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2017/04/23

柴田宵曲 續妖異博物館 「羅生門類話」

 

 羅生門類話

 

 近江守といふだけで名は傳はつて居らぬが、その館(やかた)に若い男どもが集まつて、今昔の話をしたり、碁や雙六を打つたりして酒を飮んでゐるうちに、安義の橋の話になつた。昔はこの橋へ人も行つたものだが、今は絶えて人が行かなくなつた、と一人が云ひ出すと、いや安義の橋を渡るぐらゐは自分にも出來る、どんな恐ろしい鬼がゐようとも、この御館にある一の鹿毛にさへ乘れば渡れぬ筈がない、と力む男があつた。一座の者は口を揃へて、それは面白い、眞直ぐに行かずに橫道を𢌞つたのでは、譃か本當かわかるぞ、と云ひ、端(はし)なく一場の爭論になつた。この事が近江守の耳に入つて、無益の事を云ひ爭ふ者どもぢや、倂し馬はいつでも貸してやるぞ、と云はれたので、もうあとへ引込むわけに往かぬ。已むを得ず、馬の尻の方に油を多く塗り、腹背を强く結び、輕やかな裝束を著けて乘り出した。已に安義の橋の橋詰めにかゝつた頃は、先程の酒も興奮もさめかけてゐる。日も山の端近くなつて、何となく心細げである上に、人里遠く離れた場所で、振り返つて見ても家の夕煙りが幽かに目に入るに過ぎぬ。橋の半ばまで來ると、思ひがけず人が欄干にもたれてゐる。然もそれが女で、濃い紅(くれなゐ)の袴を長く穿き、口許を袖で覆うて居つたが、馬上の男が通り過ぎるのを見て、恥かしながら嬉しいと思つた樣子である。これが普通の場所であつたならば、男の方も自分の馬に乘せて行きたいところであるが、音に聞えた安義の橋の上では、今頃こんな女のゐるわけがない。必定鬼であらうと分別して、目を塞いだまゝ走り過ぎる。女は男が何も言はずに通り過ぎるのを見て、これはつれない、私は思ひがけぬ場所に捨てて行かれた者でございます、せめて人里までその馬でお連れ下さい、と言葉をかけた。「今昔物語」の作者はこゝに「頭身の毛太る樣に」覺えたといふ形容を用ゐてゐるが、男は馬を早めて行く。あら情(つれ)なの人や、と後から追つて來る女の聲は、もう前のやうな可憐なものではなかつた。男は一心不亂に觀世音菩薩を念じ、駿馬に鞭打つて駈け拔けようとする。鬼は馬の尻に手をかけて引摺らうとしたが、油で滑つて思ふやうにならぬ。男が走りざまに見返ると、朱色の顏は圓座のやうに廣く、額に琥珀色の目が一つ、手の指は三つで五寸ばかりの鋭い爪が生えてゐる。頭髮は蓬の如く亂れ、身の丈九尺ばかりもある鬼であつた。男は肝潰れながら、たゞ觀世音を念じて走るほどに、漸く人里らしいところまで來た。そこまで追つて來た鬼は、また逢はうぞ、と云つて消え失せてしまつた。

[やぶちゃん注:「安義の橋」「あぎのはし」は通常は「安吉の歌詞」で近江国蒲生郡安吉郷の地区内を流れていた日野川(現在の滋賀県中部(湖東地域)を流れる)に架かっていた橋と推定されている。「梁塵秘抄」にも出、かつては近江の名所として京でも知られていたものらしが、それが平安末期にはかくも怪異出来の場所とされて人の通りもなくなったのは解せぬ。

「端なく」(はしなく)副詞で「思いがけなく・出し抜けに」の意。

「頭身の毛太る樣に」「かしらみのけ、ふとるやうに思ひければ」で、「今昔物語集」で頻繁に現われる最大級の恐怖感覚を現わす常套表現であるが、言わずもがな、芥川龍之介が「羅生門」で、下人が門の二階の死骸の中に、松の木端に灯をともして蹲っている老婆を見つけたシークエンスの後に、『下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである。』と表現したことで、誰しも知るところの恐怖の語として今も生きている。

 この話は「今昔物語集」の「卷第二十七」の「近江國安義橋鬼噉人語第十三」(近江の國の安義(あき)の橋の鬼、人を噉(くら)へる語(こと)第十三)であるが、これは既に私の柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(3) 一つ目と片目の注で電子化注を行っている。そちらを参照されたい。]

 

