南方熊楠 履歴書(その11) ロンドンにて(7) 大英博物館内に於ける殴打事件
小生大英博物館に在るうち、独人膠州湾をとりしことあり。東洋人の気焰すこぶる昂(あが)らず。その時館内にて小生を軽侮せるものありしを、小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり。それがため小生は館内出入を禁ぜられしが、学問もっとも惜しむべき者なりとて、小生は二カ月ばかりの後また参館せり。当時このこと『タイムス』その外に出で、日本人を悪(にく)むもの、畏(おそ)るるもの、打たれたものは自業自得というもの、その説さまざまなりし。小生はそのころ日本人がわずかに清国に勝ちしのみで、概して洋人より劣等視せらるるを遺憾に思い、議論文章に動作に、しばしば洋人と闘って打ち勝てり。
[やぶちゃん注:「独人膠州湾をとりし」ドイツ帝国が中国北部の山東半島南海岸に所有していた膠州湾(こうしゅうわん)租借地のこと。ウィキの「膠州湾租借地」によれば、一八六〇年、『プロイセン王国の遠征艦隊がアジアを訪問』、この時、膠州湾周辺地域を調査、翌年、『プロイセンと清の貿易協定が調印されたが、その後のドイツ軍部は中国探検で『膠州湾を理想の艦隊基地として』狙っていた。日清戦争後の一八九六年には、当時、『ドイツ東洋艦隊の司令官だったアルフレート・フォン・ティルピッツ提督はこの地域を個人的に調査した。ドイツは三国干渉でともに清に対して恩を売ったロシア帝国やフランスに比べて中国での足場を築くのが遅れ、まだ他の列強の手のついていない地域を物色し、最終的に山東半島に目をつけ』ていた。一八九七年十一月一日のこと、『山東省西部の巨野県(きょやけん、現在の菏沢市)でドイツ人宣教師二人が殺される事件が起こ』った(下線やぶちゃん。以下、同じ)。この事件はドイツのヴィルヘルム二世皇帝に『「ドイツ人宣教師の保護」という侵略の口実を与えた。清国政府中央がこの事件の詳細を知るより前に、上海にいたドイツ東洋艦隊司令官フォン・ディーデリヒス』は十一月七日に『膠州湾占領作戦開始の命令を受け』、十一月十四日、『ドイツ海兵隊は長期航海途中の上陸と陸上訓練とを口実に膠州湾に上陸、戦闘なしで膠澳の総兵衙門にいた清国兵』ら千人以上に対して『退去を命じ、湾岸全域を占領した。清国側はこの部隊を撤退させようと無駄な努力を続け』、十一月二十日に清独交渉が始まったが、翌一八九八年一月十五日、『宣教師事件の和解という結果で終わった』。数ヵ月後の三月六日、ドイツ帝国は独清条約を結び、膠州湾を』九十九年間、『清国政府から租借することになった。この租借地に、この周辺最大の膠州の町は含まれていなかったが、湾の水面全部と湾を囲む東西の半島、湾内外の島々は租借地となった』。その周囲の幅五十キロメートルの『地域は中立地帯となり、ドイツ軍の通行の自由が全面的に認められ、ドイツ政府の承認なしで中国側が命令や処分を下すことは出来なくなった』。六週間後の四月六日、『この地域は公的にドイツ保護下に置かれ』、一八九九年七月一日に条約港として開港した、とある。南方熊楠がここに書かれた殴打事件を起こしたのは、一八九七年十一月八日のことで、まさに宣教師殺害事件の一週間後、膠州湾湾岸のドイツ帝国による占領の一週間前に当たる。
「その時館内にて小生を軽侮せるものありしを、小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり」「南方熊楠コレクション」の注によれば、前注に示した日、大英博物館図書閲覧室内に於いて『読者ダニエルに暴行を働いたと』され、『その日の』南方熊楠の日記にも『「午後博物館書籍室に入りさま毛唐人一人ぶちのめす」と出る』とある。ネットのQ&Aサイトの回答によれば、それ以前からも、同博物館利用者の一部に、東洋人に対する人種差別感情があったらしく、熊楠に対して口汚く罵ったり、唾を吐きかけたりをする嫌がらせをする者がおり、そのイギリス人が、日本が日清戦争後に手に入れた遼東半島を三国干渉で手放したことをからかったことから、自分に対しての嫌がらせならともかく、祖国日本の侮辱は我慢ならぬ、とそのイギリス人を殴打したとある。
「それがため小生は館内出入を禁ぜられし」同じくQ&Aサイトの回答によると、前記事件では、博物館理事会にかけられたものの、幸いにして入館の一時停止処分だけで済んだとある。南方熊楠が大英博物館への完全出入り禁止処分を受け、帰国せざるを得なくなったのは、その翌年に引き起こした騒擾トラブルによって(後掲される)であった。]
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