譚海 卷之二 遊女屋郭内にて家屋敷買調へがたき掟の事
遊女屋郭内にて家屋敷買調へがたき掟の事
○新吉原遊女屋大文字屋市兵衞、安永元年の春類燒にて、翌年夏まで兩國邊にて遊女かせぎ免許有(あり)し時、淺草見付外(そと)代地(だいち)邊(あたり)にて屋敷を買(かひ)別莊に致し居(を)る。同七年の冬、右市兵衞又々神田岩槻町にて、千二百兩に屋敷を買(かひ)候相談極(き)め、手付金二百兩相渡(あひわた)し、賣主より名主へ相屆候處、名主益田又右衞門承知不ㇾ致(いたさず)、是迄支配の内(うち)地主に遊女屋無ㇾ之(これなき)間(あひだ)、相成(あひなる)まじく申候ゆゑ、賣主市兵衞へ斷申(ことわりまうし)、金子相返(あひかへし)候半(さふらはん)と申せし時、市兵衞承引不ㇾ致、已に前年淺草に於て地面相調(あひととのへ)候拙者事に候處、何の障り有ㇾ之候て此度(このたび)不二相成一候哉(あひならずさふらふや)、右の次第届度(とどけたし)と六箇敷(むつかしく)申懸(まうしかけ)、公訴に及候處、御裁許には遊女屋と申候者は四民の下にて、穢多(ゑた)に准(じゆん)じ候者に有ㇾ之候處分限を不ㇾ存(ぞんぜず)御城外(ごじやうがい)ちかくまで家屋敷相調候などと申事、甚(はなはだ)不屆至極に候由、もし分限をはばかり、外(ほか)の名目にて相調候などと申事は、其分にも候へ共、遊女屋の名目を以(もつて)御郭(おしろ)近くにて地面買候事は決して相成難きよし、急度(きつと)叱被ㇾ遊(しかりあそばされ)候に付、市兵衞誤入(あやまりい)り下(さ)げ被ㇾ下(くだされ)候樣に奉ㇾ願候處、御承引無ㇾ之(これなく)、市兵衞並(ならび)に吉原名主どもより、以後御郭近くにて、吉原の者地面相調させ申間敷(まうすまじく)候旨(むね)御證文指上(さしあげ)、市兵衞儀は誤(あやまり)證文指上出入(でいり)相濟(あひすみ)候。右の節江戸惣名主共へも、吉原の者へ見付内にて地面商賣させ申まじく被二仰渡一候(おほせたされさふらふ)。
[やぶちゃん注:標題の読みは『「家屋敷」(いへやしき)「買」(かひ)「調へがたき掟」(おきて)』であろう。
「安永元年」一七七二年。旧暦の同年一月一日はグレゴリオ暦では二月四日。
「淺草見付外(がい)代地(だいち)」代地(だいち)とは、江戸幕府が江戸市中に於いて強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。明暦の大火(明暦三(一六五七)年一月発生)以後は火除地(ひよけち)の設置などの防災上の理由などによって行われた。ここもそれであろう(以上はウィキの「代地」に拠った)。
「神田岩槻町」不詳。ここが問題のある場所、即ち、そこが江戸城外でも江戸城にごく近くであったことが、この地下文書の核心であるので、是非、識者の御教授を乞うものである。
「もし分限をはばかり、外(ほか)の名目にて相調候などと申事は、其分にも候へ共」面白い。公儀がそんな抜け道を口にしてしまっていいものか?
「叱(しかり)」は庶民に科した最も軽い刑の呼称。奉行が白州に呼び出し、その罪を叱るだけに留めたものを指す。
「誤入(あやまりい)り」底本では「誤」の右に編者による『(謝)』という訂正注が附されてある。自分が不当に扱われて契約破棄されたと訴え出たのに、逆に処罰されるというので、青くなったのである。そこで直ちに訴えを「下(さ)げ被ㇾ下(くだされ)候樣に奉ㇾ願」ったと続くのである。
「御承引無ㇾ之(これなく)」主語は奉行所である。
「市兵衞並(ならび)に吉原名主どもより」「より」が不審。彼らに対して、の謂いであるが、格助詞「より」にはそうした用法はない。
「指上(さしあげ)」差し上げさせ。後も同じで、奉行所が證文で以って十把一絡げに遊廓関連の者たちから言質(げんち)をとったのである。これが実は奉行所の狙いだったのではないか? だから法の抜け穴めいたことも言う余裕があったのである。これによって、彼らは向後、城外近くの土地を如何なる目的でも購入することは出来なくなってしまったからである。最後の「江戸惣名主」への禁止上意下達もその計略が透けて見える。
「出入(でいり)」訴訟。]
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