 それから近江守の館までどうして歸つたか、男は殆ど何も覺えぬくらゐであつた。館の人々は彼を出迎へて、口々にいろいろ問ひかけたが、男は腑拔けのやうになつてものも言はぬ。皆で氣を取り鎭めて、漸く安義の橋の顚末を聞くことが出來た。近江守は無益の爭論をして命を失ふところだつたではないかと戒めながら、馬はその男に與へた。男はしたり顏で家に歸り、妻子眷屬に安義の橋の話をして聞かせたが、内心の恐怖は全く去らぬ。その後も屢々家に怪しい事があるので、陰陽師(おんやうじ)に問ふと、これこれの日は重く愼むやうにといふことであつた。その日は朝から門をさし固めて、堅く物忌みをしてゐるところへ、門を敲く者がある。この男には同腹の弟があつて、陸奧守の家來になり、一人の母と一緖に任地に下つてゐたのが、久しぶりに歸つて來たのである。今日は堅い物忌みだから、明日になつたら對面しよう、それまでは人の家でも借りて居るやうに傳へさせたが、もう日は暮れてゐる。自分一人はどうにでもなりますが、連れて來た供の者やいろいろ持つて來た物の始末に困ります、實は母上も疾うに亡くなられましたので、そのお話も申さなければなりません、と云ふ。年頃老母の事は心許なく思つてゐたところではあり、この話を聞くと淚がこぼれて、たうとう禁を破つて逢ふことにした。廂の間の方に通して、兄弟泣く泣く語り合つてゐる。妻は簾の中で聞いてゐるうちに、どういふきつかけからか、二人が組打ちをはじめて、上になつたり下になつたりしてゐる樣子である。どうなさいました、と聲をかければ、早くその刀を持つて來い、と云ふ。氣でもお違ひなさいましたか、喧嘩はおやめなさい、と云つて刀を持つて行かなかつたところ、早く持つて來い、それではわしを死なせるつもりか、といふ聲が聞えたのを最後に、今度は弟が兄を組み伏せて、首をふつと食ひ切つてしまつた。取つた首を携へ、躍り上つて步きながら妻の方を見返つた顏は、夫から聞いた通りの鬼であつた。家内の者どもは皆泣き騷いだけれど、もうどうにもならぬ。鬼の姿は見えず、持つて來た品物とか、乘つて來た馬とかいふものは、すべて何かの骨や頭の類であつた。

 この話は何よりも謠曲の「羅生門」に似てゐる。つはものどもの酒宴に鬼の話が出て、爭論の末に渡邊綱が出かける順序は殆ど同じ事である。尤もこの男は綱のやうな勇士でないから、鬼の腕を切るどころの話でなく、辛うじて安義の橋を渡つて逃げ了せたにとゞまるが、羅生門の鬼が「時節を待ちて又取るべし」と云つたのと、腕を切られもせぬ安義の橋の鬼が「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」と云つたのとは揆を同じうするやうである。謠曲の作者は「今昔物語」のこの話からヒントを得たものと思はれる。

[やぶちゃん注:『謠曲の「羅生門」』観世信光(永享七(一四三五)年或いは宝徳二(一四五〇)年~永正一三(一五一六)年)作の能楽。羅生門に巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝を謡曲化した五番目物の鬼退治物。電子化してもよいが、こちらの宝生流謡曲 「羅生門」の』ページが、謡曲本文の電子化もなされており、いろいろ周辺的事象についての解説も豊富である。必読!

「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)はウィキの「渡辺綱」によれば、『嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもとのつな)』。『通称は渡辺源次』。源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:父は鎮守府将軍源満仲。藤原道長の側近として知られ、後の清和源氏の興隆の礎を築いた名将)『四天王の筆頭として知られる』。『武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に』住み、『渡辺氏の祖とな』った。『摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。また先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである』。寛仁四(一〇二〇)年、『主君である頼光が正四位下・摂津守に叙されると、綱も正五位下・丹後守に叙され』ている。

「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」「……よし! よし!……たとえ今逃げおおせたとしても……何時か必ず再び会って……おのれの命、これ、捕らずに! おくものかッツ!」。

「揆を同じうする」「揆」は「き」で「軌を一にする」と同義。]

 

「前太平記」によれば、綱は雨の夜に羅生門まで出向いて鬼に出逢つたのではない。夜道にひとり佇む美女に同情して馬に乘せ、その家まで送り屆けようとする途中、忽ち鬼女と變じて綱を宙に吊り上げる。そこで刀を拔いて腕を切り落すのであるが、この趣向の端緖は安義の橋の女に見えてゐる。男は更に來し方行く末も思ほえず、搔き乘せて行かばやと考へたが、再案して通過するのである。綱だからこそ腕を切つて脫却し得たので、もしこの男が馬に乘せたら、卽座にお陀佛であつたに相違ない。物忌みに當つて腕を取り返しに來る一段も、「前太平記」では伯母になつてゐるが、これは弟を振り替へたのであらう。取り返すものはないから、命を取りに來たのである。綱のところへ來た鬼も、腕を取り返すばかりでなく、組み伏せて首を食ひ切りたかつたかも知れぬが、相手は賴光四天王中の隨一人で、さう手輕には往かなかつた。

