忠勤の例に引くけれど、支那の書物を讀めば犬の妖も決して少くない。「搜神後記」に出てゐる林慮山下の亭などは、男女倂せて十何人かの人が居り、白や黑の著物を著てゐるが、これが宿する者に害をなすといふ評判であつた。郅伯夷なる者がこゝに一宿した時、燭を明かにして坐し、經を誦してゐたところ、夜中に十數人の人間が入つて來て、そこで博奕を打ちはじめた。伯夷がひそかに鏡に照らして見るのに、人にあらずして群犬であつた。そこで燭を秉(と)つて起ち、麁相したふりをして一人の衣を燒いて見たら、間違ひなしに毛の燃える臭ひがした。今度は刀を以て刺す。初めは人の形をしてゐたが、遂に犬になつた。他は悉く走り去つたとある。前の「宣室志」の群犬が盜賊團なら、これは博奕打の一味であらう。妖をなす犬にもいろいろ階級があるらしい。
[やぶちゃん注:「麁相」は「そさう(そそう)」でしくじることの意の「粗相(そそう)」に同じい。
以上は「搜神後記」の「第九卷」に載る以下。
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林慮山下有一亭、人每過此宿者、輒病死。云嘗有十餘人、男女雜沓、衣或白或黃、輒蒲博相戲。時有郅伯夷、宿於此亭、明燭而坐、誦經。至中夜、忽有十餘人來、與伯夷並坐、蒲博。伯夷密以鏡照之、乃是群犬。因執燭起、陽誤以燭燒其衣、作燃毛氣。伯夷懷刀、捉一人刺之、初作人喚、遂死成犬。餘悉走去。
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馬も犬も登場せぬが、もう一つ似た話を附け加へる。徐安は下邳の人で常に漁獵を好み、その妻の王氏は美貌を以て知られて居つた。開元五年の秋、安は海州に遊び、王氏が獨り下邳に暮らして居ると、一人の少年が現れて王氏と慇懃を通ずるやうになつた。ほどなく安は歸つて來たが、細君の態度は頗る冷かである。安はこれを怪しんだものの、歸つたばかりで俄かにその謎を解くことが出來ない。王氏は夕方になると粧ひを凝らして一室に居り、夜更けに見えなくなつて曉に戾つて來る。その出入するところは更に不明である。一日安がひそかに樣子を窺つてゐると、妻は古い籠に乘つて窓から外に出、曉になればまた同じやうにして歸ることがわかつた。安はこの行く先を突き止めなければならぬと思つたので、翌日は妻を一室に閉ぢこめ、自分が女のやうに着飾つて、短劍を袖にし、古籠に乘つて待ち構へた。二更の頃に至り、籠は自然と窓から飛び出し、忽ちに一つの山の頂きに達した。この邊は「廣異記」の話と大同小異で、そこには幕をめぐらし、華やかな灯をともし、酒肴を竝べてあつた。たゞ席に居るのは三人の少年だけで、女裝した安を迎へて、今日はお早いぢやありませんか、と云ふ。安は何も云はず、いきなり短劍を振り𢌞して三人をその場に斃した。然る後また籠に乘つて歸らうとしたが、籠はもう少しも飛ばうとせぬ。夜が明けて見たら、自分の斃した三人はいづれも古狐であつた。安はそれからどうして歸つたか、委しいことは何も書いてないが、安が家に歸つた後、細君は夕方になつてもお化粧をしなかつたといふので「集異記」の話は終つてゐる。
[やぶちゃん注:「下邳」(かひ)は現在の国江蘇省徐州市に位置する県級市の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「開元五年」七一七年。
「慇懃を通ずる」男女がひそかに情交を結ぶの意で、「史記」の「司馬相如傳」に基づく。
「二更」午後九時~午後十時以降の二時間。]
この話は前の戸部令史や韓生に比して大分手輕く出來上つてゐる。徐安は相談相手がなかつたせゐもあるが、一切獨斷專行で、細君と同じ裝ひをして古籠に乘つた。籠が自然と窓から飛び出すのは、令史の馬や箒が空を飛ぶのと同じく、妖魅の致すところなのであらう。妖狐の化けた三少年は、所詮平素好んで漁獵を事とする徐安の敵ではない。事件は何人の手も借らず、安一人の手で解決してしまつた。その點簡單に過ぎる嫌ひはあるが、前の話と對照して見ると、自ら別種の興味を生じて來る。
[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「狐四」に「徐安」として、「集異記」の引用で載る。
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徐安者、下邳人也。好以漁獵爲事。安妻王氏貌甚美、人頗知之。開元五年秋、安遊海州、王氏獨居下邳。忽一日、有一少年狀甚偉、顧王氏曰、「可惜芳艷、虛過一生。」。王氏聞而悅之、遂與之結好、而來去無憚。安既還、妻見之、恩義殊隔。安頗訝之。其妻至日將夕、卽飾粧靜處。至二更、乃失所在。迨曉方囘、亦不見其出入之處。他日、安潛伺之。其妻乃騎故籠從窻而出。至曉復返。安是夕、閉婦于他室、乃詐爲女子粧飾、袖短劍、騎故籠以待之。至二更。忽從窻而出。徑入一山嶺、乃至會所。帷幄華煥、酒饌羅列、座有三少年。安未及下、三少年曰、「王氏來何早乎。」。安乃奮劍擊之、三少年死于座。安復騎籠、卽不復飛矣。俟曉而返、視夜來所殺少年、皆老狐也。安到舍、其妻是夕不復粧飾矣。
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