[やぶちゃん注:「前太平記」のそれは「卷第十七」の「洛中夭怪(えうかい)の事 幷 渡邊綱鬼の腕を斬る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。なお、この話は「平家物語」の「劔卷」にあるものとコンセプトは殆んど同じである。]

 

「今昔物語」に現れた鬼の話はいくつもあるが、もう一つ羅生門の參考になるのは「獵師母成鬼擬敢子語」である。兄弟の獵師が山へ行つて、高い木の又に橫樣に木を結ひ、そこにゐて鹿の來るのを待ち構へる。兩人は或距離を置いて向ひ合つてゐるわけである。九月の下旬で夜は極めて暗く、何者も見えぬから、たゞ耳ばかり澄ましてゐたが、鹿の來るけはひがない。そのうちに兄の登つてゐる木の上から、何者か手を下して髮を摑んだ。驚きながらも摑まれた手を探つて見ると、かさかさした人の手である。兄は眞暗な中で弟に聲をかけて、わしの髻(もとどり)を取つて上に引上げようとする者があつたら、どうするか、と尋ねた。現在髻を摑まれた者の言ひ草としては暢氣過ぎるやうだが、弟は目分量で射たらよからうと云ふ。實は今わしの頭を摑んで引き上げるやつがあるのだ、と聞いて、弟は聲を目當てに鴈俣(かりまた)の矢を放つた。正に暗中のウイルヘルム・テルである。慥かに手應へがあつたらしいので、頭の上を探つて見たら、細い手が髻を摑んだまゝ手首から斷ち切られてゐる。鹿は來ず、怪しい手に摑まれたりしたので、その夜は斷念して家に歸つた。兄弟には起ち居も不自由な老母があつたが、二人が山から戾ると頻りに唸る聲が聞える。どうかなされたか、と聞いても返事がない。灯をともして射切つた手を見るのに、どうも老母の手に似てゐる。二人が老母の居間の遣戶(やりど)を明けると、寢てゐた老母が起き上り、おのれ等は、と云つて摑みかゝらうとする。その時例の手を投げ込み、これは御手か、と云つて、またぴたりと締めてしまつたが、老母はほどなく死んだ。兄弟が立ち寄つて見れば、母の手は懷かに手首から射切られて居つた。母が老耄の結果、鬼になつて子供を食はうとしたのだと書いてある。

[やぶちゃん注:以上はかなり知られた「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十三)である。私は既に「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」の注で電子化注しているので参照されたい。]

 

 かういふ話は後世の化け猫によくある。化け猫の場合は大概猫が食ひ殺して、老母に化けてゐるやうであるが、これは母がそのまゝ鬼になつたので、羅生門の鬼のやうな恐ろしいものではない。倂し羅生門の鬼もうしろから綱の兜のしころを摑んでゐる。切られた腕があとに殘ることも同じである。老母は片腕切られたまゝ死ぬのだから、何かに化けて取り返しに來る一條を缺くのは云ふまでもない。

「山嶋民譚集」(柳田國男)にある駄栗毛左京は、佐渡の本間氏の臣下であつた。風雨の夜に馬が急に進まなくなつたり、熊の如き手で馬の尾を摑まれたりするのは、渡邊綱の佐渡版に近いが、これは越後の彌彥山附近に住む農夫彌三郎の母親で、惡念增長して鬼女となつたものであつた。左京に腕を切られた後、毎晩のやうに戸を敲いて哀願し、身分を白狀して腕を返して貰ふのだから、大した鬼ではない。片腕返還の際、左京との約束によつて永久に佐渡を去つたとある。

[やぶちゃん注:「駄栗毛左京」の姓は以下に示す柳田國男の原典では「だくりげ」と読んでいる。但し、サイト「福娘童話集」のこちらを見ると、「たくもさきょう」(歴史的仮名遣なら「たくもさきやう」)と読んでいる。

 以上は柳田國男の「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の中の河童伝承の手接ぎ等に続く、「羅城門」の標題パートの中の「鬼」(頭書きパート)附近に出る。当該の「羅城門」の前半部分に当たる、「鬼」パートの前後のみを「ちくま文庫」版全集から引く。本文自体は連続した記述になっているため、ここだけを抜き出すとやや読み難いのは悪しからず。本文は漢字カタカナ混じりである。但し、底本は新字新仮名。ルビは拗音がないが、そのままで附した。頭書きは省略した。しかし、こういう文章を新字新仮名にするというのは、まっこと気持ちの悪いキテレツな文章が出来上がるという美事な例と私は存ずる。打ちながら、虫唾が走った。

   *

羅城門 肥前ト甲斐・常陸トノ河童談ヲ比較シテ最初ニ注意シ置クべキコトハ、後者ニハ馬ト云ウ第三ノ役者ノ加ワリテアルコト也。但シ釜無(カマナシ)ノ川原、又ハ手奪川(テバイガワ)ノ橋ノ上ニ在リテハ、馬ハマダ単純ナル「ツレ」ノ役ヲ勤ムルニ過ギザレドモ、追々研究ノ歩ヲ進メ行クトキハ、此ノ系統ノ物語ニ於テハ、馬ガ極メテ重要ナル「ワキ」ノ役ヲ勤ムべキモノナルコトヲ知ル。ソレニハ先ズ順序トシテ羅城門(ラジヨウモン)ノ昔話ヲ想イ起ス必要アリ。昔々源氏ノ大将軍摂津守(セツツノカミ)殿頼光ノ家人(ケニン)ニ、渡辺綱通称ヲ箕田源二ト云ウ勇士アリ。武蔵ノ国ヨリ出タル人ナリ。或ル夜主人ニ命ゼラレテ羅城門ニ赴キ、鬼卜闘イテ其ノ片腕ヲ切リ取リテ帰リ来ル。其ノ腕ヲ大事ニ保存シ置キタルニ、前持主ノ鬼ハ摂津ノ田舎ニ住ム綱ノ伯母ニ化ケテ訪問ン来タリ、見セヌト云ウ腕ヲ強イテ出サシメ之ヲ奪イ還(カエ)シテ去ル。事ハ既ニ赤本乃至(ナイシ)ハ凧(タコ)ノ絵ニ詳(ツマビラ)カナリ。羅城門ニハ古クヨリ楼上ニ住ム鬼アリテ悪(アシ)キ事バカリヲ為シ居タリシガ、一旦(イツタン)其ノ毛ダラケノ腕ヲ箕田源二[やぶちゃん注:渡辺綱の通称。]ニ切ラレシ頃ヨリ、頓(トミ)ニ其ノ勢ヲ失イシガ如クナレバ、多分ハ夫ト同ジ鬼ナランカ。而シテ其ノ取リ戻シタル腕ハ帰リテ後之ヲ接ギ合セタリヤ否ヤ、後日評ハ此ノ世ニ伝ワラズトイエド(イエドモ)、兎(ト)ニモ角(カク)ニモ近代ノ河童冒険譚ト頗(スコブ)ル手筋ノ相似タルモノアルハ争ウべカラズ。羅城門及ビ腕切丸ノ宝剣ノ話ハ、予ノ如キハ四歳ノ時ヨリ之ヲ知レリ。頼光サント太閤サントヲ同ジ人カト思イシ頃ヨリ之ヲ聞キ居タリ。全国ニ於テ之ヲ知ラヌ者ハアルマジト思エリ。然(シカ)ルニ、海ヲ越ユテ佐渡島ニ行ケバ、此ノ話ハ忽(タチマ)チ変ジテ駄栗(ダクリゲ)毛左京ノ武勇談トナリテ伝エラル。左京ハ佐渡ノ本間殿ノ臣下ナリ。或ル年八月十三日ノ夜、河原田(カワラダ)ノ館ヨリノ帰リニ、諏訪(スワ)大明神ノ社(ヤシロ)ノ傍ヲ通ルトキ俄(ニワカ)ノ雨風ニ遭(ア)ウ。乗リタル馬ノ些(スコ)シモ進マザルニ不審シテ後ノ方ヲ見レバ、雨雲ノ中カラ熊ノ如キ毛ノ腕ヲ延バシテ馬ノ尾ヲ掴摑(ツカ)ム者アリ。大刀(タチ)ヲ抜キテ之ヲ斬リ払エバ鬼女ノ形ヲ現ジテ遁(ノガ)レ行キ、其ノ跡ニ一本ノ逞(タクマ)シキ腕ヲ落シテ在リ。之ヲ拾イテ我ガ家ニ蔵シ置キタルニ、其ノ後毎晩ノヨウニ彼ノ処ニ来テ戸ヲ叩キ哀願スル者アリ。九月モ中旬ニ及ビテ終(ツイ)ニ対面ヲ承諾シタル処、這奴(コヤツ)ハ又化ケズトモ既ニ本物ノ老婆ナリキ。羅城門ノ鬼ノ如ク詐欺・拐帯(カイタイ)ヲモセズ、又何等ノ礼物ヲモ進上セザリシ代リニハ、散々ニ油ヲ取ラレテ閉口シ、悉(コトゴト)ク其ノ身上ヲ白状シタル後、イトド萎(シナ)ビタル右ノ古腕ヲ貰イ受ケテ帰リタリ。彼女ノ言(ゲン)ニ依レバ、以前ハ越後国弥彦(ヤヒコ)山附近ノ農夫弥三郎ナル者ノ母ナリ。悪念増長シテ生キナガラ鬼女トナリシ者ナルガ、駄栗毛氏トノ固キ約束モアリテ、再ビ此ノ島ニハ渡ラヌ筈ニテ国元へ還リ、後ニ名僧ノ教化ヲ受ケテ神様トナル。今ノ弥彦山ノ妙虎天(ミヨウトラテン)卜云ウ祠(ヤシロ)ハコノ弥三郎ガ老母ナリ〔佐渡風土記〕。越後方面ニ伝エタル噂ニ依レバ、神ノ名ハ妙多羅天(ミヨウタラテン)トアリ。岩瀬ノ聖了寺ノ真言法印(ホウイン)之ヲ済度(サイド)シ、今ハ柔和ナル老女ノ木像ト成ッテ阿弥陀堂ノ本尊ノ脇ニ安置セラル。但シ話ノ少シク相違スルハ、腕ハ我ガ子ノ為ニ斬ラレタリト云ウコト也。越後三島郡中島村ニ弥三郎屋敷ト云ウ故迹(コセキ)アリ。鬼女ハ此ノ地ノ出身ナリト云ウ。弥三郎或ル夜鴨網(カモアミ)ニ出掛ケテ鳥ヲ待チ居クルニ、不意ニ空中ヨリ彼ノ頭ノ毛ヲ摑ム者アリ。持ッタル鎌ヲ振イテ其ノ腕ヲ斬リ取リ家ニ帰リシガ、母親ハ腹ガ痛ムト言イテ納戸(ナンド)ニ臥(フ)シ起キ出デズ。翌朝戸ノ外ヲ見レバ鮮血滴リテ母ノ窻(マド)ニ入レリ。老婆ハ片腕無キ為ニ鬼女ナルコト露顕シ、終ニ家ヲ飛ビ出シテ公然ト悪行ヲ営ムコトトナリタリト云ウ〔越後名寄(エチゴナヨセ)四〕。此ノ話ニハ言ウ迄モ無ク前型アリ。『今昔物語』ノ中ニモ之ト似タル鬼婆ノ腕ノ話アリテ、倅(セガレ)ガ「スワ此カ」ト切リタル片腕ヲ母ノ寝処ニ榔擲ゲ込ミタリトアル話ナリ。而モ弥三郎婆ノ話ハ越後ニハ甚ダ多シ。刈羽(カリワ)郡中鯖石(ナカサバイシ)村大字善根(ゼコン)ニテハ、狼(オオカミ)ニ成ッテ漆山(ウルシヤマ)ト云ウ処ニテ人ヲ食イ、後ニ我ガ子ノ為ニ退治セラレテ八石山(ハチコクサン)ニ入ルト伝ウ。赤キ日傘ニ赤キ法衣ノ和尚ガ葬式ニ立ツトキハ、サテサテ有難イトムライジャト云イテ棺ヲ奪イ中ノ屍骸(シガイ)ヲ食ウ故ニ、飛岡ノ浄広寺ノ上人(シヨウニン)ノ代ヨリ青キ日傘ニ青キ法衣卜改メタリ〔日本伝説集〕。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *]

 

 綱の切つた腕も、左京の切つた腕も、もとの持主に還つた以後の消息はわからない、「譚海」の記載によると、大坂の藤堂家の藏屋敷には化物の足を切り取つた話があり、天滿の別當の許に納めてあつたさうである。うしろ足らしく、節のところから切られて居り、犬の爪のやうなものが生えて居つた。月山(ぐわつさん)の刀で切つたといふことが傳はつてゐるだけで、それに關する武勇傳もなし、化物の正體に就いても全く記されてゐない。

[やぶちゃん注:これは「譚海 卷之二 藤堂家士の子切取たる化者の足の事」である。リンク先の私の電子化注でお読みあれ。]

 

 

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